2010年12月29日水曜日

馬券の回収率についてなど

 競馬のテラ銭は通常なら25%、単勝式なら20%と聞いていた。
 これは単純に馬券を買いつづければ、回収率がその割合に収束するということでもある。これはどんなギャンブルでもそうだろう。勝つための方式が存在しないかぎり。
 パチンコなどのテラ銭はその店の心積もり次第だろうが、競馬では法律でその割合が定められている。それが25%であり、20%だという。競馬法のわけのわからない文章を眠くなりながら読んでみて25%という数字はどこにもなかった。ついでにいうなら単勝式および複勝式にたいする特別な還付という項目もぼくは見つけ出すことができなかった。結局、直接的な25%という数字はなく、ちょっと複雑な数式を読み解いてみると、だいたい、25%ということになるらしい。ぼくがざっくり計算してみたら73.8%ぐらいだった。
 眩暈がするような数値だ。
 こんな不利なギャンブルを毎週、やっているか、と思うと吐き気すら覚える。
 ちなみに競馬法には次のような項目もある。

競馬法
第10条 払戻金を交付する場合において、前3条の規定によつて算出した金額に1円未満の端数があるときは、その端数は、これを切り捨てる。
2 前項の端数切捨によつて生じた金額は、日本中央競馬会の収入とする。

 いわゆる端数効果である。
 当たり前だが、これは確実に回収率を下げる役割を果すことになる。これってどのくらいなのだろう……。これ次第で毎年の回収率はかわるはずだ。
 単勝について調べてみた。

 全レースの全通り全頭の勝ち馬のオッズの総計 ÷ 出頭総数

 これで単勝の回収率がでるはずだ。これはいわゆるテラ銭の率に収束するはずなのだから――その差が端数分ということになる。JRAが嘘をついていなければ。
 次がその結果。


出頭総数オッズ総計回収率
20014711634276.60.72749
20024867135926.90.73816
20034744235552.00.74938
20044730932783.30.69296
20054770234514.60.72355
20064874935580.20.72987
20074854735829.40.73804
20084990936466.30.73066
20094952935107.10.70882
20104960035027.20.70619


 ええっ、てなもんである。
 去年、今年は回収率はだいたい70%。これはテラ銭が30%ということを意味している。なんだ、これは。おれが競馬を再開したからか? それにしても端数効果5%とは……。どんだけ馬券購入者の財布からぶんとっているんだよ……。

 そして、この結果を見ると、単勝式のテラ銭は20%というのは都市伝説かなにかだったらしい。

2010年12月23日木曜日

かつて住んでいた街

 大学生だったのはもう二十年以上も前のことだ。
 当時――卒業したばかりのころは四年間はずいぶんと長かったように感じていたけれど、今にしてみれば、五十年近く生きてしまうと、一瞬だったような気がする。ほとんど思い出すこともない。
 それがふと、その街のことを思い出したのは知り合いの名前を思い出したからだった。あのころ、友だちとよく行っていたスナックはどうなっているのだろうか……。Googleのストリートビューでそこをたずねてみた。ところがマップで見ても当時、住んでいた場所もわからない。
 もちろんストリートビューに映しだされる光景は当時とは全然、ちがう。
 記憶とも一致しない。
 ストリートビュー上でうろうろとさまよい、行ったり来たりしているうちにかつて自分が住んでいたアパートの場所を見つけた。たしか、このあたり――先に見つけていた友人が住んでいたあたりはすっかりかわってしまい、アパート自体が消えてしまっていたのだが、ぼくが一年だけ住んでいたアパートはまだ、存在していた。当時ですら築二十年という古いアパートだったのだが。
 それから二十年以上、たっているにもかかわらず、同じ古いたたずまいをストリートビューに見せていた。
 驚き、唖然とし、ほんのすこしだけおぞましい気がした。

2010年12月6日月曜日

SSD換装2

シー・エフ・デー販売 WJ3シリーズ2.5インチSATA接続SSD DRAM搭載(DDR2-128MB) JM612コントローラー Trimコマンド&NCQ 対応CSSD-SM128WJ3

 かつてはパドック第一主義だった。
 パドックを見ずして馬券を買うなかれ。それを主義としていた。それなのに鞍替えしたのは一にも二にも勝てなかったからだ。瞬間的には天才じゃないか、と思うことはあってもトータルだと容赦なく負けつづけていた。
 年間での回収率はいいときで約83%という体たらくだった。
 馬券を買うのを止めては復活してあいかわらず負けていた。
 パドックへ行くのを完全に止めたのはちょっとした思いつきからだった――もしかしたら予想ソフトをつくったら浮くのはではないか、と。馬券をはじめたころ、スーパーパドックのスピード指数である買い方で浮くと思い、百万をぶちこんですべてすってしまったことがある。しかし、それは毎回、一万ずつだったため、試行回数がすくなかったためではないか……。
 一年、つづけてみれば、浮いたのでは?
 当時はまだ、自分には馬を見る目があると信じていたころだったのでロジックを捨てるの躊躇はなかった。しかし、今、手元にスーパーパドックはなく、自分でスピード指数を計算するしかない。
 いろいろと試行錯誤をくりかえし、プログラムを作成した。
 それを一年、試してみようと、今まさに試みているところなのだが、問題がひとつあった。
 計算に時間がかかるのである。
 ファンがわんわん、唸り、パソコンは一生懸命、計算してくれているのだが。
 それがすこしでも速くなるのではないか、と思いついたのが、パソコンのSSD換装である。ノートブックの方ですでにSSD換装していたのだが、デスクトップでもやれば、多少なりとも計算時間が短縮できるのではないか――。
 なぜなら頻繁にディスクアクセスを繰り返していることは自明のように思えたからだ。もっとも計算をがんがんやっている部分もかなり重く、そこがボトルネックになっているようにも思えた。
 換装のやり方は前回で承知している。
 あとはいろいろと物を載せているデスクトップの本体を引っ張り出して蓋を開いてみるだけである。苦労するだろうなぁ。中は埃だらけなんだろうなぁ、と懸念しつつ、作業してみて――一日かかると思っていたのに、一時間ほどで済んでしまった。これには自分でも驚いた。DELLのパソコンだったのだが、マニュアルがネット上にあり、しかもネジを外す必要もなく、ハードディスクを取り外すことができた。
 さっそくFireFoxを動かしてみてちょっと感動してしまった。軽いのである。今まで重くてじっと待つことも多かったのに。ハードディスクの容量は50Gほど、すくなくなってしまったが、これならOKだ。
 あとは競馬の予想である。
 そんなことで的中率が上昇するわけでないことはわかっている。
 プログラムを走らせてみてやはり、と思った。
 ほとんどかわらない。
 一生懸命、考えてくれているのだが、処理時間は体感としてはかわらない。

 ああ、やはりという気分だ。
 ただ、一点、いいこともあった。ファンがほとんど回らないのだ。かつてはうなりつづけていたのに。もっともおかげで計算が終わったかどうかがすぐにはわからなくなってしまったが。

2010年11月29日月曜日

森博嗣「喜嶋先生の静かな世界」

森博嗣「喜嶋先生の静かな世界」

 もしかしたらマイフェバリットな一冊ということになるのかもしれない。
 どうしてぼくはこんなに感銘を受けてしまったのだろう。そんな気分だ。はでなアクションやトリックがあるわけでもないし、殺人が起きるわけでもない。そもそもこれはミステリーではないだろう……。もちろんツイストはあるし、ぼくは逆に最後のツイストは不要だろう、とも思っている。あの一行がなければ、なぁ、と。おしい、と。
 もともと森博嗣の小説のファンというわけではなかった。「すべてはFになる」はさすがに読んでいたけれど、あれはまぁ、プログラマーにとってはまんまな「F」だったからなぁ。逆にまさかなぁ、と思いつつ、読み進めたものだった。今なら64ビットが一般的だから老衰ですな。
 それでもこの作品は深く感銘を受けた。
 どうしてだろう。
 何が起きるというわけではないのだけれど、読まされてしまった。本を置くことができなかった。淡々としているにもかかわらず、何かに満たされた気分を味わいつつ、読み進んだ。まさに憧れすら感じる日常だからだろうか。仙人の生活に憧れる俗人という感じ――言葉にすると、どこかちがうような気がするが。
 そして、主人公が自分は凄くないんだよ……、と独白するシーンなど、泣きそうになってしまった。

2010年11月13日土曜日

SSD換装

 Mac Air、欲しいなぁ。手持ちのThinkPad X60もそろそろ、へたってきたことだし。ディスクはいつも99%使用の状態だし。調べてみると、ThinkPadが我が家にきたのは2006年11月24日(金)のことだった。5年目かぁ。バッテリーも二代目だ。
 そんなこんだでつらつらあっちこっちのサイトを見ていたらMac AirはハードディスクのかわりにSSDを使用している、とのこと。それで気が迷ってしまった。気づいてしまったのだ。ThinkPadのハードディスクをSSDに換装すれば、いいじゃね? と。単純にコストを比較すると、圧倒的にSSD換装の方が低コストだ。手間はかかるが、Mac Airも購入したらいろいろと設定をしなければ、ならないから結局はいっしょだ。それに元々、動いているノートブックパソコンがあるのにあらたに新しいノートブックを買うというのも好きじゃない。なんか、無駄な気がするんだよねー。事実、無駄だし。
 で、Amazonで購入した。IDEインターフェースのSSD、64Gというしろもろを。これなら32Gパンパンの容量が楽になる、というもの。
 が、ところがである。
 なんとまぁ、ThinkPad X60のインターフェースはSATAであったのだよ。最初にちゃんと調べておけよ、という話だ。返品と再購入してようやくSATAインターフェースのSSD、64Gが届いたのは昨日のことだった。はー。
 換装のやり方についてはさすがに当たりはつけておいた。
 ThinkVantageでUSBハードディスク(うちにはお立ち台があるのだ)にリカバリー・メディアを作成してそこからバックアップを戻せば、よいだろう……。
シー・エフ・デー販売 WJ3シリーズ2.5インチSATA接続SSD DRAM搭載(DDR2-128MB) JM612コントローラー Trimコマンド&NCQ 対応CSSD-SM64WJ3

 できなかった。

 まず、リカバリーメディアがUSBハードディスクにつくれなかった。そして、バックアップもThinkVantageではUSBハードディスクにはつくれず、しかたなくWindowsのバックアップ機能でバックアップしたのだけれど、こいつがThinkVantageのレスキュー機能から認識されない。
 すっかりはまってしまった。
 Cygwinからddコマンドをつかって強引にHDDからSSDへコピーしようとしたが、果たせず。しかたねー、外付けのCD/DVDドライブを買うか、と思ったが、結局、ハードディスクをコピーできれば、いいはずなのでそういうソフトがないか、とググってみた。そうしたらあったのだよ、明智くん。「EASEUS Todo Backup」というのがそれだ。パンパンのハードディスクにインストールし、ハードディスクを丸ごとSSDへコピー。なんとあっさりSSD換装が終了してしまった。コピーには時間がかかってしまったけれど。64GのSSDのパーティションが32Gにぶった切られているのはこちらもググって「EASEUS Partition Master 6.5.1 Home Edition」というソフトで55Gに拡張した。
 64Gといいつつ、実際には64Gにはならないというのはまぁ、世の常だ。
 あと、ThinkVantageのアクティブプロテクションとDiskkeeperは無効にした。SSDはデフラグなんざ不要だからである。

2010年11月10日水曜日

ヨイチサウス

 最初はダメだと思っていた。
 2008年2月9日東京競馬メイン。白富士ステークスのパドックだ。このレースに去年から追いかけていた――意識していた馬がでていたのだ。ヨイチサウス。パドックの最初の方の周回ではどうもいまいちだった。気合乗りが足りない。いつもならもっと気合が入った歩き方をするのだが。
 今日は買えないかもしれないな。
 今までにも、そう思いながらの買い続けてきた馬だった。
 ほんとうに買えそうもない――というのも、今年になってから東京競馬の馬券の買い方を変えてしまったからだ。単勝オンリー。ヨイチサウスはオープンで勝つにはちょっと力不足と考えていた。1000万クラスを勝ち上がるとき、現場にいれなかったので馬券を買えなかったのが、つくづく残念だ。
 そこまでヨイチサウスに執着するのはぼくにとって確信の馬だったからだ。

 はじめてヨイチサウスの馬券を買ったのは去年の1月28日第10レースでのことだった。ちょうど一年前だ。
 その頃、年初からの馬券が絶不調で、パドックで見つける馬はことごとく外しまくっていた。その日もとことんダメだったのだが、第10レースのパドックで、一頭の馬に心魅かれた。それがヨイチサウスだった。確信。この馬はくる、と。一頭だけが抜けて見えた。
 オッズは単勝8000円の超穴馬。
 単複の馬券を買った。ほんとうにその一頭だけの馬券だった。
 レースはヨイチサウスの逃げではじまり、ゴール直前まで逃げ粘り――直線の坂では後続を突き離すほど――、最後の最後、坂を上り切ったあとの直線で一番人気の馬にかわされてしまった。
 それでも複勝1280円。
 得たのは金ではなかった。また、馬券を買っていくために必要な確信というやつだ。
 負け続けの馬券人生だが、それでも時折、くる、という確信を持つことができた馬がいる。ワイルドバッハ、ターフメビュース、リトルガリバー……。そういう馬とのほとんど偶然に等しい出会いがなければ、馬券を買い続けることなど、できなかった。
 そして、そういう一頭がヨイチサウスというわけだった。

 パドックに雪が舞いはじめた。
 白富士ステークスのパドックはヨイチサウス以外の馬でもほとんどよさそうな馬は見当らなかった。かろうじてぼくのアンテナにひっかかったのはメテオバーストぐらいだった。それでも普段なら疑問符のつく馬だった。
 藤沢厩舎ということで期待していたピサノパテックはかかりすぎていて買う対象にはなり得なかった。
 くりかえしくりかし目の前を通りすぎていく馬をひたすら見つ続ける。
 ふと気づく。
 ヨイチサウスの雰囲気がかわっていた。歩容に力強さがでてきた。そうやって全体を比較すると、ヨイチサウスが抜けているように思えた――買いだ。
 そして、トーホウアランも悪くないことに気づいた。
 パドックの周回が終わった。
 騎乗合図。
 ピサノパテックはその間、小さくその場で回されていた。その一瞬、落ち着いた歩容を見せた。ぎょっとなる。むちゃくちゃ、いい馬格だったのだ。さすが藤沢厩舎。油断も隙もあったもんじゃない。きっちりと仕上げてきていた。

