2011年12月24日土曜日

ガブリエル・ウォーカー「スノーボール・アース: 生命大進化をもたらした全地球凍結」



 地球はかつて全面的に凍結していた!

 はじめてそんな話に出会ったのはたしかNHKのドキュメント番組でだった、と思う。過去に地球全体が氷結し、氷の世界になったことがあるという。聞いたこともなかったのでなんだこの話は? と思ったことをはっきりと覚えている。しかもそれは何度も起き、生命の爆発的な進化に関係していた……というような内容だったと思う。
 どうやら元ネタはガブリエル・ウォーカー「スノーボール・アース: 生命大進化をもたらした全地球凍結」だったらしい。

 実際にはまだ、全地球凍結と生命の進化との関連はあきらかにされていないようだけれど、全地球凍結ということは実際に起きていたようだ。うーむ。ちょっと星野之宣のマンガを思い出した。「巨人たちの伝説」ではなく、短編の方。

 つくづく思うのは科学というものはひとりの天才の手によってなるのではなく、何人もの知の積み重ねなのだな、ということ。

 それにしてもこの間、観たスコット・デリクソン監督「地球が静止する日」がどんなに傲慢な映画かが、よくわかる。あの中で地球は人類によって滅びようとしている、というような考えで、地球を救うために人類を滅ぼす、と異星人が行動するのだが、なんとまぁ。人類なんて地球がちょっと凍結してしまえば、簡単に滅んでしまうだろうし、人類がどんなにどたばたしたところで地球は我、関せず、プレートは移動していくだけなんだよなぁ。

2011年11月15日火曜日

ジョン・ラフリー「別名S・S・ヴァン・ダイン: ファイロ・ヴァンスを創造した男」


 笠井潔の「バイバイ、エンジェル」――ずっと実際に読むまでハードボイルド小説だと思っていたことは内緒だ――の中で、ファイロ・ヴァンスの名前があらわれたときはやたらとうれしかった。というのもクイーンは、クイーン問題もあって名前をよく聞くのに、その先行者たるヴァン・ダインの名前は忘れ去られているように思えたからだ。ぼくが中学生のとき、熱中した名探偵ファイロ・ヴァンスの名前はすっかり。
 12本の長編ミステリのうち、11本は読破した。
 「ベンスン殺人事件」から読み出し、「カナリヤ」「グリーン家」と読み進み、熱狂し、そして、「僧正殺人事件」――。「グレイシー・アレン殺人事件」で挫折するまで。最後の「ウィンター殺人事件」が創元文庫で出版される前にぼく自身の興味が本格ミステリから日本SFの方に興味をうつってしまったということもある。
 「ケンネル殺人事件」以降のヴァン・ダインはほとんど記憶に残っていなことが今回の伝記で判明して愕然とした。「カジノ殺人事件」などタイトルすら忘れていた。「競馬場殺人事件」が「ガーデン殺人事件」のことであることに気づくまでしばらく時間がかかった。もちろん前期の傑作群のこともはるか、記憶の彼方なのだが――。ストーリーはほとんど思い出せないのだが、なぜか、ファイロ・ヴァンスがセザンヌの絵を買おうと見ているシーンのことはくっきりと覚えていて、ぼくはすっかり古典的な絵を、と思っていたのだが、ヴァン・ダインの当時はセザンヌというのは古典ではなく、現代画だったのだ、ということをこの伝記で知った。当たり前といえば、当たり前なのだが。
 ウィラード・ハンティントン・ライト。1939年4月11日没。享年51歳。
 すでにぼくはその年齢に逹っしようとしている。

