2020年5月22日金曜日

笠井潔「新版 テロルの現象学――観念批判論序説」(3)

 「補論 68年ラディカリズムの運命——『テロルの現象学』以後三十年」を読んでこれは「例外社会」だな、ということはわかったのだけれど、すぐにもしかしたら自分は「例外社会」を誤読しているんじゃないか、と不安になった。これは「例外社会」を読み直すしか、ないなぁ。
 とくに「コントロール社会」については。
 これは新しい世界の局面——ジョージ・オーウェル「1984年」の監視社会とはちがう世界の到来ではないか、と思っていたのだけど、本論の「新版 テロルの現象学――観念批判論序説」を読んだあと、待てよ、と思い直した。笠井潔は明確に述べていない(と思う)けれど、もしかしたら「コントール社会」というのは「共同観念」と把えることもできるんじゃないか、と。
 そうすると、外部を隠蔽しつづけ、累積しつづける「自己観念」は——。

 そもそも「科学」もまた、外部を隠蔽する「自己観念」にすぎないのではないか 1
 不思議として体験される外部が法則化され、内化される。それで外部はコントロール可能なものと認識されることになる——ただ、科学自体はそのことに自覚的なのかもしれない。カール・ポパーの哲学のように。

Footnotes:

1

いや「共同観念」なのか?

2020年5月21日木曜日

笠井潔「新版 テロルの現象学――観念批判論序説」(2)

 今回、読み返して一番、驚いたのは——どうでもいいことなのだが——、浅田彰の「構造と力」からの引用があったことだった。えっ、まさか、書き加えたの? と思って1984年版をひっぱりだして確認してしまった。
 頭の中で次のような時系列になっていたらしい。

  1. 笠井潔「テロルの現象学」出版
  2. 浅田彰「構造と力」出版
  3. 笠井潔「《戯れ》という制度」出版

 「《戯れ》という制度」の中でポストモダン——浅田彰を批判していた(と思う 1)ので、なんとなく、「テロルの現象学」が上梓されたあとに、「構造と力」がきっかけで日本のポストモダンの隆盛が起きた、と思っていたのだ。考えてみると、「テロルの現象学」は1984年の出版なのだから80年代に起きたポストモダンとは充分に同時期だったんだ…… 2
 そもそも赤塚不二夫がたしか「 赤塚不二夫のキャスター」で浅田彰の「構造と力」をパロったときはまだ、「テロルの現象学」を読んでなかったんだよな 3。まったく浅田彰を認識していなかったんだろうけど(今もだけど)。だいたい浅田彰を認識したのは笠井潔の評論を経由してあのときのはあれはあれか、と気づいただけだしなぁ。

Footnotes:

1

本を所有してないので確認できないけれど。

2

調べたら浅田彰の「構造と力」は1983年に出版されていた……。

3

読んだのは1990年。

2020年5月20日水曜日

笠井潔「新版 テロルの現象学――観念批判論序説」(1)

 たしか、出版されてすぐに購入したはずだからもう7年 1になる。
 どんだけ積読んだよ、という話だけど、ひとつには新版じゃない「テロルの現象学」は読了済みだったということもある。同じ作品社からでていた本——真っ赤な本だ。新版だからといって内容が変わったわけでもないし——あとがきには文章を多少、読み易くしただけ、とある——、なぜ、購入したか、というと、書き下ろしの補論が読みたくてだったのだけれど、そちらも途中で挫折してすっかり積読してしまった。
 ようやく読了できた。

 実は一度読んだ本を読み返すことはほとんど、しない人なのだけれど、これだけはいつか読み返そうと思っていた。なぜか、というと、よく理解できなかったから。読み終えたときに、今、理解していることはたぶんこの本のごく一部で、しかも正しく理解していないかもな、と。
 それから笠井潔の評論本を読みつづけてようやくくりかえされるさまざまな断片からなんとなく、「テロルの現象学」の内容がうすぼんやりとわかったような気になっていた。今回、再読してそれがすべてひっくり返されるということはさすがになかったけれど、やはり理解不足を痛感した。
 今だにまだ、ちゃんと理解し切れてないような予感はあるけれど。

 いつか、再々読できれば、いいな。
 すくなくともドストエフスキィの「カラマーゾフの兄弟」を読んでから。

Footnotes:

1

奥付には2013年とある。

2020年5月19日火曜日

if文に隠蔽される処理

 たとえば、変数の値によって関数の呼び出しをかえるような処理は、普通のプログラミング言語だと

 if(変数A == 999){
    処理関数(1);
}  else {
    処理関数(2);
}

 みたいな書き方をする。
 もちろん、Lisp系でも同じような書き方ができるけれど

( if (= 変数A 999)
    (処理関数 1)
    (処理関数 2))

 こんな書き方もできる。

(処理関数 ( if (= 変数A 999)
              1
              2))

 後者の方が見易いような気がする。というのも

(処理A)
( if (条件)
    (処理B 1)
    (処理B 2))
(処理C)

 となっていると、if文の中に処理がほんのわずかに隠されて処理の流れが見づらなるような。

(処理A)
(処理B ( if (条件)
           1
           2))
(処理C)

 ね?

2020年5月18日月曜日

mapcarとloop

 elispを独習しはじめたころ、おおっ、と感動したのは「mapcar」の存在だった。
 何を感動したのか、というと、それがループ処理だった、ということ。よくあるバグにループの脱出条件のミスって永久ループしてしまう、というのがあるけれど、これならかならず、終了するじゃないか。なので最初のころ書いたコードは「mapcar」だらけになってしまった。
 ところがある日、そのコードを読み返していて気づいた。
 ——読みづらい。
 「mapcar」の引数は

(mapcar 処理 リストを生成する処理)

 となっているので、処理の順番という意味ではうしろから読み解かなくていけないのだ。
 それが脳みそに余計な負荷をかけている。
 もちろんすぐにloopマクロの存在に気づいて、今ではloopマクロを使いまくりなのだけど。

( loop for x in リストを生成する処理
      collect 処理)

 こちらの方が「リストを生成する処理」「処理」と読んでいけるのでものすごく楽。
 今や「mapcar」はワンラインで書けるサイズでないと、書く気がしない、という。

2020年5月1日金曜日

or

 ぱらぱらとEmacsのライブラリの中身を眺めていたら次のようなコードをぶち当たった。

(goto-char ( or point1 point2))

 もちろんこのままじゃないけれど。
 わかるよ。point1か、point2が設定されているところへカーソルを移動する。うん。
 あんまりあっさり書けてしまっていたのでひっくり返ってしまった。