 買い目はピサイノパテック、ヨイチサウス、トーホウアランの三頭の単勝。
 去年のヨイチサウスのことが頭をよぎる。やはりヨイチサウスの一着はむずかしいか――と。複勝なら獲れるかもしれないが、単勝は難しいか、と。
 前走、16着だったが(当然、その馬券も買っている)、あれは中山だった。ぼくの見立てではヨイチサウスは中山よりも東京の方が合っている。複勝圏は充分、ありうる。だが、単勝はなぁ。くるとしたらやはりピサノパテックか。
 レースは案の定、ヨイチサウスの逃げではじまった。
 下り坂になる向正面では五馬身ほど離したが、コーナーにはいるころには後続との差はなくなった。最終コーナー。ヨイチサウスが先頭。いい感じだ。手応えは充分、残っている。右後ろに続く二番手が気になるのか、やや苛立った感じが見えるが。直線。坂。ヨイチサウスは後続を突き離せない。
 後続の足色がいい。
 やはりだめか。
 レース実況も後ろの馬に焦点を合てている。カメラの映像もそちらにふられた。ピサノパテックが間を抜けてくる。カメラが先頭に戻ってきた。
 その先頭を走っている馬がヨイチサウスだとは思ってなかった。
 画面から消えている間に二番手に抜かれてしまったとばかり思っていた。
 ヨイチサウスだった。粘っている。抜かれそうで抜かれない。実況も驚いている。
 ピサノパテックが二番手集団の中にいた。
 そっちがきてくれても馬券は的中だ。
 しかし――。
「残せっ残せっ残せっ、江田っ」
 去年の悪夢が一瞬、頭をよぎる。坂を上り切った瞬間、どっと抜かれてしまうんじゃないか。坂を上り切った。二番手集団が固まってヨイチサウスに追いつく。
「江田、頼むっ」
 あっ、と思った瞬間が、ゴールだった。
 ぎりぎり、頭ひとつ、ヨイチサウスが先着していた。

 ヨイチサウス一着、単勝3970円。二着ピサノパテック。トーホウアランは五着だった。馬連3万7630円、馬単8万480円。
 獲ったのはヨイチサウスの単勝だけだったが――。

2010年11月4日木曜日

鳥居みゆき「ハッピーマンデー」



 鳥居みゆきの「結婚してました」宣言にはひっくり返ってしまった。
 元々、雑誌のR25だったと思うけれど、そこで鳥居みゆきが紹介されていてその日か、その翌日にテレビで観たのが、はじめてだった。ネタは「まさこ」――紙芝居ネタで、まだ、モノを動かしたり、前に戻ったりという演出がつけくわえられる前だった。実は――はっきりとしないのだが、一枚だけ絵が描かれているバージョンも観ている。
 それからすぐに「社交辞令でハイタッチ」がはじまり、それを視聴しているくらいだった。
 そのころはまだ、鳥居みゆきを甘く見ていた、といえるだろう。
 メディアから流れてくるのは「まさこ」だったからだ。

 ところがあるとき――日記によると、2008年4月25日のことだった。
 ふと思いつき、YouTubeにアップされている鳥居みゆきの映像を片っ端から観た。
 メディアにでているせいもあって「まさこ」が大部分だったけれど、中にライブのものがあり、そのいくつかのネタに――「こっくりさん」「妄想結婚式」にひっくり返った。
 ただ者じゃない。半分くらい天才かも、と。
 DVDがでるということは「社交辞令でハイタッチ」で既知だったので、さっそく「ハッピーマンデー」を購入する気になったのはそういうわけだった。YouTubeを観てなかったらおそらく見過ごしてしまっていたことだろう。
 そして、「ハッピーマンデー」を見終ったその日の夜に、鳥居みゆきの「結婚してました」宣言を知った。時間的にはちょうど、観ているまさにそのときに、発表していたらしい。「ハッピーマンデー」の宣伝ライブで。

 「結婚してました」宣言を知ったとき、まず思ったのは「まさこ」をやめるつもりだな、ということだった。YouTubeで観た様々なテレビの番組での映像や、「社交辞令でハイタッチ」などを観ていて感じていたのは「まさこ」をやりつづけるのはかなり辛いだろうな、ということだったし、まさにかなり辛くなってきているように思えた。
 「ハッピーマンデー」のバックボーンには「まさこ」がいる。
 「まさこ」が生まれるまでの物語として構成されているからだ。
 だから「まさこ」が鳥居みゆきから「ヒットエンドラーン」と産声を上げるシーンにはある種の感動がある。それはそれまでの鳥居みゆきをYouTubeで垣間見ていたせいもあるかもしれないが。
 だから「ハッピーマンデー」の構成をしたのはだれなのか、強く興味を覚えていて――最後に、流れるテロップで鳥居みゆきの名前を見たとき、確信したのだ。
 こいつ、天才だ、と。

 そして、「ハッピーマンデー」の中では「まさこ」の死まで描かれている。

 「結婚してました」宣言を知る前に「ハッピーマンデー」を観ることができたのは幸運なことだったかもしれない。聞いたあとでは印象がずいぶん変わっていたことだろう。
 中に収録されているネタ――完成度は高いと思う――は鳥居みゆきの才能や、作家性を示すものだが、「結婚してました」宣言は作家の限界を示すものかもしれない。まちがわないで欲しい。作家としての限界ではなく、作家というものの限界だ。ある意味、人間というものの限界かもしれない。
 人は生み出したものを制御できると幻想を持っている存在だ。
 「まさこ」は鳥居みゆきが生み出したものだが、その存在はすでに自走しはじめていた。だからこそ、鳥居みゆきは「まさこ」に食い潰されはじめていた自分を取り戻すために、「まさこ」の死を選んだのかもしれない。それとも、そのことについてすら鳥居みゆきは自覚的なんだろうか。

 なぜなら死んだ「まさこ」の履いていた靴には「鳥居みゆき」の名前が……。

2010年11月1日月曜日

びっくりした

いきなり10年ぐらいやっていたホームページが消えていた。infoseekのサービスが停止になっていたのである。まったく更新してなかったわけじゃないので、ちょいとふざけんな、という気分だ。いくら無料だったとはいえ。
これでWindSurfの記録はなくなってしまったのだなぁ(まる)

2010年10月17日日曜日

馬券生活(11)

 しかし、結局、ぼくがパスポートをうけとることはなかった。
 金がなかったのである。
 リトルガリバーで叩きだした十万は一ヶ月かからずに消えてなくなった。幸いなことにそのあと、その友人から連絡がくることもなかった。サイパン旅行の話自体、どこかへ消えた。
 末期であることはまちがいなかった。
 体調もけしてよくなかった。
 左耳の中がいつもじゅくじゅくと化膿していて透明な液が滲み出て止まらなかった。最初はパチンコをやっているとき、防音ために耳の穴にパチンコ玉を入れていたことが原因だった。新鮮な空気に触れなくなるため、耳かきでつけた傷が化膿して治らなかったのだろう。ところがパチンコをやめたというのに一向に完治する気配はなかった。
 延命だけのために、馬券購入の金額を百円単位にし、競馬場へ行くことも完全にやめてしまった。PAK購入のスタイルに変更し、購入スタイルも変化した。資金はKさんから借金した。
 馬連――流し馬券を基本にし、軸を決めての流し馬券。ただし購入金額はそれぞれに厚みをつけ、的中すれば、二倍になるように計算した。そのためにPAKの通信ソフトがオッズを受信すると、そのデータを読みこんで、組み合わせを指定すると、金額を自動的に算出するプログラムを組んだ。
 データ競馬だったが、半年ぐらいしか保たなかった。
 馬券生活に入った元々のきっかけ――パドックを見れば、馬券が獲れるはず――ということすら否定した馬券だった。
 混乱していた。
 すでに生活だけではなく、自覚がなかっただけでぼく自身もまた、破綻してしまっていたのだろう。
 Kさんへの金の無心がひんぱんになってきたある日。
 彼女がいった。
「わたしはヒモを養うつもりはないのよ」
 小さく囁くような声だった。


 年がかわり、中山競馬場に開催が戻ってきた。
 資金はなかった。そのはずなのにぼくはまだ競馬場へ通っていた。
 暇なときはスカパーの無料の映画を観ているか、パソコンをいじっているか、喫茶店で本を読んでいた。
 近くのハローワークへ行って様子をうかがったこともある。
 就職先よりも仕事を探す人の方が多くてげんなりした。
 限界だとわかっていたが、それに対応するために競馬以外のことをすることがどうしてもできなかった。喫茶店でパソコンをいじっていたところへ電話があった。久保田さんだった。瞬間、吹きでる汗に眼鏡をいつも曇られていた久保田さんの姿が頭に浮かんだ。
 仕事をしないか、いう。
 受けることにした。
 一年間、ずっと切らずにいた髪は肩までとどくロングヘアになっていた。そのまま、面接へいった。すでにKさんとは別れることになっていた。引っ越し費用がないのでそれができるまで待ってくれ、とぼくは頭を下げた。
 再開した仕事をほんとうにやっていけるか、どうかはわからなかった。
 ブランクが長すぎた。
 ところが、やってみると、以前よりもむしろ自由に仕事ができたことに自分で驚いた。スキルが上がっていたのだ。馬券まみれの間、暇なとき、パソコンをいじってばかりいたが、それがいつのまにか、スキルアップにつながっていたらしい。もどるつもりはなかったので将来に向けての投資という意識はまったくなかったのだが。
 そして、引っ越し費用を溜めたぼくはKさんのアパートをでた。

2010年10月13日水曜日

馬券生活(10)

 生活はすでに破綻していたし、ある意味、それはパチンコへ行かなくなった段階で確定していた。それなのにぼくには再就職のことも生活を建て直すことも頭になく、考えることは馬券のことばかりだった。
 馬券以外の方法で状況を打開しようという発想がまったくなかったのだ。
 資金も尽き、できることは過去の馬券を調べてみることだけだった。今までの購入した馬券はエクセルで管理してある。データを洗い出し、調べてみたところ、単勝は回収率が七五%ほど、複勝は一〇〇%をわずかに越えていた。
 これは何を意味するのか?
 単勝を買わずに、複勝だけだったのならぼくは浮いていたということだ。
 それは複勝は保険という意識があったからこその結果なのかもしれないが、すくなくとも失われた五百万近い金はそのまま、そっくり残されていたということだった。
 その事実にパソコンの前でげんなりとしてしまったぼくはふと、競馬におけるオッズの歪みに気づいた。長期的に見れば、単勝と複勝の回収率は同じになるはずだ。同じ馬を買うことができ、控除率、還元率は同じなのだから――端数切り捨てによる歪みは考えていない――。そうであるなら単勝の平均オッズは複勝のそれの三倍になるはずだ。複勝がくる可能性は単勝の三倍なのだから。
 ところが、単勝のオッズがかならず、複勝の三倍以下になってしまうケースが存在する。
 単勝のオッズが三倍以下のときだ。
 複勝のオッズが一倍を下回ることがない以上、それは必然だ。
 そうであるなら単勝三倍以下の場合、複勝を買う方が合理的だ。そちらの方が確率的――期待値的に有利な馬券なのだから。
 その簡単な条件で今までに買った馬券をコントロールしてみた。単勝三倍以下の馬は複勝を買うという制御。結果は衝撃的だった。回収率一二七%。なんとプラスだった。トータルの控除率が八〇%であることは考えれば、大幅な浮きだ。
 気づくのが遅すぎた。
 すでにぼくには資金がなく、経済的に破綻していた。


 後年、競馬で喰っていた――一時的とはいえ――人と知り合った。その人は大学を卒業して二年ほど、競馬で本当に喰っていたのだという。けれど、最終的にはやはり破綻してしまい、社会復帰した。
 彼のことを尊敬するのはぼくとはちがい、まちがなく喰えていた瞬間があったということだ。ぼくは貯金を食い潰していただけだった。ほとんどその人と競馬の話をしたことはなかったが、二度とあの道には戻るつもりはないようだった。
 ぼくはどうだろう。
 子供の頃は飽きっぽい性格だと親になじられてばかりいた。それなのにどうしてこんなに馬券に執着するのか……。そんなとき、数すくない友人から連絡があった。今年の冬、サイパンへ遊びに行かないか、という。まだ春にすらなっていないというのに。
 ぼくが無職で馬券まみれであることを彼は承知していたので、馬券が取れて金があったらな、と答えておいた。たぶん今の状況では無理だろう、と内心では思っていた。パスポートも持ってないし。
 その週末の中山競馬場だった。
 Kさんに借金しての競馬。メインレース前の新馬戦――ぼくにはメインレースなんか関係ない――で気になる馬を見つけた。リトルガリバー。どういう背景の馬なのか、まったく知らなかったが、ぼくはその馬で勝負した。
 リトルガリバーの競馬はぼく好みの前へ行って粘る競馬だった。
 中山の坂を上り、粘りに粘ったところで後ろからきた馬にかわされた。が、それも二頭まででなんとか、三着に滑りこむ。複勝一五〇〇円だった。一万円いれていたので十万円コース。その瞬間だけならサイパン旅行代が出る金額だった。冬までにその金が残るとは思えなかったが、もしかしたらなんとかなるかもしれない。
 そういう気になった。
 パスポートを申請することにした。

2010年10月12日火曜日

馬券生活(9)