2011年10月13日木曜日

エラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」


 ショックだったのはエラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」がむちゃくちゃおもしろかったことだ。それ自体はいいことなのだが、問題はエラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」を読むのはこれで二度目だということだ。再読だったのだ。うわー、こんなにおもしろかったっけ?
 もっとも前回、読んだのはずいぶんと前、十代の頃――中学二年のときで、当時のぼくのは創元社文庫の目録片手に本格推理のジャンルを読みふけっていた。ヴァン・ダインの「ベンスン殺人事件」から手始めに、順番に。結局、中学生時代に百冊ほど、読んだ。その流れで「ローマ帽子の謎」も読んだわけだ。エラリー・クイーンはドルリー・レーンもの四冊をコンプリート。国名シリーズは「オランダ靴」ぐらいまで読んだはずだ。
 それ以降は大藪春彦、筒井康隆にはまり、田中光二、山田正紀に出会い、SF、冒険小説、ハードボイルド路線へ転換してしまった。夢枕漠のキマイラシリーズがはじまったころだ。
 こまったことにエラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」がこんなにおもしろかった記憶がない。つまらなかったわけじゃないのはまちがいないのだが、あまり感銘を受けなかったような気がする。中学の授業中に教科書で文庫本を隠して読んでいた記憶があるからそれなりにおもしろかったのだろうが。
 おかげで作品の内容については全然、記憶に残っていなくておかげでほとんど、はじめて読む状態だったのだが――その結果、あまりのおもしろさに読むのをやめることができなくなった。こんなにリーダビリティが高かったっけ、と思いながら読みつづけた。なんとなく本格推理小説というものはリーダビリティはなく、最後の探偵の推理で、急におもしろくなる、と思いこんでいた。なんでそう思いこんでいたのか、不明だが――何かに毒されていたのだろう。松本清張か?
 つまりだ。ぼくは当時、ちゃんとミステリが読めてなかったのではないだろうか……。まったくガキがいきがって本を読んだふりをしていただけだったのか。

2011年10月11日火曜日

ヨン・アイヴィデ リンドクヴィスト「MORSE モールス」


 ヨン・アイヴィデ リンドクヴィスト「MORSE モールス」を読んで確信したのはマット・リーヴス監督「モールス」は小説をベースにしたものというよりトーマス・アルフレッドソン監督「ぼくのエリ 200歳の少女」をリメイクしたものだ、ということだ。そして、小説の過剰性というものについて考えさせられた。
 マット・リーヴス監督「モールス」はどちらかというと、よくできた短編小説のような味わいだったが、もちろん「MORSE モールス」は長編小説だ。しかも上下二巻とかなり長い。そのせいか、「ぼくのエリ 200歳の少女」はデ・チューンしたような印象が強かった。プロット的にもバランスが悪く、唐突感もある――エリ(アビー)の部屋に侵入者がやってくるとき、ドアの鍵がなぜか、開いているのだ。あれ、と思うが、小説版はもちろん、その部分はそうなる状況をつくり、抜かりなく描写されているし、「モールス」では侵入者はドアを蹴破ってくる(そのため、侵入者が警官だという設定が効いている)。

 それにしても小説版はなんという過剰性だろう。
 もちろん、映画には時間制約があり、元々、長編小説の映画化ということに関しては不利であることはまちがいない。そうやって考えると、映画というのはよくできた短編、という趣きを持つものなのかもしれないが――そうすると、長めの短編小説というのは市場的には不利なのかもしれない。
 「モールス」「エリ」がうまいのは小説の半分のストーリーに焦点を当てているからだ。もう半分――ゾンビストーリーの部分はあっさりと捨てられている。そのため、ゾンビストーリーに属していたトンミと警官の部分は「エリ」では捨てられている(逆に「モールス」は警官の部分をヴァンパイヤストーリーの方に組みこみ、男女の恋愛部分をカットしている)。