 ホッカイマティスやターフメビュースのような思い出深い馬との出会いはG1クラスではほとんど、なかった。
 ひとつにはそういうレースを好まなかったということもあるが――G1レースのパドックは混みすぎだ――、まったくいないわけではなかった。アブクマポーロはそういう一頭だった。今だに彼が最強の馬だとぼくは思っているが、ちなみにアブクマポーロを負かしたメイセイオペラは速い馬――このちがいをわかってもらえるだろうか。
 二頭とも中央競馬ではなく、地方競馬の馬だが、まちがいなく、強い馬であり、速い馬だった。
 中央でも通用する馬だと思えたし、ターフでも通用するように思えた。メイセイオペラの方が芝向きだとは思っていたけれど。
 そう嬉々とKさんに話したところ、彼女にいわれた。
「アブクマポーロが中央で走ったとき、あなたはだめだって切ったじゃない」
 そういわれるまでまったく認識してなかったのだが、ぼくは中山で行なれた地方交流戦のときのアブクマポーロを見ていたのだった。
 第四十三回産経賞オールカマー。
 地方競馬から強い馬がきている、と妙にパドックがざわついていたことは覚えている。しかし、ぼくの目にはアブクマポーロはまったく映ってなかった。Kさんからどうか、という問い合わせの電話があり、それではじめてまじめに見たのだった。そして、ぼくははっきりと「切り」と答えた――。
 結果はアブクマポーロにとっても不本意なものとなった。八着。
 ぼくがアブクマポーロを意識したのは東京大賞典で中央の馬――トーヨーシアトルに敗れ、復帰第一戦だったと思う。川崎競馬でおこなわれた川崎記念レースだった。そのときのぼくはパチンコの収入も途絶え、資金も充分でなく、Kさんに借金して競馬場へ通っていた。
 トーヨーシアトルが参戦していたためだろう。
 アブクマポーロの一番人気だったが、オッズは一・七倍ほどだった。そのオッズはアブクマポーロにしては高いものだとは知らなかったが、ぼくはそのときの財布の中身全部をアブクマポーロの単勝に賭けた。全財産勝負してもいいと思うほど、オーラを放っていたのだ。すばらしい存在感だった。財布の中身は七千円しか残ってなかったけれど。
 その馬券以来、アブクマポーロの馬券をぼくが買うことはなかった。
 あまりにも人気するため、買う気になれなかったのだ。それでもそれなりにレースはフォローしていた。マイルチャンピオンシップ南部杯参戦で水沢競馬場へ遠征したときも最初から買えない馬券だとはっきりしていたので、あとでKさんが録画したビデオを見せてもらった。彼女は勝負にいっていたのだろうと思う。
 録画のパドックを見ながらぼくは思わず、つぶやいた。
「――やばいかも……」
 そのつぶやきにKさんが黙りこんだ。
 輸送の影響なのかもしれないが、ぼくの目にはアブクマポーロがかかりすぎているように見えた。もともとパドックでは気合いを表に出す馬なのだが、それにしてもすぎているようだった。
 それでもアブクマポーロは強く、圧倒的な足でゴール前の直線で先行していたメイセイオペラへと迫ったが、届かず三着。あと百メートル直線が長ければ、という競馬だった。
 次のアブクマポーロとメイセイオペラの直接対決は大井で、こちらはアブクマポーロの圧勝。まぁ、勝つでしょう、という状態だった。しかし、そのレースを見てはじめてぼくはメイセイオペラが強い――速いことを認識した。だてにアブクマポーロに土をつけたわけわけじゃない、と。
 それなのに中央競馬のダートのG1にでたメイセイオペラを買えなかったのだけは痛恨だ。さらに痛恨なのは一年後の同じダートG1でメイセイオペラの単勝馬券で勝負してしまったことだ。メイセイオペラは二着で破れたのだが、パドックですでに不安材料ばりばりだったのだ。嫌な予感のする状態だった。それなのに、前の年に買えなかった痛恨さが馬券を購入させてしまった……。
 一着にきたとき、馬券を買ってない痛恨よりも買って外れた馬券の方がよい。そう考えてしまったのだ。
 この一件を見てもぼくがギャンブラーとして三流以下であることはあきらかだ……。

2010年10月10日日曜日

馬券生活(8)

 そんなぼくにできたのはパチンコへ通うことだった。
 以前、無職になったとき、二ヶ月ほどパチンコで喰っていたことがあるのだ。学生のころにはバイトのかわりにパチンコで稼いで中古のオートバイを買ったこともある。パチンコはカジノ賭博とちがってランダムではないので勝つ方法が存在する。ぼくが知っているその方法が有効なら小銭程度は稼げるだろう……。
 最初の一ヶ月はパチンコで二、三十万、稼いだ。ただし、毎週末、競馬へ通っていたので金はまったく残らなかった。競馬に吸いこまれた。
 二ヶ月目、三ヶ月目になると、店側が出玉を絞りはじめた。
 勝つこと自体がむずかしくなった。
 パチンコで喰うつもりなら新しい店を開拓すべき頃合いだった。それはわかっていた。わかっていたが、パチンコは仮の姿だと考えている自分がいた。馬券で喰うのが正しい姿だと。負けつづけていたにもかかわらず。
 タイミングの悪いことにちょうどそのころ、パチンコで体感器打法という必勝法が問題になりはじめていた。そのためなのだろう。時々、手を休めて打っていたら新人の店員に注意された。
 手を休めるな、打ちつづけろ、と。
 客がどのようなペースで打とうが関係ないだろう、とカチンときて怒り狂い、以降、その店に行くことをやめてしまった。
 それは収入がなくなったということも意味していた。


 馬券はあいかわらず、負けつづけていたが、どういうわけだか、前年と同じ九月の中山競馬場だけはプラスになった。
 その時だったか、次の中山開催のときだったか、前の年に取りそこねた複勝五八八〇円のホッカイマティスの馬券にけじめをつけることができた。去年と同じく最終レースだった。やはり雨しぶりの馬場だったと記憶している。もちろん、複勝五八八〇円ということはなく、複勝一三六〇円だったが、充分だった。一万を突っこんでいたので十万をゲットした。
 不思議なことにずっと馬を見つづけると、そういう出会いが時折、ある。
 馬券をくれる馬という意味ではなく、くるときがパドックではっきりとわかる馬だ。今日は調子が悪いな、とわかる馬だ。どの馬にもそういう記憶をもてれば、馬券でプラス計上も夢ではないのかもしれないのだが――ホッカイマティスはそういう一頭だったし、ターフメビュースもまたそうだった。
 最初の出会いは中山競馬場だったと記憶している。
 パドックで発見し、スピード指数で――このころにはスーパーパドックの指数の見方もかなり堂にいってきていた――ハナにたてそうだ、と踏んだ。たしか前残りぎみの馬場コンディションだったのだ。
 単勝複勝を賭け、見事に一着へきた。
 単勝五六一〇円、複勝七四〇円。
 三十万円コースだった。
 二着の馬も穴馬で馬連は六五二九〇円の万馬券だった。もちろん買ってなかったけれど。
 うれしさあまってパドックからKさんへ電話した。
 よろこびを伝えようとする前に、向こうから先に興奮した声が響いてきた。なんと彼女は馬連を買っていたのだ。二着に着たのはクラサンゼットいう彼女が買いまちがえで万馬券を獲ったときの馬だったのだ!
 おそるべき、ツキの太さである。
 お互いによく馬券を買っていたが、互いに勝負にいった馬券でガツンと獲れたのはこのときぐらいだった。お互いにガツンと外すことはよくあったのだが。
 ターフメビュースとの再会は府中の東京競馬場でだった。
 しかし、このときのターフメビュースはくる気がせず――疲れているように見えた――、馬券は買わなかった。見(ケン)をきめこむ。もともとターフメビュースの競馬はハナに立って逃げるか、二番手追走の形で最後の直線で前に出て粘るタイプだったので無理な気がしたのだ。結果、ターフメビュースは三着にもこなかった。
 三度目の出会いはさらに二、三週間後の東京競馬場の最終レースだった。
 ぼくの目には買い。
 これを買わずして何を買うというのだ、という状態。
 問題はこの日のぼくは負けがこんでいて資金がなかった、ということだった。単勝一万円、複勝二万円いきたいところだったが、財布の中には二万しかなかった。その二万円をターフメビュースの単勝一点に賭けた。
 保険の複勝馬券はなし。
 熱い馬券だった。
 最終コーナーを二番手でまわったターフメビュースがすぐに前の馬をかわし、先頭に立ったときぼくは勝利を確信した。ターフメビュースの勝ちパターンだった――。そのまま、そのまま、とぼくはつぶやきつづけた。ターフメビュースは一着でゴールした。単勝二〇八〇円。ターフメビュースによる二度目の穴馬券だった。
 次の出会いを楽しみにしていたのだが、そのあと一レース走ったあと、引退してしまった。

2010年10月8日金曜日

馬券生活(7)

 元旦でも競馬が開催されていることをご存知だろうか。
 関東では元旦であっても南四関東のどこかで競馬が開催されている。むしろ元旦だからこそ、開催されるのかもしれない。
 前年をマイナスで新年を迎えたぼくは当然、やる気満々で開催開場の船橋競馬場へ行くつもりだった。
 ところが当日はみぞれまじりの雨であまりにも寒く、さすがにめげた。Kさんのアパートで競馬を観戦することにした。彼女は競馬のためにスカパーに入会していたのである。まだ、SPAKには登録していなかったので馬券は買えなかったが。
 内容はほとんど、競馬場に流されている場内テレビと同じものだ。
 パドック、返し馬を見てぼくは遊びで一頭を選んだ。
 ちゃんと口にだしてKさんに宣言した。この馬、と。
 ひさびさのお金を賭けないで選ぶ行為だった。驚くなかれ、その日、行なわれたレースの中で――たしかみぞれで最終レースは中止になったので、十レースだったと思う――ひとつのレースを除き、選んだ馬はすべて三着以内にきた。
 Kさんも驚いていたが、ぼくも驚いた。
 そんなに当たるのなら馬券を買っていれば、よかった。買う手段はなかったが。
 後悔してもはじまらなかった。
 その年のぼくの最初の競馬は三日の船橋競馬だった。最後の最後で勝負にいった馬券を外してマイナス。年初を占うには苦い結果だった。
 何か歯車が狂っている。
 そんな感じだ。
 しかし、どうすることもできず、ずるずると一月は負けた。二月も負けた。三月も同じだった。プラスになることなどあるのか、という気分だった。結局、勝ち越したのは仕事をやめて馬券で喰おうとした最初の月――九月だけだったのだ。
 自分の馬を見る目がおかしくなってきているのか――。
 最悪なのは選んだ馬が四着にくることが頻繁にあったことだ。複勝は三着までなので、馬券は紙屑になるが、馬を見る目もまったく外れているわけではないという状態。日経賞のステイゴールドのようなものだ。そして、あのときもぼくの目にはテンジンショウグンもシグナスヒーローも見えてなかった……。
 崩壊しはじめたダムを堰き止めることはできなかった。
 四月には資金が尽きた。


 もちろん、連敗してしまったことが一番の原因だったが、競馬場へ通ううちに賭け金が上がってきてしまったことも大きかった。最初、二五〇〇円からはじめた賭け金が徐々に上がり、一万から二万へ。おそらく資金に限りがあるという認識がなければ、もっと賭け金を引き上げてしまっていたにちがいない。
 事実、後年、一点十万という馬券を買ってしまったこともある。
 賭け金が迫り上がっていったのは負けた金を取り戻すため、というだけではなかった。暗い快感のためもあった。一〇〇〇円や二〇〇〇円程度では満足できなくなっていたのだ。そして、外れることすら快感になっていた。パンチドランカーのように、打たれることにすら快感を覚えていたのだ。
 だから白旗を上げたはずなのに三日後にはあきらめきれなくて競馬通いをはじめていた。
 予備にとっていた――いざというとき、方向転換するときに必要な――準備金に手を出した。最後のひとしぼりだった。それでもなんとか粘れたのも最初のうちだけで、すぐに負けがこみはじめて残金が三十万というところまで追いこまれてしまった。
 その間、三ヶ月。
 それだけ粘れたのは馬券の調子が悪くなかったということではまったくなかった。Kさんのところに居候させてもらい、散髪すら節約する生活をしていたのだ。
 そして、地方競馬を捨て中央競馬だけに絞った。
 それでも負けた。
 そんな状態になってもぼくは再就職しようとはしなかった。

2010年10月4日月曜日

馬券生活(6)

 馬券生活で問題は地方競馬だった。
 というのもパドック派だったとはいえ、ぼくにはまだまだスーパーパドックの出力したスピード指数が必要だったからだ。ところがスーパーパドックはJRA-VAN(当時)のデータを利用していたため、地方競馬には対応してなかった。
 しかたないので地方競馬用にスピード指数は自前で計算することにした。
 基本的な考え方はアンドリュー・ベイヤーの「勝ち馬を探せ!」でわかっている。
 簡単なプログラムを組み、データは競馬新聞から自分で入力した。
 これで毎日、競馬場へ通うことが可能になった。あっという間にぼくは馬券まみれになり、これまでの人生ではなかったくらい真っ黒に日焼けしてしまった。パドックの陽射しのせいである。勝ちつづけていれば、楽しい毎日だったのだろう。あいにく、十月、十一月、十二月と競馬場に通いつめたぼくは、九月の浮き分などあっさり吐き出してしまい、まさに転がるように負けていっていた。エクセルでつけていた収支はグラフ表示すると急角度で右下へ落ちていった。
 そして、その年の有馬記念はKさんと中山競馬場へ行った。
 彼女は他の競馬仲間と客席で、ぼくはパドックでの競馬だったのだが、想像以上の人ごみにパドックで馬を見ることはおろか、馬券を買うことすらままならないような状態だった。
 それでも九レースだったか、武豊騎乗のスーパーパドックの指数で抜けているにもかかわらず、一番人気ではない馬がいた。パドックを見ることはできなかったので迷ったが、指数的にはかなりその馬は強い。勝負した。
 それで一日のプラス五万円という目標を達成したぼくはKさんを残して帰宅した。有馬記念はグリーンチャンネルで観戦することにした。ところがグリーンチャンネルのパドックであまりにも武豊のマーベラスサンデーが抜けて見えたのでKさんのPAKを借りてがつんと勝負してしまった。
 結局、マーベラスサンデーはゴール寸前でシルクジャスティスに差されてしまい、複勝のみの的中でわずかにマイナス。思わず、悲鳴を上げてしまった。
 Kさんは競馬仲間がシルクジャスティスを応援していたこともあり、そのおいしい馬券を見事にゲットしていた。単勝八一〇円、馬連一二四〇円。
 ぼくが多少、パドックで馬を見れることなど問題でないほど、博才という意味では彼女の方がすぐれていた。なにしろ、ぼくの回収率はせいぜい八割でしかなかったが、彼女のそれは九割をこえていたのだ。その上、ギャンブラーに必要なツキも彼女は持ちあわせていた。
 たとえば、彼女が馬券を買いまちがえたのを二度ほど目撃したことがあるが、その両方とも的中していた。一度などクラサンゼットいう地方競馬からの転厩馬をまちがえて買っての万馬券だ。馬連四五三七〇円であった。
 シルクジャスティスの馬券はまさに彼女のツキの太さゆえだろうし、そして、サニーブライアンもそうだった。
 馬に興味などなく、馬券ばかりに集中していたぼくだが、それでも印象に残っている競走馬の一頭に皐月賞と日本ダービーで二冠を獲ったサニーブライアンがいる。たぶん世間的にはあまり強い馬ではなく、たまたま運良く勝てたという評価なのかもしれないが、ぼくはあの馬は強かった、と思っている。というか、二冠をとって弱いという評価は理解できない。菊花賞に挑戦できなかったのは故障のせいだったことだし。
 ところがぼくは昇級戦のころからサニーブライアンのことは気にしていたにもかかわらず、馬券はすこしも獲っていないのだ。皐月賞もダービーも弱いと評価するマスコミに流されしまって馬券を買わなかった。
 ところがKさんはしっかりと獲っていた――。


 閑話休題。
 いずれにしても有馬記念が終わったころにはぼくの競馬の負けは百万をこえていた。

2010年10月2日土曜日

馬券生活(5)