 しかし、「エリ」のシーンのすばらしさもある。最後のプールのシーンだ。あれは小説版には状況はあるが、描写はほとんどなく、小説的なやり方で処理している。しかし、映画版(「モールス」も同じく)では水中のシーンからプールサイドで起きている惨殺を描写するという、まさに映画でしか、できないようなシーンを構成している。あのシーンだけでもまさに一見の価値あり、といえるほどだ。あのシーンはすばらしい。そして、たぶん個人的な趣味もあるが、「モールス」よりも「エリ」の処理のしかたの方が鮮かだ。もっとも「エリ」ではそのあと、エリ(アビー)の顔のアップを挿入しているが、そこの部分だけは「モールス」の処理の方がいい。あの瞬間、エリ(アビー)がどんな異形でいるか、観客は想像せざろう得ないからだ……。「エリ」でも顔のアップだけを採用することでそれを感じさせようとしているが、「モールス」よりもやや効果が落ちている。両足だけがすこしだけ映る「モールス」の方がそれを感じさせる。
 そういう意味でも「モールス」は「エリ」をベースにして不満だったところを監督が丹念に補強したもの、といえる。完成度を高めた。
 プールのシーンは小説ではまさに小説としての処理をしているというか、映画ではよくよく考えるとおかしい点を仕掛け(サスペンス)にしてしている。つまりエリ(アビー)は本当は体育館に入れないはずなのだ。まねかれていない以上。まねく人間もプールから追い出されている(小説ではかなりの人間が目撃者として残っている)。もちろん、水中のシーンの鮮かさがあり、それゆえにシーン的には入れていないだけ、という風に映画ではされているわけだが。

 バスルームのシーンもすばらしい。
 単純にあのシーンだけなら映画の方が小説のそれよりも印象的だ。「エリ」よりも「モールス」の方がよい。蛹を想起させるあのシーンを観て、おおっ、「ボディ・スナッチャー」と思ったほどだった。マット・リーヴス監督は意図的に「ボディ・スナッチャー」のイメージを取り込んだのではないか。
 そして、エリ(アビー)の被害をうけた女性が陽を浴びて死ぬシーンの意図が二本の映画と小説では微妙にちがう。「モールス」はシンプルにバスルームのシーンの伏線としている。「エリ」は原作のシーンの映像化にしかすぎないが、小説はストーリー的に必要だからだ。「モールス」がよくできた短編小説のようだ、というのはそういう部分だ。夾雑物を除き、バスルームのシーンのサスペンスを高めるための伏線としている。(病室のシーンとバスルームのシーンが同じような色調でつくられているのは意図的なものではないだろうか)

2011年9月20日火曜日

マット・リーヴス監督「モールス」


 まったく何の予備知識もなく、観たのがよかったのかもしれない。深い感銘を受けた。とくに原題の「LET ME IN」というのがいい。象徴的ですばらしい。
 結局、マット・リーヴス監督「モールス」はマイフェイバレットな一本になった映画なのだけれど――なにしろ、主演女優のクロエ・グレース・モレッツが気に入り、あわてて未見だった「キック・アス」を観たほどだ。いやぁ、ヒットガール、いいですねぇ――、時代設定がわずかに疑問だった。1980年代――なぜ? 観ているときはこれはラストにかかわるのではないか、と予想していたのだが、そうではなかった。
 非常によくできた映画で、それなのにわざわざ1980年代にした理由はなぜだろう。つらつら考えた末、おそらくルービックキューブのせいだ、と気がついた。作品の中でルービックキューブが重要な役割を果すし、それを使用するのなら流行した1980年代に設定するしかないだろうからだ。たぶん原作がそうなのだろう。
 そのあたりを確認したくて、原作はまだ未読だが、リメイク元になったトーマス・アルフレッドソン監督「ぼくのエリ 200歳の少女」を観た。
 細かいところはもちろんちがうのだが、ハリウッドのリメイクとは思えないほど、ほぼ元ネタに忠実にリメイクしていて驚いた。しかもできは個人的にだけど「モールス」の方が格段にいい。細かい修正――ストーリーを整理して、夾雑物を排除しているという印象がある。せつなさの純度を高めている、というか。
 途中からずっとこりゃあ、「ポーの一族」だ、と思っていたほどだ。