 ところが収支がプラスになったのは最初の一ヶ月だけだった。


 必勝本のたぐいこそ、信じていなかったが、何度も読み返していた競馬の本は存在する。
 梶山徹夫氏という馬券師の「馬券で喰ってどこが悪い」という本がそれで、Kさんとぼくは尊敬をこめて筆者のことを「梶山さん」と呼んでいた。面識はまったくなかったが、競馬場で何度もご本人を見かけたことがある。
 浦和競馬場ですれちがったとき、ぼくの顔を見て、あれ、こいつ、どこかで見かけたことがあるぞ、という表情を梶山さんが浮かべた。実際はそう思っていたかどうかはわからないが。
 「馬券で喰ってどこが悪い」を買ったのはまだ、ぼくが仕事をしていたころだった。この本がぼくに馬券で喰うということを考えさせた面もあるのかもしれない。
 中身は必勝本のたぐいとは一線を画し、景気のいい話はすくなく――それでも馬券師としてテレビ出演せざろうえなくなり、最後に日本ダービーで百万円を一点賭けする話は感動的ですらある――、一年三百六十五日、馬券で喰うために、ひたすらパドックに通う日々――。
 この本ではじめてぼくは関東でなら中央競馬の東京、中山にくわえ、南四関東地方競馬の大井、川崎、浦和、船橋をあわせて毎日、どこかで競馬をやっているということを知った。ただし、夏競馬の間は開催が福島競馬場、新潟競馬場へうつってしまうので遠征になってしまうらしいが。
 そして、この本はぼくに重要なことを教えてくれた。
 ――パドックに立つ。
 パドックの重要性は浅田次郎氏の「勝負の極意」の中でも述べられている。
 そのことはKさんには劣等感だったらしく、よくパドックがわからない、とぼやいていた。パドックで馬を見て判断できるぼくをよく羨ましがっていたが、それがほんとうにそうなのかはまた、別問題だ。もしかしたらそう思っているだけなのかもしれない。それに見ることができたとしても馬券につながらなければ、意味がない。


 梶山さんをはじめて見かけたのは大井競馬場でだった。
 南関東の地方競馬、中央競馬へと足繁く通いはじめたぼくは九月二十八日の中山競馬場の最終レースで横山典弘騎手{ノリ}騎乗する馬をパドックで見つけ、単勝二三六〇円の馬券を獲っていた。馬連は一〇二九〇円の万馬券だった。ぼくには関係のない馬券だが。
 そして、その翌日の大井競馬場で梶山さんを見かけた。たしか、無職になってはじめての大井競馬場だった。
 梶山さんは連れともにパドックから本馬場へ向かう途中だった。身振りをまじえながらにこにこ笑って連れに話しているのが聞こえた。
「昨日、ノリが最終で見事に差してきてね……」
 驚いた。
 ――そうか。昨日、あのパドックのどこかに梶山さんもいたのか……。
 そして。
 梶山さんもまた、あの馬を買っていた――。
 もちろん梶山さんは馬連で万馬券をとっていたにちがいない。しかし、それでもその事実はぼくに自信を与えてくれるには充分な出来事だった。


 たとえば、第四十六回日経賞――。
 その日もぼくは中山競馬場の二階フロアのベランダからパドックを周回する競走馬をチェックしていた。
 オッズを見ると、横山典弘騎乗のローゼンカバリーが抜けた一番人気。ほかにG1クラスの馬がいなかったのでこれはしかたなかった。しかし、ぼくにはローゼンカバリーはかかりすぎているように思えた。悪くはない、しかし、イレこみすぎている……。
 目につく馬は一頭しかいなかった。
 関西からの参戦していたステイゴールド。当然、その馬へ単勝複勝で勝負した。くれば、単勝七三〇円だ。
 レースは最終コーナーから直線を向いたところで、ローゼンカバリーが好位外目から抜け出した。ローゼンカバリーにとってわるくないレース展開だった。そのまま、ゴールまで押し切ってしまってもおかしくない――ところがそのローゼンカバリーに張りつくように江田照男騎乗のテンジンショウグンがついてきていた。ターフジーニアスの単勝万馬の立役者、江田照男である。
 後続を突き放した二頭の足色はほとんどかわらなかった。
 ところが中山競馬場の急坂の途中でローゼンカバリーの足色が一瞬に鈍った。テンジンショウグンがローゼンカバリーをかわし、先頭に立つ。ローゼンカバリーはテンジンショウグンを追ったが、差は詰まらない。足色はいっぱいだった。そのローゼンカバリーに後続が迫り、その馬群の中にステイゴールドがいた。
 ――来いっ。
 ステイゴールドが抜けてきた。よし。テンジンショウグン、ローゼンカバリー、ステイゴールドで三着。複勝は確保した。そう確信した。
 ステイゴールドはローゼンカバリーに並びかける勢いだ。
 ――ついでだ。追いつけっ。
 そう思った瞬間、鋭い切れ味でステイゴールドをかわす馬があらわれた。加藤和宏騎乗のシグナスヒーロー。さらに鋭い足色でローゼンカバリーと並ぶ。
 ぼくは心の中で悲鳴を上げていた。
 このままだとステイゴールドは四着だ。
 ――追いついてくれっ。
 しかし、ゴールはすぐそこでステイゴールドは前には届かなかった。
 四着。
 思わず喚き出しそうになった。奥歯を噛みしめ、ぼくはさっさと次のレースのためにパドックへ向かう。外れ馬券のことを気にしていてもしかたない。その途中で、場内の雰囲気がおかしいことにはじめて気づいた。
 静かだった。
 場内が異様な空気のまま、黙りこんでしまっていた。おそらくだれもが唖然としていたのだ。的中を喚く声も飛んだ一番人気の馬を罵しる声も聞こえなかった。奇妙な静けさの中、あちらこちらからぽつりぽつりと、これってすげー馬券じゃねーか、という声が聞こえはじめた。場内が興奮に包まれだす。
 パドックのまわりも異様だった。普段ならぼくのようにさっさともどってくる馬券オヤジたちがすこしもあらわれず、がらんとしていた。
 眼下にパドックへもどってくる梶山さんの姿がぽつんと見えた。
 レースは審議もなく、すぐに着順は確定した。
 パドックの電光掲示板の表示が結果に切りかわった。払い戻しが表示される。複勝の馬番でテンジンショウグン、シグナスヒーロー、ローゼンカバリーが入着したことがわかった。ステイゴールドはやはり着外だった。
 払い戻しを見て一瞬、馬連は二万ぐらいか、と思ったが、すぐに桁がちがうことに気づいた。二一三三七〇円。うおおおおっ、という歓声が競馬場全体を揺がした。三連ものがない当時としては史上最高の払い戻しだった。場内が普段とはちがう興奮に包まれる。
 梶山さんを見ると、電光掲示板の結果に驚いた表情を浮かべた。それからジャケットの内ポケットから馬券を取り出し、それを確認してから大事そうに馬券をポケットに戻した……。
 唖然とした。
 ――獲ったのか……。獲れたのか……。
 ため息がでた。
 もどってくる馬券オヤジたちは皆、興奮し切っていた。
 すげーすげー、千円、買ってたら二百万だぜ、という声から、だれも買ってないからこんな金額なんだよっ、と喚く負けおしみの声までが聞こえた。
 まるで買っている人間など世の中には存在しないといわんばかりに喚き散らし、回りに同意を求めつづけるオヤジがちょうどぼくの隣にきてしまった。うざかったのでぼくはそれを黙殺してパドックを見下ろした。よほど、的中した人間がいるから払い戻しがあるんだよ、といってやろうかと思ったが。
 あの男は取ったんだよっ、と梶山さんを指さしたらどうなるだろう、とも考えた。
 オヤジがぼくの横顔を見つめていることはわかったが、拒絶していることがわかったのだろう。反対側の男にでかい声で話しかけはじめた。
 瞬間、反対側の男が怒りだした。
「うるさいっ。黙れっ。外したくせにっ。うるさいんだよっ」
 その反応にオヤジが気色ばんだ。
「なんだとっ。じゃ、おまえは獲れたのかよっ」
「あたりまえだっ。獲れたにきまっているじゃないかっ」
 一瞬、黙りこんだオヤジが詰め寄った。
「嘘つくなっ。馬券、見せてみろっ。おいっ」
 ほんとうか、と思い、ぼくも隣から男が差しだす馬券をのぞきこんだ。
 ふいにオヤジが大笑いしだした。
「なんだ、一番人気の複勝じゃねーかっ」
 ローゼンカバリーの複勝百三十円。
「あたりまえだろうがっ。あんな馬券、獲れるやつが阿呆だっ」
 狙って獲れるやつがいるわけはないというわけだ。
 ところが。
 ぼくは狙ってとった人間がいることを知っていた。
勝負の極意 (幻冬舎アウトロー文庫)

2010年9月29日水曜日

馬券生活(4)

 夏競馬の季節が終わり、ひさしぶりに開催された中山競馬場。無職になってはじめてのパドックは残暑きびしく、とても暑かった。
 二階フロアの、本馬場に背を向けたパドック側のベランダ。そこからぼくは手すりにもたれかかってパドックを見下ろした。ぼくの正面には刻々と変化するオッズの電光掲示板が見え、眼下にはパドックを周回する競走馬たち。右手には馬主専用席が見えた。
 無職になってはじめてのパドックはさすがに緊張した。心の奥底では自分には馬を見る目があると信じていたが、はたしてそれが正しいのか……。
 その日のメインレースは武豊騎乗の馬が一番人気だった。ダンディコマンド。小倉で強い勝ち方をしてきた馬で二番人気は岡部騎乗のクロカミ。
 残暑でひどく暑い日だった。
 ダンディコマンドは馬格もよく、確実に抜けていた。ぼくにはそう見えた。周回する馬を次々にチェックしながらやはり武しかいない。この馬への単複と考えていた。
 馬券で喰うために、やり方として単勝と複勝の一点買いと決めていた。単勝一に複勝二の割合い。複勝が一・五倍つけば、たとえ、二着か、三着でもチャラだ。それを保険として単勝を勝負と考えた。
 枠連、馬連などはあまりにもいろんな買い方が考えられるので、シンプルにいくつもりだった。単勝複勝だけなら一頭の馬のことだけを考えれば、よい。
 もちろん、控除率のちがいも承知していた。
 馬券の控除率は約二五%だが、複勝と単勝は約五%、払い戻し金に加算されることになっている。つまり複勝と単勝の控除率は約八〇%ということだ。このことは長期間、馬券を買いつづければ、ボディブローのように効いてくるだろう。そして、ぼくは長期間、馬券を買いつづけるつもりだった。できるなら一生。
 のちにアンドリュー・ベイヤーが「勝ち馬を探せ」の中で馬券は単勝で行くべきである、とのたまっていて意を強くしたものだった。ちなみにアンドリュー・ベイヤーの馬券作法はスピード指数――言葉はちがっていたが――をつかっての予想だった。スーパーパドックの解説書ではオリジナルような書き方をしていたけれど、考え方自体は昔からあるものらしかった。
 馬券で喰うことを考えはじめたぼくは仕事を辞める前に何冊か、競馬関連の本を読んだ。
 多くはない。古典ともいうべき「勝ち馬を探せ」をふくめて五冊ほどだった。いわゆる必勝本はまったく読まなかった。理由は簡単で必勝法があるならそれを本にする必要はない――そうであるなら必勝本は必勝と謳っているだけだ。
 とくに馬券の払い戻しのシステムは必勝法が一般に知られれば、有効性をうしなうのだからなおのこと、必勝本というものはありえない。
 同じ理由で、よくある馬券の予想サービスにも手を出す気にはなれなかった。
 第一、他人の予想で馬券が的中してもつまらないではないか。


 ところが馬券の先輩であるKさんは予想サービスにも登録していたし、モンテカルロ式と呼ばれる必勝法にも手を出していた。ぼくには当たり前と思えることも彼女にはそう見えていないのだ、と気づくのにしばらくかかった。
 ひとつには彼女にとって馬券は投資のつもりがあったからかもしれない。
 銀行に預けても金利がほとんどつかない――そんな時代だ。投資先を探していたのも当然だった。
 モンテカルロ式というのはその買い方でカジノの胴元{ハウス}を破産させたという伝説の手法だった。それを馬券の買い方に応用した――というのがその必勝本の謳いだった。
 詳細は忘れてしまったが、発想は次のようなものだ。
 一番人気の馬が勝つ確率は三分の一である。また、二番人気も三分の一近い勝率である。それなら単勝オッズ三倍以上の一番人気の馬か、二番人気の馬を買えば、いい、という。
 ルーレットの必勝法といわれる――もちろん必勝法ではない――赤黒の確率が二分の一であることを基本に、賭け金を倍々に上げていくというやり方がある。外れても賭け金を倍にしてあるので次の的中ですべてを取り戻せる、というものだ。
 実はこれにはふたつの大きな誤謬が存在する。
 まず取り戻せるから勝てるということではない、ということ。確率二分の一の目に倍々ゲームで賭けたところで勝つということにはならない。せいぜいイーブンというところだ。
 そして、ここが重要だが、親の総取りという目が存在する以上、実は赤黒の確率二分の一ではない。賭けつづければ、親の総取りの確率分、負けていく。ちなみに親の総取りがなければ、三十六倍の一点賭けでも確率的にはイーブンになる。一点賭けがくる可能性は三十六分の一なのだから。
 モンテカルロ式は結局、その応用編にすぎず、二分の一ではなく、三分の一の確率のものに賭け金を増やしていきながら賭けていくというものだ。最良のケースでイーブン。最悪は上昇した賭け金で一瞬にして破産……。
 Kさんのモンテカルロ式は最初のうちは順調だった。
 いつだってギャンブルは最初のうちは順調なのだ――しかし、すぐに負けがこんできた。
 連敗するとこの手の必勝法はあっという間に賭け金が上昇していく上、当たるまで続けないといけないのが、つらいところだった。逆にいうと、横からその買い方をやめさせるのは難しい。次に的中すれば、今までの負けが一気に取り戻せるからだ。そう考えて賭け金が膨らんでいく。
 Kさんは顔をひきつらせながら賭けつづけた。
 詳細を知らなかったぼくは彼女のモンテカルロ式必勝本を読んでみた。
 本の後半が成功例で埋められているあたり、いかにも典型的な必勝本だった。嘘臭さ一〇〇%の本。さらにぼくはモンテカルロ式の期待値を計算してみた。その結果、期待値が1を下回っていることがわかった。つまり回収率は一〇〇%を下回る――一〇〇%はイーブンだ――つまりモンテカルロ式は必敗法だったのだ。
 そのことを伝えると彼女はそのやり方を即座にやめた。
 それはぼくの言葉が響いたというだけではなく、膨れあがる賭け金にすでに限界を感じていたのだろう。
 ちなみにモンテカルロ式がカジノの胴元{ハウス}を破産させたという伝説は胴元がわざと流布したものではないか、と最近のぼくは疑っている。理由はあきらかだ。胴元にとっては必勝法なのだから。