2011年9月9日金曜日

ルネ・クレマン監督「狼は天使の匂い」


 マイフェイバリットムービーのひとつ――だった。
 観たのは高校のとき。深夜放送のテレビでだった。感動し、以来、もう一度、観たいと思っていたのだけれど、なかなか、観る機会がなかった。何度か、ググってみたりして探したことはあるのだが、どこにもない。ビデオ化されていたが、売り切れ。レンタルビデオ屋でも見つけることはできなかった。
 DVD化もされてなかった。
 それが最近、ググったときにDVD化されていた。
 個人的には高額。あちらこちらのレンタルムービーをチェックしてみたが、レンタルされてなかった。しかたない。Amazonでポチッとな。

 もちろん不安はあった。
 なかなかDVD化されてなかったということは世間的な評価はそれほど高くないということだからだ。それでも村上龍や山田正紀がエッセイやあとがきで映画の名前を出していたりいる。そんなに外れではないはずだ。
 外れではなかった。
 しかし、何十年も美化された感動を納得させるほどではなかった。
 初見でなかったということも原因だろう。
 ラストのシーンは鮮烈に印象に残っているのでそこへストーリーが運ばれていくのはわかっていた。まったく覚えていないエピソードがいくつもあったが、多くのシーンは観ると、思い出した。
 高校のときは予備知識はまったくなかった。偶然、観た。そのときとはやはり、ちがった印象を受けてもしかたないだろう……。
 それともテレビ放映のときはざくざくとカットされていてそれが逆にストーリーを不明確にしてファンタジックな印象を与えていたのだろうか。
 もうマイフェイバリットではないのだろうか。

 しかし、今、こうして愚痴りながらも断片的なシーンを思い出しているうちに、しみじみと、やはり悪くないな……、と幸せな気分にひたっているのだが。

2011年9月6日火曜日

中原俊監督「12人の優しい日本人」


 まちがいなく、自信をもって人に勧めることができる映画だ。
 とてもおもしろい。
 にもかかわらず、途中で何度も見るのをやめようか、と思ったことか。
 12人の主要登場人物のだれにも感情移入ができず、肌がざらつくような感じがあったからだ。つまり不愉快だった。もちろん、話はおもしろいのだ。だから思わず、見つづけてしまったのだけれど。
 じゃ、それがこの映画の欠点かというと、そうではなく、感情移入できないような「優しい日本人」を配置したのは脚本の三谷幸喜の周到な計算だろう。あの配役は必要なことだった。
 この手の映画は最後の三分の一で次々に話がひっくり返っていくのが、快感なのだが、それを期待していたからこそ、最後まで見つづけることができた。そうでなかったらもしかしたら見るのをやめてしまったかもしれない。
 何しろぼくはネット配信でこの映画を見ていたのだから。
 映画館、あるいは劇場などのどこかの小屋で見ていたのなら多少、不愉快であっても、見つづけるのが辛く感じられても最後まで見るだろう。それは観劇するために、劇場の中に束縛されているからだ。
 ところが、ネット配信、あるいはテレビ放映だと、中断する敷居が低くなってしまう。そうやって考えると、次々にアクションが起きて観客の気持ちを引いていくハリウッド風のつくりはある意味、必然なのかもしれない。

2011年9月4日日曜日

荒木飛呂彦「荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論」

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論
 荒木飛呂彦が選ぶホラー映画 Best20 で「アイ・アム・レジェンド」第4位。
 正直、えーっ、と思ってしまった。ぼくの中ではあの映画はがっかりだよ映画のひとつだからだ。あれが4位? 解せん。ところが「アイ・アム・レジェンド」について書かれていることはいちいち、納得で――最終的には荒木飛呂彦自身も不満点を上げている。ネタばれなのでボカして書いているが、まさにその点でぼくはその映画にはがっかりしてしまったのだった。
 「ヒッチャー」がBest20 に入ってなかったのは不満だったけど、中で褒められていたのでこれはちょっとうれしかった。