 パドックはあいかわらずの陽射しだった。
 周回している競争馬はどの馬も汗をかき、鞍の下から白く泡だった汗が流れている。クロカミも例外ではなかった。その中で汗をかいていない馬が一頭だけいる。武豊騎乗の一番人気の馬――ダンディコマンドだ。
 パドックで汗をかいていないというのは基本的に好材料だ。イレこんでいないということなのだから。人でもそうだが、疲れているときの方が発汗は激しくなる。
 ――しかし、とふと気づいた。
 こんなに暑い日にまったく汗をかかないのは逆におかしくないか、と。
 その異常さに気づいたぼくは結局、二番人気のクロカミで勝負した。
 結果は武の馬はまったくいいところもなく、着外。一着はクロカミだった。レース後、どうして走らなかったか、まったくわからない、と武自身がコメントしていたが、おそらくダンディコマンドは体調を崩していたのだろう、と思う。
 この一件はぼくにパドックの重要性を確信させた。
 同じ空間にいなければ、暑いのにどうして汗をかかないのか、ということに思い至らなかっただろう。テレビ越しに見ていたのなら汗をかいていないことを好材料ととらえていたにちがいない。
 翌週の日曜日、準メインで地方競馬からの転厩馬で勝負した。
 人気はなく、スピード指数もデータがないので判断しようがなかった。パドックで見つけての勝負だった。まだ、抑え気味の金額での勝負だったが、それでも単勝と複勝であわせていきなり七万ほど、浮いた。
 なんとか、馬券で喰っていけそうだった。

アンドリュー・ベイヤー「勝ち馬を探せ!!」

2010年9月26日日曜日

馬券生活(3)

藤代三郎「外れ馬券に風が吹く」
 どういうわけか、「ギャロップ」誌上の藤代三郎のコラム――「馬券の真実」とはシンクロすることが多く、ぼくは毎週、楽しみにしていた。戦友気分だった。たとえば、複勝ころがしのときもそうだったし、ターフジーニアスの単勝万馬券のときもまたそうだった――。
 春先の未勝利戦。昼休み前のレース。
 なぜか、そのときはいつもの後楽園ウィンズではなく、浅草ウィンズにいた。しかもひとりで――混雑した人ごみにまぎれ、ぼくはじっとパドックの実況を見つめた。
 未勝利戦ということもあってどの馬もピンとこなかった。いいのがいないなぁ、と考えていると、その馬が画面にあらわれた。思わず、息を飲むほどだった。これは抜けている。まちがいなく買いだ――同時に表示されていたオッズもまた凄かった。単勝だというのに二万円台の万馬券だった。その人気のなさに恐怖を感じながらもこれはいくしかないだろう、と思っていた矢先、次の馬が画面に映し出された。
「うおっ」
 次の馬も負けず劣らず抜けていたのだ。
 その馬がターフジーニアスだった。こちらも単勝万馬券。
 心の八割は最初の馬へいくことで決まっていた。
 その決心をひるがえしたのは返し馬のときだった。最初の馬の本馬場入場したあと、走りをじっと見ていたぼくは失望を禁じえなかった。走りが重い。だめだ。この馬は――その直後にターフジーニアスの走る様子が飛びこんできた。
 ――エクセレント!
 なにがどうすばらしいか、まったく説明できないが、これがすばらしく良かった。まちがいなく抜けている。
 確信した。買うしかない。
 単勝、複勝、ターフジーニアスからの総流し馬券を買うべきだ、と考えた。
 ところがぼくがいた浅草ウィンズのフロアは千円単位でしか、買えなかった。しかたなく、単勝を千円、複勝を二千円、購入した。JRAの穴馬男、江田照男が騎乗したターフジーニアスはゴール寸前で先頭馬をかわし、見事にトップでゴールした。それがぼくの生まれたはじめて万馬券だった。
 一〇、六七〇円の単勝万馬券。
 当然、馬連も四六四一〇円の万馬券だった。
 ぼくが浅草ウィンズでガッツポーズしていた同じ時刻、藤代三郎氏は中山競馬場でターフジーニアスの単勝万馬券をゲットしていた。「馬券の真実」によると、藤代氏もまた、ぼくと同じく返し馬でターフジーニアスを見いだしていた。


 そのころにはスピード指数を元に買っていた自動購入馬券は百レース連続外れ、負け総額が百万に逹っしていた。
 予定通りぼくはそのやり方を放棄した。その次のレースで的中がでていたが、おしいとは思わなかった。ぼくはすでにギャンブルの本質――不確定な未来への投機……その悦楽に嵌っていたのだ。プレイヤーとして参加できないからこそ、的中したときの快楽も深い。「騎手なら競馬もやっていいけれど」というのは結局、やったことのない人間のエクスキューズだったのだろう。
 バブル後の不景気が煮詰まっていく中、仕事がひとつ、中止になった。
 それがきっかけだった。
 きっかけにしかすぎなかった。
 細々と貯めてきた五百万を元手に馬券で喰えるか、試してみるつもりだった。
 二度とプログラマーあるいは、システムエンジニアの職には戻らない。そう決心して仕事を斡旋してくれていた久保田さんと会ったのだった――。

2010年9月25日土曜日

長沼毅「「地球外生命体の謎」を楽しむ本」

「地球外生命体の謎」を楽しむ本
 タイトルとは逆説的に、地球の生命体に関する本なのだけれど、非常に興味深くいろいろと考えさせられた。たとえば、深海に住む生物の話だ――熱水噴出孔にいるチューブワームの話など、太陽の光が届かないにもかかわらず、火山ガス(硫化水素)を吸収して代謝を維持しているのだ、という。
 実は人類なども、とても遠くから望遠鏡で見てみれば、そんな風に見えるのかもしれない。過去に蓄積された石油などのエネルギーを食って繁栄している生物。そうであるなら熱水噴出孔が絶えれば、チューブワームも死に絶えるように、石油が絶えれば、人もまた――。
 うーむ。

2010年9月24日金曜日

馬券生活(2)

 ――何か方法はないものか?
 スピード指数の発想を理解し、払い戻しのシステムを知ったぼくはそう考えはじめた。ランダムで勝てるわけはないのだ。
 そこでぼくはレース結果とスピード指数の関係を三ヶ月分、過去に遡って調べてみた。すると、ある組合せで一点買いでつづけると、最終的にはプラスになることがわかった。
 三ヶ月分では検証データとしては短すぎるかもしれない。
 でもこのあと、一年、データを収集しているあいだにプラスになったら大損だ。
 やってみるか。
 毎レース一万円の一点買い。資金の上限は百万円と考えた。そこまでつづけてみよう、と。百レース、やれば、一度は的中がでるだろうからたぶんだいじょうぶだろう。
 弊害は思わぬところからやってきた。
 競馬がつまらなくなってしまったのである。
 それはそうだ。機械的に馬券を買うだけなのだから。
 あまりにもつまらないのでぼくは遊びをはじめた。
 複勝ころがしである。
 当時、ぼくとKさんは毎週、朝一番で後楽園ウィンズへ行って馬券を購入した。ぼくの購入馬券ははじめから決まっていたので買ったあとは暇でしかたがない。そこで競馬場の中継を眺めて無聊を慰めていたのだが、そのうち、パドックと返し馬で馬の様子がわかるような気がしてきた。結構、選んだ馬が好走しているような気がする。
 そこで思いついてしまったのだ。
 パドックの訓練も兼て複勝ころがしというのはどうだろう、と。パドックと返し馬で選んだ馬の複勝を購入。的中した場合は払い戻しをそのまま、次の良さげな馬へ突っこむ。連勝すれば、複勝とはいえ、複利効果で払戻金はあっという間に膨れ上がることだろう。失敗したとしても最初の分だけだ。
 それに複勝ならころがる可能性が高いのではないか?
 千円からはじめて百万円を目標にした。
 毎週、1レースか、2レース、ぽつぽつと、ころがしていった。
 百万としたのには理由がある。
 百万円の払い戻しは自動払い戻し機ではできないのだ。それ専用の、高額払い戻し窓口へ行く必要があり、その上、その百万円はJRAの帯封つきだ、という話だった。
 つまり百万円の払い戻しというのは馬券を買う人間にとって一種のステータスなのである。
 百万円コースといえば、思い出すのはホッカイマティスの複勝馬券だ。
 たしか不良馬場の第5回中山三日目の最終、九〇〇万円下。冬だった。
 二万円分の複勝を購入するところまでいきながらぼくはホッカイマティスのあまりの人気のなさに日和ってしまった。寸前で購入馬券を人気馬に切りかえてしまったのである。結果は購入した人気馬はどこかへ飛び、ホッカイマティス三着の、複勝五八八〇円の超穴馬券だった。
 すぐそばを百万円コースがかすめていったのにぼくはそれをつかめなかった。


 最初の複勝ころがしは二、三回で失敗してしまったが、二度目はうまくはまった。ころがりつづけた。四、五回ころがったところで十万をこえた。
 まったくの偶然なのだが、その頃、藤代三郎氏が競馬専門誌「ギャロップ」誌上のコラムで複勝ころがしをやっていた。そちらも百万が目標で毎週、ぼくと歩調を合わせるように地道にころがりつづけ、それにつれてころがす金額も膨れあがっていった。
 たしか新潟か、福島――いずれにしても裏開催だったことだけは覚えている。昼休み直後のレースで穴目の複勝を購入した。
 ゴール寸前、かたまった馬群の最内を買った馬がつっこんできた。
 ――きた!
 三着。
 払い戻しが確定した瞬間、横に立っていたKさんがささやいた。
「……五十万、こえた……」
「そんなことないだろ」
 ぼくは笑ったが、よくよく計算すると彼女が正しかった。
 その複勝馬券は四倍近く、ぼくが突っこんだ金額は十四万円、近かった。ぎりぎり五十万円をこえていた。
 驚いた。
 もっとも並行してやっていたスピード指数まかせの自動購入馬券は五十万以上の赤字をだしていたので――五十レース以上、的中しなかったのだ――、トータルではまったくの赤字だった。それでもその五十万で負け額がかなり減る。
「確定することにするよ」
 そういってぼくは払い戻しに向かった。
 自動払い戻し機はしばらく札を数えてから五十万を吐き出した。
 上機嫌になったぼくは試しに、と次のレースで一頭を選んだ。ころがしたとしたらこの馬だな、と――。
 的中した。
「うそっ」
 二着。複勝二・三倍。
 ころがしていれば、百万円コースだった……。
 ちなみ藤代三郎氏はぼくよりも二回、多くころがして百万円近くまでいった――最後の最後で失敗してしまったが。
藤代三郎「外れ馬券に風が吹く」

2010年9月23日木曜日

馬券生活(1)

「あの……」
 もうしわけなさそうな声でおずおずとぼくはいった。
「今度の仕事が終ったら田舎に帰ろうか、と思ってまして」
 ぼくの向かいの席に座っていた久保田さんは目を丸くした。
「そうなの」
「ええ、両親の体調がよくなくて。面倒みないとまずいかなと」
「そうかあ。残念だな。きみならすぐに次の仕事は見つかると思うんだけど」
 今、やっている仕事が終了したあと、どうするかについて話していたのである。
 ぼくは深々と頭を下げていった。
「もうしわけありません」
 いつも吹きでる汗で眼鏡を曇らせている久保田さんはしかたない、という表情を浮かべた。
 ぼくはもう一度、頭を下げた。
 しかし、ぼくのいっていることはすべてでたらめだった。


 三十五歳のころまでぼくははいわゆるレース系のギャンブルをやったことがない。競馬、競輪、競艇など、何かがゴールまで競いあい、それを予想しあうギャンブル――。
 麻雀やパチンコはやっていたのに、レース系のギャンブルに手をつけてなかったのは田舎に住んでいたからというわけでもなかった。大学生活を送った佐世保には競輪場があったし、すこし足をのばせば、大村には競艇場があった。
 にもかかわらず、手を出さなかったのは単純に興味がなかったからだ。
 ひとつにはルールがわからない。
 ふたつ、中島梓氏が何かのエッセイでいっていたように「騎手なら競馬もやってもいいけれど」という気分――プレイヤーとして参加できないために興味が持てなかった。
 それが人生の折り返し地点をすぎたところで競馬に手をだしたのは当時、つきあっていた女性――Kさんの影響だった。
 はじめての馬券のことはよく覚えている。
 菊花賞に出場するダンスインザダークを応援するため、京都競馬場へ行ったKさんに馬券を買ってもらったのだ――予想も何もないスポーツ新聞の馬柱を眺めて適当に買った馬券だった。さすがに名前だけは知っていた岡部幸雄と武豊の名前から三点ほど選んだ。
 結果はすさまじい足で最後方からダンスインザダークがすっ飛んできて、武豊のダンスインザダークの一着。二着には岡部のロイヤルタッチがはいった。馬連一七六〇円で三万円ほどのプラスになった。
 それで簡単だと思ったわけではないのだが、毎週、後楽園ウィンズへ馬券を買いにいくKさんにつきあううち、ぼくも馬券を買うようになってしまった。暇だったのだ。そして、彼女がつかっているスーパーパドックというスピード指数をベースにした予想ソフトの出力結果を参考に買ったところ、これがまた、よく当たった。
 そうすると、自然に興味を持ってくるもので、あるとき、ぼくはKさんにたずねた。
「馬券の払い戻しってどうやって決まるの?」
 彼女は知らなかったのだが、ぼくはそういうことが気になるたちなのだった。
 そして、それは子どものころからの疑問でもあった……。
 単勝とか、馬連があることは子供心に知っていたが、払い戻しがどうやって決まっているのかがわからなかった。宝くじのようにあらかじめ公示されているわけではないのだから何か決めるやり方があるのだろうとは思っていた。しかし、さすがに子どもの想像力ではそれがわからなかったのだ。知識も足りなかった。
 結局、こういうことらしい。
 たとえば、馬連の場合。馬連の馬券の売り上げから主催者が二五%を天引きして取り、残金を的中した馬券へ均等に分配するのだ。そういうシステム。それを知ったとき、勝つのがきわめてむずかしいギャンブルに手をだしていることに気づいた。ランダムに馬券を買いつづければ、回収率は七五%に収束するからだ。つまり馬券で浮くには二五%以上、底上げする何かが必要だということになる。二五%は四分の一だ。それだけたとえ底上げできたとしてもイーブンでしか、ない。
 閑話休題。
 適当に買っていた馬券が的中していたのはどうやらビギナーズラックだったらしい。一ヶ月もすぎると、負けがこんできた。

2010年8月28日土曜日

今敏、死す

パプリカ [DVD]
 今敏監督の訃報を聞いた瞬間、ショックのあまり、頭がぐらぐらした――なんてことだ。今、一番、作品を心待ちにしていた作家だというのに。「パプリカ」と「東京ゴッドファーザーズ」はまちがいなく、ぼくのベストテン上位にランクされる。その作家の作品があと一作しか新作がでないというのか。
 理不尽だとも思う。
 今敏監督のような豊かな才能の持ち主がなくなってしまい、何も生み出せない自分のような人間がのうのうと生きているというのに。まぁ、これは自分をちょっと高く持ち上げすぎだが。本来、比べることすら意味がない。
 今敏という人がいるということはずいぶん以前から意識していた。ただし、それは今野敏というミステリ作家がいるので、よくその人と勘違いしていたからだが――あるとき、今敏監督のホームペーズを見つけ、そこの上げられていたたしか、「パーフェクト・ブルー」の制作秘話があまりにもおもしろく、興味をそそられ、「パーフェクト・ブルー」を見た。つづいて「千年女優」――両方とも非常におもしろかったが、ただどこか――ラストが好みではなかった。不満だった。
 そして、「パプリカ」――。
 この超傑作をどういったらいいか、わからない。あまりの凄さに喚き散らしながら街中を走り回りたかったほどだ。見ろっ、みんなこの映画を見ろっ、と。
 「東京ゴッドファーザーズ」を見たのはそのあとである。
 このときも街中を走り回りたくなった――こりゃ、今敏作品を追いかけるしかないでしょう、と思っていた。それなのに訃報とは。
 あまりにもおしい。
 これからいくらでも傑作を生み出すのはまちがいない監督だったのに。
 リアルな描線のせいで、実写への傾向がある、と考えられがちな今敏監督だったけれど――個人的には逆にアニメでしか表現できないことをやっていた監督だと思う――、アニメの凄さというものを教えてくれた作家だった……。「パプリカ」なんてどうやって実写でやる、というのだ。「東京ゴッドファーザーズ」など、アニメ以外ではありえない。
 ああ。
 何度でもつぶやいてしまう。
 あまりにもおしい。急逝してしまうとは。



追記
今敏監督のHPに最後の言葉あり。
読んでるうちに泣けてきた。

2010年7月20日火曜日

2010年7月19日(月):本栖湖FUNビーチ:晴れ

*Sail:CORE 5.7(NEIL PRYDE) Board:NG ACP 260

 
 今年は土日のすべてを競馬に費やすと決めている。
 そのためもあってウィンドへ行く機会がほとんどない。そういう貴重な一日が7月19日ということになる。普通なら風が吹くかなんてわからないが、時期的に本栖湖ならまず吹くだろう。
 そういうわけで本栖湖へ行くことにした。
 到着したぼくを出向かえてくれたのは鏡のような湖面だったが。
 まったく風はなかった。
 とりあえず、車の中で仮眠して風が吹き出すのを待った。
 吹き出したのは正午ぐらい。吹き上がることを期待して5.7のセイルを選択した。
 ウェイブ系のボードに5.7のセイルではまだまだ、無理な風だったが、出艇してみた。ほとんどプレーニングしない。最風上のエリアが一番走っているところをみると、あそこまで行けば、とも思ったが、すっかりへたくそになっていたので風上へのぼっていけない。
 そうこうしているうちに目の前のブローに思わず下らせたりしたおかげでどうしようもなくなってしまった。ちなみに下らせたからといってプレーニングしたわけではなく、ただ、下っただけだった。

 結局、二時間ほどセイリングしたのだが、まともにプレーニング――両足がフットストラップにはいったのは5回ほど。それでも一度、ドラゴンビーチへ向かってラインをのばし、ほぼフルプレーニングすることができた。
20100719本栖湖 at EveryTrail


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2010年6月8日火曜日

池田信夫「希望を捨てる勇気――停滞と成長の経済学」/佐々木俊尚「電子書籍の衝撃」

希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学
電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)

 電子書籍というのが文芸だけではないことは承知しているが、それでもどうしても気になるのは小説の動向だ。それは心の片隅で小説家になれないものか、と思っているからだが、しかし、電子書籍の衝撃で規模が縮小してしまったら出版社は新人を発掘しようとするだろうか。また、そのとき、デビューするというのはどういう形になるのか……。
 セルフパブリッシングという形ならプロアマは関係ないという話もあるが、そのとき、売れるのはやはり固定客をつかんでいるプロになるだろう。「ロングテール」にあるように売り上げがゼロから無限大までの間に無数の書き手の作品が並ぶことになるだろうが、大部分のアマチュアはテールになる。もちろん、アマチュアの中からも売れる人間はでてくるだろうし、その可能性はゼロではないが、それは可能性はゼロでないというだけの話だ。
 状況は絶望的なように思えた。
 ところが希望があることに気づいたのは、池田信夫の「希望を捨てる勇気――停滞と成長の経済学」を読んだ直後に、佐々木俊尚の「電子書籍の衝撃」を読んだときだった。その順番で読んだのはまったくの偶然だったのだが、そうでなければ、そんな文脈は生まれなかった。
 それは次のようなことだ。
 「希望を捨てる勇気――停滞と成長の経済学」によると、1990年代後半のアメリカの劇的な復興は80年代後半に吹き荒れたLBOに原因がもとめられる、という。AT&Tなどの大企業に固定化されていた人材が企業の分割、整理によって外へ放出されることにより、その人々がIT業界の革新を加速したのだ、と。
 そうであるなら電子書籍による衝撃によって多くの出版社から内部に固定化されていた優秀な人々が労働市場へ吐き出されるのだ。その中から何か新しいものを生み出す人がでてくるかもしれない。
 それはすくなくとも既得権益が固定されてしまい、硬直化した他の業界にくらべれば、はるかに希望のある状況ではないか――。ぼく個人にはほとんど関係のない希望だが。

2010年5月31日月曜日

丸山健二「猿の詩集」

猿の詩集〈上〉
猿の詩集〈下〉
 傑作だ。
 すくなくとも個人的には丸山健二の最高傑作ではないか、と思っている。ついに「千日の瑠璃」をこえたのではないか、とも。
 丸山健二との出会いは「君の血は騒いでいるか」――などのエッセイだったけれど、「雨のドラゴン」「ときめきに死す」などに痺れ、「惑星の泉」以来、年毎の新作を楽しみにしていた。とくに「水の家族」「野に降る星」「白と黒の十三話」「見よ、月が後を追う」など、すばらしく、「千日の瑠璃」ではひとつの高みにのぼってしまった感があった。それ以降ももちろんコンスタントに作品を世に問うていたのだが、やはり「千日の瑠璃」をこえることはできない、というのが私見だった。ひとつには丸山健二の政治観が一面的すぎる、というのがある。ぼくにとってあまりにも現実感のない言説なのだ。つまり納得できない。
 「鉛のバラ」まではほぼ、リアルタイムで追いかけた。
 ところが「貝の帆」で追うのをやめてしまった。丸山健二が「貝の帆」で変わろうと意思していたこともあるが、こちらの生活がフィクション離れを起こしていてこともある。だからすっかり丸山健二とはご無沙汰してしまっていたのだが、そんなときだ。「猿の詩集」の上下巻に出会ったのは。
 あいかわらずの緊密な文体に酔い痴れながら読み進み、不安を感じながら下巻に突入した。不安というのは「争いの樹の下で」のように現実感のない政治的な言説にまみれてしまうのではないか、という不安だ。たしかに丸山健二の政治観はあいかわらずではあったけれど、それに拘泥することなく、下巻は進み、進みつづけ、そして、ラストへ――。大袈裟すぎる言い方だが、魂が震えた。
 「貝の帆」からの変化がこの作品を生み出したのはまちがいない。それ以前ではほとんどあつかうことのなかった男女の睦み事を「猿の詩集」ではきちんと描写しているからだ。そして、登場人物の多彩さも「貝の帆」以前の丸山健二にはあまり見られなかった特徴だ。なにしろ「虹よ、暴力の虹よ」では登場人物がほとんど三人しかいないという過激さなのだ。
 いずれにしてもぼくの前には「貝の帆」から「猿の詩集」までの著作が存在するわけで、ぼくはそれをとても楽しみにしている。

2010年5月13日木曜日

忘れられない騎手がふたりほど

 どうしても忘れられない馬がいるように忘れられない騎手もいる。
 それがたとえば、岡部幸雄とか、武豊とか、いわゆる名騎手でなくとも。馬券にまみれていたぼくだ。もちろんそれは外れ馬券の思い出とリンクしているのだが。
 ひとりは後藤浩輝。
 まだ、リーディング争いをするような騎手ではなく、アメリカ修行をした直後の後藤浩輝だ。当時のぼくの馬券は完全なパドック派で、パドックで見つけた馬の単勝へどかんと賭ける。そんな競馬をやっていた。
 そんなある日。
 これは抜けている。絶対だ、と思える馬を見つけた。いつだったか、開催はどこだったか、すっかり忘れてしまったが、短距離戦でその馬名はスリルオブターフ、という。
 母親も父親も知らない。血筋なんてまったく関係がないぼくは当然、勝負にでた。どかんと単勝馬券を一点購入。金額は忘れた。一万円以上だったはずだ。
 ゲート入りがすみ、スタート。
 一頭がまったくスタートせずに出遅れ。それがスリルオブターフだった。
 ――うそっ!
 短距離で出遅れは致命的だ。
 最終コーナーを回り、すさまじい勢いで最後方からスリルオブターフは駆けあがってきたが、あまりにも離されすぎていた。届かない。はっきりいってぼくはぶち切れた。ありえないだろう。だれだ、ヤネは。
 それが後藤浩輝だった。
 しかもその日か、すこしあとにテレビで後藤浩輝がクローズアップされて彼はアメリカ修行で何を学んだか、という質問にこう答えたのだ。
「――スタートの大切さです」
 ありえねーーーーーーーーだろーーーーーーーーーーーーーっ。
 もちろんぼくは絶叫しましたがな。思いっ切りテレビに向かって。


 もうひとり、忘れらない騎手がいる。現在、JRAで唯一の女性ジョッキーで最初の女性ジョッキーのひとりだった増沢由貴子――当時、牧原由貴子――落馬事故で姿を見なくなり、もう引退しているとばかり思っていたが、まだ現役でがんばっていた。結婚してしまっていたが。
 たしか、東京競馬場だと記憶している。もしかしたら中山かもしれない。
 あいかわらず、パドックにかよっていたぼくはこのときも抜けている穴馬を見つけた――見つけた、とぼくは思った。もちろん買うつもりだった。買うしかないと思っていた。
 ところがパドックの周回が終わり、騎手が騎乗したときに女性ジョッキーだということに気づいたぼくはだめだ、と判断してしまったのだ。女性騎手が馬を押せるわけがない。というわけで買うのをやめてしまった。
 調教師が馬のかたわらにまでやってきてジョッキーと談笑していたのがひどく印象的に残っている。この馬がこのレースを最後に引退することになっているとはそのときのぼくは知らなかった。それを知っていれば、何かがかわっていたかはわからないが。
 レースはスタート直後から増沢由貴子が逃げた。ペース。馬との折り合い。どれをとってもうまい、というレース展開だった。馬の状態がいいことはパドックで確信している。そのうえ、ほぼベストといえるような騎乗。最終を回ったときにはこのまま、逃げ切ってもおかしくない状況だった。臍を噛む思いというのはこのことだ。
 どうして馬券を買ってないんだぁっ。
 直線でもうまく馬をもたせた増沢(牧原)由貴子はトップでゴールした。
 たぶん二千円ぐらいの単勝払い戻しだったと思う。
 後悔にふらふらになったぼくは女性だからといってあまく見てはいけないことを痛感したのだった……。後年、川崎競馬場で海外の女性ジョッキーが騎乗する単勝万馬券の馬に一万円、突っこんで複勝をゲットしたことがあるが、このときの教訓が生きていたのだろう。もっともそのときはどうして単勝を買ってなかったのか、と後悔したが。複勝ではなく単勝を買っていれば、百万円コースだったのである。
 馬鹿だ。

2010年4月19日月曜日

ビョルン・ロンボルグ「地球と一緒に頭も冷やせ! 温暖化問題を問い直す」

地球と一緒に頭も冷やせ! 温暖化問題を問い直す
 地球温暖化問題でCO2を減らせ、と意見を持つ人ならなおのこと、この本には目を通すべきかもしれない。アル・ゴアの「不都合な真実」を読むだけではなく。

 実はこの本を読んで一番、ショックを受けたのは京都議定書についてのあつかいだった。
 その内容についてではない。この本では京都議定書にたいしては一貫して否定的だ。そして、そのことは地球温暖化にたいする著者の態度とともに一貫している。すくなくともこの本を読んでいる間はそれは正しい、と感じさせるし、ぼく個人としては強く同意している。
 にもかかわらず、京都議定書について否定的に書かれている箇所にくると自分の中に奇妙な抵抗を感じた……。自分自身、その反応には驚いた。ナショナリズムに嫌悪感を覚える性向があるのにもかかわらず、京都議定書について否定されると心が強い抵抗を示すのだ。なんだ、これは――。おそらく京都ではなく、たとえば、ロンドン議定書などであったのならこの抵抗感はなかったのではないか。
 つまり自分が日本人であり、日本で行なわれた国際会議の結果にたいして肯定的にとらえようとするバイアスが強くあった……。
 これはぼくだけなのか?
 鳩山総理のCO2削減宣言などを見ると、そうではないような気がする。

2010年4月16日金曜日

勝間和代「自分をデフレ化しない方法」

自分をデフレ化しない方法 (文春新書)
以下メモ。

1. 相関があるから原因はデフレというが、相関関係があるから因果関係があるとは限らない。また、デフレというのはある現象に対するラベルだろう。そうであるなら現象は結果である以上、原因とするのはおかしくないか?

2. デフレを脱却し、インフレを起こすためにお金をじゃんじゃんと刷れ。また、日本はずっとデフレだった、という話。何かおかしい。「量的緩和」はどうなる? 「量的緩和」をしていたときですらデフレなのなら今、いくらお金を刷ったところでインフレは起きないのではないか?

3. リーマンショックのときの世界的な金融緩和で日銀は同調しなかった、と非難しているが、記憶では同調していたように思う。また、下げ幅が小さかったというが、当時の日本の金利を考えると、アメリカなどの下げ幅より小さくなるのはある意味、しかたないことではなかったのか?