 それにしても同年代ということもあって映画のセレクトがまさに覚えのあるものばかりで――「エクソシスト」「エイリアン」「スクリーム」とか、なんともいえない気分になる。ああ、やっぱり同世代なんだな、この人は、と。
 まぁ、大部分はタイトルだけで観てない映画ばかりなのだが――ホラー映画だけでこれだけの数なら映画全体ならどんだけ観てんねん、と思ったが――、どれも観てみたい、と思わされてしまった。
 そういや、スティーヴン・キングの「死の舞踏」を読んだときもそんな気にさせられてしまったのであった。

2011年8月24日水曜日

2011年8月24日(水):本栖湖FUNビーチ:晴れ

*Sail:NEIL PRYDE Expression 6.7 Board:NG ACP 260

 一泊を視野にいれて本栖湖行き。
 到着したのは午後一時前。平日だというのにけっこう人がきている。どうやら二つのフリートが集団でやってきているらしい。湖面にはすでに十艇近くのウィンドサーフィンがでていた。
 風はなかった。
 これは途中、通過してきたドラゴンビーチも同様の感じだった。
 これから、なのか、ここまで、なのか。
 車からボードをひっぱりだしているとき、湖面の方からボードがプレーニングする音が聞こえてきた。ボードをビーチへ運び、セイルをセッティングして同じくビーチへ。湖面にはブローがはいっている。
 出艇しようか、と準備運動しているうちに風はなくなった。
 あれ?
 それでも風上の吹き出し口にはブローがはいってきているように見える。
 出艇した。ブロー。よし。ハーネス。あれ、かからない。何で? ブロー。よし。ハーネス。あれ? 何度か、試行錯誤してようやくハーネスをきちんとしめてなかったことに気づく。
 あわててビーチにもどってハーネスをしめなおした。
 一時間ほど湖面をうろうろしてようやく風が吹いてないことを納得する。きたっ、と思ったブローは実はたいしたことない、ということに。ボードの上に座ってあせらず、感じた吹きすぎるブローはただのそよ風だった。
 仕切り直しにビーチにあがる。騙しのブローに後ろ髪をひかれつつ。
 見回した本栖湖の風景はいかにも吹きそうないつもの本栖湖なのだが。

 セカンドラウンド。
 あいかわらず、ブローは入ってくるが単発。ジャイブにはいれるほど、長くは吹かず、プレーニングにもなかなか入れない。それでも一度、自分だけプレーニングして他のセイラーはプレーニングしていなかったときがあった。逆の状況はよくあるが――これは気持ちがいい。停止している他のセイラーにあっという間に追いつくからだ。
 もっとも他の時に、プレーニングを他のセイラーに上り殺されてしまったが。
 ポートの調子がとても悪い。オーバーブローときはセイルが引きこめず、沈するし、アンダーブローのときはうまくプレーニングにはいれない。あいかわらず、こっちサイドはへただなぁ、と嘆息するしかなかったのだが、ふと思いついてハーネスの位置を半拳うしろに下げてみたところ、うまくプレーニングできた。ただ、これはセッティングがうまくいったからなのか、それともたまたま、そのとき、うまく吹いていたからなのかわからないが。
 残念なことに次の機会はおとずれなかった。
 四時ぐらいに風はなくなってしまったのだ。
 このあと、日が翳りはじめてから吹き上がることはよくあるが、どうも終わりのような予感。だいたい、今日は純正の南というより、東に振れた風だった。
 途中まで粘って風待ちしたが、あきらめて道具を片付ける。
 iPhoneで明日の予想天気図をチェックし、今日と似たような天気図。今日と同じようなコンディションだとあまりおいしくないなぁ、と考えて本栖湖一泊は中止することにした。