4. 日銀の金融緩和をもっとつづければ、よかったのではないか、というのは同意。

以下、感想。

まるで自分が日銀総裁をやっていたらこんなことにはならなかったといわんばかりの内容だけれど、どうやら中央銀行によって経済はコントロールできると著者は思っているらしい。個人的には、経済は今や中央銀行によってコントロールできなくなりつつある、と思う。そういう意味では著者は素朴だな、とも思う。羨ましい。

2010年4月9日金曜日

カーナビとしてのiPhone

 ぼくの車にはカーナビがついていない。
 たしかに御前崎へ行ったり、本栖湖へ行ったり、湘南へ行ったり、三浦に行ったりするわけだからカーナビは便利かもしれない。車を買うときにたしかにすすめられた。しかし、購入はしなかった。
 理由は簡単だ。必要性を感じなかった。
 あちらこちらへ行くけれど、それはある意味、日常的に行くのでルートは確立している。カーナビに案内してもらう必要がない。新しいところへ行くにしても前日に地図でルートを想定するのでやはり必要性を感じない――というか、空間的に把握せずにカーナビに従って走るのは気持ちが悪い。
 それでもあれば、と思うこともある。
 道の迷ったときだ。
 現在位置がわからないとき。
 しかし、なぁ、そんな、いつ起きるか、わからないときに備えてカーナビを購入する気にはなれずにいた。
 それがこの間、本栖湖の帰り――中央高速で帰ったときのことだ。
 実はこのルートは初体験だったのだが、それほど心配してなかった。高速は案内をきちんと追っていけば、大概、目的地にたどりつけるものだ。ところがふと気づくと、地下を走っていた。首都高速にはいったところでだ。
 しまったぁ、首都高速に新しいところができた、とは聞いていたが。
 これかあっ。
 案内板はあるので向かっている方向はわかるが、東名高速――ぼくの頭の中ではその方向は正しいのだが、何か、嫌な予感を覚える。
 それで思い出したのがiPhoneだ。
 iPhoneにはマップというGoogleマップと連動したアプリがある。iPhoneのGPS機能をつかったものだ。起動した。3G回線に接続できたことはラッキーだった。
 見ると、現在地は池尻大橋になっている。
 想像と全然、ちがう!
 激しく動揺してきっと地下なのでGPSの電波が届いていないのだ、と考えた。
 この考えはあのぶどうはすっぱい、だった。つまり現状から目をそらしただけ。
 GPSの電波が届いていないのなら池尻大橋自体がでてくるわけないじゃないか。
 現在地は池尻大橋だ!
 ありえない! と思いつつもようやくそのことに気づいた。動揺しながら現状を受け入れて東名行きとは反対のルートを選択した。かなり気持ち的には思いきった判断だった。
 というのも想像ではこの先、東名行きの途中から渋谷行きと目黒行きに別れるはず、と思っていたからだ。そこで目黒行きへ向かう。それが目算だった。だからこそ東名行きを選択して走っていた。ところが池尻大橋は目黒に行かず、渋谷行きのルートを選び、なおかつ通りすぎなければ、あらわれてこないはずなのだ。つまり結論! ぼくはまちがっている!
 おかげで間一髪のところで帰りのルートへ戻ることができた。あのままだったら東名に乗り入れるしかなくなっていた。
 これもiPhoneのおかげだ!
 そうしてこの機能があるならカーナビはやはりいらないじゃないか、と思った次第。

2010年4月8日木曜日

2010年4月8日(木):本栖湖FUNビーチ:晴れ

*Sail:CORE 5.7(NEIL PRYDE) Board:NG ACP 260

 予想天気図を見たときには完璧だ、と思った。
 この気圧配置ならまちがいなく、本栖湖は吹く。そう考えての本栖湖入りした。さすがにこの時期、釣り人以外、だれもいず、ひとりきりだった。
 FUNビーチ周辺は枯山水のような風景で寒々しい。すぐ近くの山肌に見える白いものは雪だろうか……。湖面は無風で鏡のように真っ平らだった。
 しかし、風がはいってくるのはこれからだ。
 南風がはいってきたのは一時をすぎたころだっただろうか。
 のんびりと道具をセッティングして風がさらに吹き上がるのを待つが、なかなか吹き上がらない。白波は見えるのだが、思ったよりも弱い。
 しかたなく、手持ち無沙汰ということもあって出艇してみることにした。
 湖水はあいかわらず暴力的な冷たさだった。
 水に足を入れただけでじんっと痺れ、指が自分のものでなくなった。接着したウィンナーソーセージのようだ。感覚がない。
 風はやはり足りなかった。
 延々とタックをくりかえし、湖面を往復した。
 もしかしたらこのままじゃないか、と嫌な予感がした。
 しかも沈すると、鼠蹊部に痛みが走るほどの冷たさにちょっと恐怖を覚えた。内臓がおかしくなるんじゃないのか?
 そのうち、風がすこしだけあがった。
 短かい黒いブローがはいりはじめる。しかし、それでもプレーニングしない。前のフットストラップに強引に足を入れることはできるが、テイルはひきずったままだ。しつこく往復してあきらめてビーチにあがったところで皮肉なことに湖面の様子が一変した。
 ブローが連続してはいってきた。
 うそっ、と思いながらもエネルギー補給のために車にもどってバナナを食べた。
 ふたたび、湖にでる。
 思わず地団駄を踏みそうになる。
 微妙に風が足りん。
 もうちょいでプレーニングできるのに、という風だった。どんだけ重いねん、おれ――というか、セイル、6.7にすりゃよかった。
 それでもきつめのブローのおかげで何本か、プレーニングした。
 湖面を一本、走り切ることは一度もできなかったけれど、それでも左右で二本づつ、ジャイブすることができた。その最後のジャイブ――スタボーからのジャイブで奇妙な感触を得た。
 もともとスタボーからのジャイブは失速ぎみになる癖があったのだけれど――ポートからより下手ということだ――、ジャイブの半ばでほんのちょっと前に体重を持っていったところ、後半のターンが伸びるのがはっきりとわかった。あっ。これは発見かもしれない。ところがそれ以降、ジャイブできるほどの風に恵まれなかった――つまりプレーニングしなかった。このころにあらわれたもうひとりセイラーはスラロームらしくしっかり、プレーニングしていたのだが。
 まったくどんだけ重いねん、おれ。
 いくら風があると思って出艇しても半プレーニングがせいぜい。そのうち、歯ががちがち鳴りはじめるほど、寒くなってくる。日が翳っていた。風はありそうでぼくにはプレーニングしない風――。
 さすがに根性が尽きた。
 上がることにした。
 着替えて道具を片付けてさあ帰ろうか、と本栖湖を見ると、かなりのブローがはいっているのが見えた。
 うわあ。

本栖湖


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セーリング時間:2時間24分
セーリング距離:7.2km
平均艇速:3km/h
最高艇速:55.4km/h

2010年4月3日土曜日

 横断歩道を渡り切った瞬間、交差点の方からバンッと凄い音がした。車がぶつかった音。iPhoneで音楽を聞いていたにもかかわらず、はっきりと聞こえた。反射的にそっちを向くと、車が自分に突っこんでくるところだった。タイヤのスキッド音――やばい。死んだ、と思った。テレビの衝撃映像みたいだ、とも――。
 うしろからはおばさんの悲鳴が聞こえた。
 衝撃映像で車が店内に突っこむシーンが頭に浮かんだ瞬間、すぐ目の前でガードレールがひしゃげ、車が凄まじい衝撃音をあげて停止した。ほとんど音ではなく、振動を身体で感じた。
 車のものらしい破片が自分の回りに飛び散り、道路に転がる。そのうちのひとかけらはうちに帰ったあとで手にしていたバッグの中から出てきた。
 歩道に乗りあげなかった車を見てよく飛びこえてこなかったな、と思いながらiPhoneのイヤホンをはずした。
 飛びこんできたら避けることは不可能だった。
 どうしようもない。
 瞬間、何の理由もなく、人は死ぬのだ、と思った。
 運転手はだいじょうぶだろうか、とようやく思い至り、一瞬、血まみれの運転手が頭を過った。そして、この様子を携帯で写真を撮ったらさすがに不謹慎だろうな、という考えも頭の中を通りすぎた。
 失職中だから死んだ方がましだったかもしれない、とブラックな冗談を思いついたが、さすがに話す相手はいなかった。
 潰れたフロントを見ながらガソリンはこぼれてなさそうだな、と判断して――白い蒸気はラジエターのものだろう――、運転席をのぞくと、運転手はしまった、という顔をして携帯電話をかけようとしていた。サイドウィンドウのノックしてだいじょうぶですか、と聞いたが、ちょっとわずらわしそうな顔をされてしまった。
 左手を見ると、タクシーが歩道に突っこんでいる。
 おそらく二台が交差点で衝突したのだろう。そして、一台がぼくの方へ突っこんできた――。
 まだ、だれも集まってきていない。
 タクシーの方へ行き、中をのぞきこむと、ちょうどエアバックがしぼんだところで運転手はしまったぁ、事故ってしまったぁ、という慚愧の念にたえないという顔だった。こちらの運転手も携帯で電話をかけようとしていた。声をかけても見ようともしないが、とりあえず、ふたりの運転手は無事なことが確認できてすこしほっとした。
 騒いでいるおばさんたちの方を見ると――たぶん悲鳴をあげたおばさん――、携帯を取り出して事故を撮影していた。それでちょっとくやしい気がしてぼくも何枚か、撮影した。

 結局、自分が死ぬところだったのだ、と恐怖を多少、感じたのはだいぶん経ってからだった。起きたことを思い出しているうちに死んでもおかしくなかった、と。
 突っこんできた車はガードレールと――もしかしたらスピンしていて縁石に横から当たったのかもしれない――それで歩道まで乗りあげなかったのだろう。もし乗りあげていたら無事ではすまなかった。
 そうなっていたら何の理由もなく、何の因果もなく、あのタイミングであそこにいたためにぼくは死んでいた。





あらためて撮影した写真を見ると、状況はちがっていて車は歩道に乗り上げていた……。

2010年4月2日金曜日

2010年4月1日(木):本栖湖ファンボードビーチ:雨

* Sail:CORE 5.3(NEIL PRYDE) Board:NG ACP 260

 まさか本栖湖で5.3を使うことになるとは思わなかった。

 天気予報では全国的に荒れ模様だという。予想天気図も春の嵐を予感されるものだった。それならわざわざ本栖湖へ行く必要はないのではないか、とさんざん、昨夜は迷ったものだった。湘南、あるいは検見川などのポイントで爆裂で乗れる可能性が高い。問題は2009年12月07日以来、ウィンドをやっていない上に運動すらしていないということだった。しかも失職中のため、通勤という負荷すら身体にかかっていない。
 それ以外にもふたつほど、理由があった。
 ひとつは中央高速まわりの本栖湖行きを試してみたかった。かつて神奈川に在住していたため、習慣的に東名高速側から山中湖へあがるルートを使っていたのだが、現住所からは中央高速も充分ありだと気づいたのだ。それを試してみたかった。
 もうひとつはiPhoneだ。
 iPhoneのGPS機能を使ったGPSロガーアプリがある。それでウィンドの航跡を記録してみたい、と以前から考えていたのだ。もちろん iPhone は防水仕様ではないので防水パックにいれる必要がある。それがどのくらい有効から確かめてみる必要があった。なにしろ本体価格が五万ちょっとする iPhone だ。水没させておしゃかにしたら泣くに泣けない。波のあるコンディションはまずありえない。そして、万が一、水が防水パックの中に染みてきてしまったときのことを考えると、淡水が好ましい――とすると、土地勘もある本栖湖以外の選択肢はない。

 大月インターを抜けて山梨入りすると、すでに雨が降っていた。
 しまったぁ。やはり失敗だぁ、と頭を抱えてしまった。
 何しろ、今日は平日で本栖湖にはだれもいないだろう。雨ならなおのこと――雨の中、陰鬱な本栖湖でひとり、ウィンドをするなんて気分が落ち込むこと、おびただしい。しかも今の時期の本栖湖の水は氷水だ。
 いっそ南下して海へ出ようか、とも思ったが、とりあえずと本栖湖まで行くことにした。SoftBankの電波が入るか、確認するという理由をつけて。
 驚いたことにウィンドサーファーが一組、いた。車からボードを下ろし、セッティングしているところだった。風は充分にあり――というか、ありすぎで湖面が真っ白だった。本栖湖の北端の海岸を通ったとき、波が打ち寄せていたので吹いているとは思っていたのだが。
 冬枯れした木々の寒々とした暗い光景の中、白い波だけがあざやかだった。
 SoftBankの電波ははいったのでだれも聞いてないだろうが、twitterで「本栖湖なう」とつぶやいてセイルにしばらく悩んだ。本来なら5.7だ。本栖湖はどんなに吹いて見えたところでブローがきついだけで大きめのセイルが鉄則だが、そんなレベルの風じゃなかった。鬼ブローである。
 まさか本栖湖で5.3を使うことになるとは――。


 セットしたiPhoneをドライスーツの内側にいれて湖へ向かった。
 心臓麻痺を起こすなよ、と祈りながら湖水に足を踏み入れる。あまりの冷さにぎゅっと足が縮こまるのが、わかる。鋭い石を踏んだらすぱっと切れてしまいそうだ。ビーチスタートした。即プレーニング。いつものように風が触れるエリアまで突っこんでジャイブ。セイル返しに失敗して沈――しかし、ちょっと嫌な感じ。もしかしたらジャイブができなくなってる? そんな感じ。
 ウォータースタートするまで冷水の中にいた。
 冷たいというより刺すように痛い。
 ビーチにとって返す。やはりジャイブができなくなっていた。腕力がなくてセイルを引きこめないということもあるが、根本的に何かまちがっているような気もする。それを冷静に検討することすら考えつけず、ウォーターしてアウトへふたたび。鬼ブローに遭遇した。
 裏風ぇ、裏風ぇ、とつぶやきながら風を逃がしながらぎりぎりと上る。というか、上らせる以外の手段なし。すとんと風がなくなり、沈。本栖湖のガスティぶりはあいかわらずだった。
 一度、ビーチに上がり、ダウンを引き増しする。
 身体に力がなくてダウンをしっかり引けてなかったのである。
 それでセイルが軽くなった。鬼ブローにはさすがに風を逃がす以外なかったが。
 問題はアウトで沖に突っこんだときだ。風が抜けてふらふらとしているところに鬼ブローが襲ってくる。何度かいいようにされて沈。
 何本か、乗って身体も冷え、エネルギーぃ、とつぶやいておにぎりを食ったのはいいが、次の一本で沈したときに吐きそうになった。
 結局、水の冷たさと容赦ないガスティブローぶりに早々に降参して湖からあがった。自分が気づいていないが、きっと肉体は疲れているはずだ、とつぶやきながら。
 道具を片付け、帰ろうか、と思ったとき、雨があがり、陽が差してきた。

※EveryTrailの航跡データは手違いで消してしまった……。

2010年3月22日月曜日

福田和代「ヴィズ・ゼロ」

ヴィズ・ゼロ

 いつか読みたいと思っていた一冊だった。
 元々、関西国際空港を舞台にしたテロものっておもしろいんじゃね? とずっと思っていたのだ。謎のテロ集団に占拠され、孤島と化した関西国際空港! 政府に突きつける12億の身代金! ――てな。映画にも小説にもなってないよなぁ、と思っていた矢先、「堀晃のSF HomePage」で福田和代の「ヴィズ・ゼロ」の存在を知った。まさにそのような作品らしい。
 読後、複雑な気分にさせられた。
 最後までおもしろかったのだが――読み終えたのだからもちろんそうだ――、ふと懸念を抱いてしまった。もしかしたら古き良き冒険小説はもう現代を舞台にしては成立しないのだろうか、と。古き良き冒険小説というのはたとえば、アリステア・マクリーンの「ナヴァロンの要塞」であり、「北極戦線」であり、デズモンド・バグリィの「高い砦」であり、ハンス・オットー=マイスナーの「アラスカ戦線」だ。第二次大戦に時代を設定すれば、可能かもしれないが、2000年以降の現代ではどうだろう、と。
 未読だけれども「プロメテウス・トラップ」のことを考えれば、作者の個性による偏差なのかもしれないのだが、「ヴィズ・ゼロ」は冒険小説的な道具だてのおもしろさよりも「ファントム」が際立っている――事実、ラストにあるように「ファントム」がかくれた主人公でもある。つまりハッカー小説のおもしろさ。

 「CORE」という映画を観たとき、確信したのだが、ハッカーは現代に蘇えった魔法使いである。勇者の物語の中で、魔法使いの役割といえる。勇者に機会をもたらすジョーカー。
 古き良き冒険小説――「大人の男のための男の物語」――は魔法使いのいない勇者の物語だ。世界には魔法などない、という苦い認識から出発した物語。だからこそ、肉体のみをたよりとする物語になる。しかし、日常の隅々までコンピュータネットワークが張り巡らされつつある現況ではフィクションの中で魔法使いとしてのハッカーが蘇えってきつつある。そのことが悪いということはまったくないのだが――そうであるなら、古き良き冒険小説――勇者のみの物語は成立しづらくなるのも当然なのかもしれない。

2010年3月8日月曜日

カール・R・ポパー「果てしなき探求 -知的自伝-」

果てしなき探求(上) -知的自伝ー
果てしなき探求〈下〉―知的自伝

 もちろんポパーを読んでみようと思ったのはナシーム・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質」の影響なのだが、「果てしなき探求」を読んでみてあらためてカール・R・ポパー「探求の論理」を読んでみよう、と思った次第だ。それほど魅力的な上下巻だった。ほかのポパーの書籍には触れたことがないのでもしかしたら、なのだが、「果てしなき探求」はポパーの思想的遍歴の入門書になっているのではないだろうか――そして、救いを得た。

 救いというのはたとえば、次のような言葉がある。転向。以前とちがうことをのべて「以前とはちがうことをいっているじゃないか」と非難される。たとえば、そのようなこと。その非難を予測してしまうと、口をつぐむしかない。自分が今、語っていることはもしかしたら無知からきているかもしれないからだ。自分が無知であることは自覚できても無知の内容は自覚できない以上、それをつねについてまわることだ。

 そして、過去をふりかえってみれば、自分の考え方がいろいろと変転をくりかえしてきていることがわかる。歳をとれば、なおのことそうだ。歳をとると過去の発言、自分が残した言葉が思考の足枷になっていることがわかる。そのことに気づくことは思った以上にすくないかもしれないが。人には現状維持バイアスがあるので過去の自分を肯定したい、という傾向がどうしてある。

 考えを変えることは悪いことだ――という無意識の圧力がある。意思を貫き通すということが肯定的にあつかわれる以上、それは否定的な圧力だ。たぶんこれは文化的なものだろう。そのように共同体から教育されてきたわけだから。

 ところが考え方は変わり得る。

 知識が追加されれば、見方が変わることは充分にあり得る。問題はそれを充分、批評的に検討した結果か、ということだ。人にはバイアスがある。意識することなく保身に走ることもよくある。別にポパーがそれらのことを肯定しているわけではないのだが、ポパーはいう。すべての理論は仮説である、と。どんなに実証されたとされる理論であっても仮説である、と考え、その反証可能性があることが科学の理論だ、という。それゆえに理論は永遠に真理の近似値でしかない。そして、科学の理論が発達するのはその反証可能性ゆえに理論が批評に晒されることによってだ、と。極端な話、実証は何の証拠にもならない、とすらポパーは考えているようだ。

 つまり自己肯定バイアスに身をまかせてポパーを拡張するならすべての考えは仮の考えでしかなく、あたらしい知識によってそれは否定され得る。また、そうでなければ、考えが前に進むことはないであろう。しかし、それは批判的に行なわれなけえばならない、と。

 いずれにしてもポパーの「探求の論理」をいつか読んでみたい。

2010年3月1日月曜日

BUFFALO Air Station NFINITI 11n/g/b USB用 無線子機 WLI-UC-GN


 iPhoneは無線LANに接続可能だ。
 その場合はあたりまえだが、softbankに回線使用料を支払う必要はない。自宅に無線LANがあるのならそこに接続してiPhoneからインターネットへでていける。そうしてクラウドコンピューティングの端末として使えることがiPhoneの魅力のひとつだろう。たとえば、パソコンの前でなくてもさっとiPhoneでアクセスできるのだ。ベットに寝転がってYouTubeを見るなんてこともできる。
 その手軽さを考えると、やはり無線LAN環境が自宅に欲しくなる。
 というわけで無線LANルーターを購入しようか、とも思っていたのだが、なにしろクライアントは今のところ、iPhoneだけだ。いくらなんでも無駄じゃね、という思いもあってルーターを買う気になれなかった。それなりの値段がすることでもあるし。
 そうやってヨドバシカメラをうろうろしていたところ、「BUFFALO Air Station NFINITI 11n/g/b USB用 無線子機 WLI-UC-GN」が目についた。なんとパソコンを親機にしてiPhoneを接続してインターネットへでていけるというのだ。おおっ、これぞ、求めていたものではないか。値段もルーターにくらべれば、安い。
 で、購入した。
 自宅に持ち帰り、取扱説明書を見て失敗したか、と思った。というのも何を書いているのか、さっぱりわからない書き方をしていたのだ。いったいどうやれば、ぼくのやりたいことができる、というのか。BUFFALOのサイトを見てみてもさっぱりわからない。ググってここのサイトのいうとおりにしてなんとか稼働させることができた現在でもこの説明書はひどすぎる、と思う。
 いずれにしても先行者がいてくれて助かった。感謝である。

2010年2月25日木曜日

iBearMoney



 お金を管理するために、ずっと貸借対照表――BSが出力できるものはないか、と探していた。個人のお金の管理なんてこづかい帳で充分だろう、という意見もあるかもしれない。しかし、それだと損益計算書――PLしか把握できない。定期的な収入があって財布の出し入れを管理するだけならたしかにそれで充分なのだが、現在、貯金を取り崩して生活している立場上、それだけでは不十分だろう。各銀行口座の状態を把握し、負債を管理するにはやはり、BSが必要だ。
 収入のない立場で負債――借金なんてもってのほかだ、と罵しられるかもしれないが、世の中にはローンとか、クレジットという形でどうしようもなく、発生する負債が存在する。それにBSで見ると、借金――負債が即それだけで問題とはいえないことがわかる。問題はそれをコントロールできないことなのだ。
 というわけで負債の管理をするためにBSは必須で、こづかい帳のようなPLだけでは力不足という結論に逹っする。

 実はHP200LXにはクイッケンというすぐれたソフトが同梱されていてそれがたぶん、理想に近いはずなのだが、以前、データの入力している途中でふっ飛んでしまったので使うのをあきらめてしまっていた。
 そうした中でiPhone上で動作するiBearMoneyを見つけたわけだ。
 最初は無料版で試していたのだが、ほぼ、望みは果せるようなので有償版に切りかえることにした。というのも無料版は機能制限版というよりも操作の邪魔をするようにできているため、非常に不愉快だったのだ――そのこと自体は勘弁ならん、と思っているのだが、日本語化された同等の機能を持つものが見当たらないので購入した。
 そして、iPhone上で動作するというところはかなりポイントが高い。
 というのも支出が発生した段階――スタバでコーヒーを飲んだ――そのタイミングでさっさとデータを入力してしまうことができるからだ。この、都度入力ができるというのがなんといっても助かる。レシートを見ながらその日の夜に入力なんて絶対、やらなくなってしまう。
 そういう意味でもiPhoneは携帯端末として便利だな、とも思う。

 ところで自分の手持ちのBSを管理したところ、やばい、という危機感がふつふつと沸いてきているところだ。
 やはりおれの人生に収入は必要だ。

2010年2月22日月曜日

デビッド・アレン「はじめてのGTD ストレスフリーの整理術」

はじめてのGTD ストレスフリーの整理術

 インターネットにはいろいろな情報があるもので。
 GTD(Get Thing Done)という手法がある、ということを知ったのもインターネットでだったが、なんとなくわかったつもりになっていたのもインターネットのせいだった。ところが提唱者の本を実際に読んでみたところ、思った以上にちがっていた。つまりぼくはGTDはtodoリストのちょっと進んだものと思っていたのだが、そうではなかったのだ。
 もしかしたらかんちがいしていたのは世の中でぼくだけかもしれないが、GTDのポイントはプロジェクトとか、next actionではなく、実は次の三つではないか。

・頭の中にある「気になること」をすべて外にだす。
・「気になること」を行動までブレイクダウンする。
・週次レビューを行なう。

 「気になること」をすべて、というのがとてもポイントが高いように思う。
 これはビジネス、プライベートの区別なく、すべて、という意味だ。何もかも、リストとして吐き出す。自分の全作業を把握するためでもある。そのため、週次レビューはかかせない。そうしないと、全作業が把握できなくなるからだ。
 そして、行動までブレイクダウンというのは――next action――、todoではなく、実際の行動を考えるということだ。たとえば、「求職活動」、というtodoリストではGTDではない。next actionとして「ハローワークへ行く」という風に行動までブレイクダウンしてこそ、GTDらしい。
 行動までブレイクダウンされていれば、たとえば、ネットで行なうことがビジネス、プライベートであったとき、パソコンの前でその行動リストをこなしていくだけで、いい。そうするためにも「気になること」はすべてなのだ。
 そうやって今までの自分のtodoリストを見返してみると、具体的な行動にブレイクダウンしていないせいで、いつまでも残留しているtodoの多いことよ。

2010年2月16日火曜日

iPhoneについてなど


 先月――1月末にauからsoftbankに乗りかえた。
 理由は簡単、iPhoneが欲しかったからだ。元々、iPhoneがアメリカで販売されたときから欲しいと思っていたのだが、残念ながら日本でのキャリアはsoftbankであきらめていた。別にNMPがあったのだからその必要はなかったのだけれど――踏ん切りがつかなかった。
 その踏ん切りをつけてくれたのが、twitterだった。まだ、twitterははじめたばかりではまっているというわけでもなかったのだが、おもしろそうな感じはうけていたので――iPhoneからtwitterをするのがいいという風評もあり、これはiPhoneにするしかないかな、と。御前崎へウィンドに行って「御前崎なう」とつぶやいてみたいなどと考えたわけだ

 で、iPhoneのキャンペーンをやっていたこともあり、softbankへ切り替えた。最後の最後まで金がないので躊躇していたことも事実だが。長いこと使用していたiPodの電池の保ちが悪くなっていることも背中を押してくれた。
 はっきりいって以前のauは携帯端末として所有していただけだった。
 どの機能もそれほど魅力を感じず、どのサービスを利用するにもユーザから金を絞りとるものとしか、見えなかった。今だに使い方もほとんど把握していないほどだ。マナーモード切り替えすら知らないし、着信音すらかえていない。
 それほど、いじる魅力がなかった――。
 ところがiPhoneである。
 タッチパネルがこれほど、快楽とは知らなかった。


 もちろんタッチパネルがすべてではない。
 携帯端末好きには工夫しだいで様々なことができるということはたまらなく魅力的だ。いじれる、工夫できる、というのは快楽なのだ。それが以前の携帯電話では何もできなかった。根本的には単なるコンピュータだというのにだ。それでマーケットを創出できると思っているところにメーカー側の傲慢さがある。
 たとえば、GPS機能だ。
 以前の携帯でもGPS機能はついていたが、ほとんど利用できなかった。今、いる場所を相手にメールで送信できますって? は? 何、それ、である。機能があるのにそれを利用する手段が御仕着せのものしかない。げんなりしたね。興味すらなくしたよ。
 iPhoneはGPSロガーとして使用することができる。もちろん、デフォルトの機能ではないが――デフォルトの機能のマップぐらいしかないが、それすら以前の携帯にはなかった――、ネットと連携したEveryTrailというようなアプリがある。それをダウンロードしてくれば、GPSロガーとして使用できる。
 そして、何がよいか――以前の携帯とちがうか、というと、たとえ、そのようなアプリがあったとしてもそれを御仕着せのものでしか、なく、こちら側に選択肢がなかった。iPhoneのアプリはいろいろとあるため、GPSロガーにしても何種類か、あるうちから選択することができる。
 ちなみにGPSロガーについてはウィンドの航跡を記録したいと思い、一度、GPSロガーを購入し、その直後に壊してしまった、という苦い思い出がある。今のところ、いろいろとアプリを見た感じだとEveryTrailがよさげだ。あとは海に行く機会と、iPhoneを身につけて海にでる勇気だけだ。


 iPhoneの魅力のひとつはネットとの接続を前提に考えられていることだろう。
 とくに素のiPhoneでもおそろしいことに、Googleのクラウド環境へSafariで接続できるのだ。これでたいがいのことはできてしまう。それだけでも充分なくらいで、それだけで携帯電話より使用価値はまちがいなく高い。しかもWi-Fi接続が可能なのだ。
 ちなみに昔、auの携帯のOperaからインターネット接続して天気図を見ていたのだが、画像データのドットを――おそらくデータ量を減らすために――抜かしていてなんのために天気図を見ているのか、わからなくてげんなりした。風向の矢印がどっち向きなのか、わからなかったりしたのだ。きわめて許し難かった。この件に関しては一生、auを恨みつづけるつもりだ。


 今のところ、iPhoneのアプリのお気に入りは次の二つ。いずれもまだ、無料版を使用中だが。

・iBearMoney
・Evernote

 Evernoteはほとんど携帯端末としてはキラーアプリケーションといえるのではないだろうか。