20110824本栖湖


EveryTrail - Find the best hikes in California and beyond20110824本栖湖 at EveryTrail
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セーリング時間:1時間2分
セーリング距離:5.3km
平均艇速:5.1km/h
最高艇速:50.9km/h

2011年8月17日水曜日

2011年8月17日(水):本栖湖FUNビーチ:晴れ

*Sail:NEIL PRYDE Expression 6.7 Board:NG ACP 260




 本栖湖に到着したのは午後三時すぎであった。
 たしかに出るのは遅かった。中央高速が渋滞しているようだったので東名高速回りを選択したことももしかしたらまちがいだったかもしれない。二カ所ほど、道をまちがったし、鳴沢氷穴の渋滞にも思い切りつかまってしまった。
 どうやら世間ではまだ、夏休みがつづいているらしい。
 吹いていれくれ、という気持ちと、吹いてないといいな、という気持ちを抱えて本栖湖。ドラゴンビーチ側では西日で銀色に輝く湖面に多数のウィンドサーフィンが出艇していた。ほとんど走っていない。
 FUNビーチ前も同じような状況だった。
 ――あちゃ、遅すぎたか。
 そういう雰囲気がビーチに漂っていた。祭のあと。
 平日だというのに、けっこう人が来ていて駐車できた場所もFUNビーチからすこし下へおりたところだった。
 有無をいわさず、ボードを車からひっぱりだした。
 セッティングしているうちにブローがはいってきた。
 そうして湖上へ出艇したのは三時半のことであった。
 一発目でいきなりプレーニングした。したのはいいのだが、足首のアキレス腱が潰れてしまうと思うほど、痛み、びびる。ハイクアウトすると、足首の可動範囲ぎりぎりだったらしい。固くなっちまった。柔軟性がうしなわれた。ま、そういうことだろう。
 六時まで二時間は乗れるはず。
 その思惑は外れ、五時ぐらいには風向きが振れはじめ、うまくブローがはいってこなくなってしまった。五時半にあがる。帆走時間1時間3分。けっこうプレーニングしたと思ったが、平均時速8.7kmにしかすぎなかった。
 最高時速は47.6km。一瞬だけかろうじて40キロオーバー。一度だけ。EveryTrailのグラフを見ると、とんでもない数値がでている瞬間があるが、激沈したせいか、水没したせいだろう。
 それにしてもすっかり乗れなくなってしまった。ポートのライディングは何かおかしいし、ジャイブもできなくなっている。いかんなぁ。

20110817本栖湖 at EveryTrail
EveryTrail - Find the best hikes in California and beyond

セーリング時間:1時間3分
セーリング距離:9.1km
平均艇速:8.7km/h
最高艇速:47.6km/h

2011年8月10日水曜日

2011年8月9日(火):本栖湖FUNビーチ:晴れ

*Sail:NEIL PRYDE Expression 6.7 Board:NG ACP 260





















 午後近くに出発したせいもあって本栖湖湖畔に到着したのは二時を回っていた。計算外で盆休みの移動がすでにはじまっていたようで、あちらこちらで渋滞していたのである。
 FUNビーチは平日だというのにそこそこの人出だった。
 すでに何人ものセイラーが湖上にでている。ほとんど風はなく、浮かんでいるだけの状態だったけれど。あかんなぁ、はずしか、と嘆きながら車へもどる途中で見知った顔とすれちがう。野村さんであった(たぶん)。声をかけると向こうもなんか知った顔がいるなぁ、と思っていたらしい。
 もしかしたら三年以上ぶりではないか?
「やめてたんじゃないのー?」と笑いながらいわれた。
 いや、やめたも同然の状態だったですがね。土日が競馬で潰れているもので。金もなかったし。
 二年ぶりです、とぼくはいったけれど、よくよく調べてみると、ちょうど一年ぶりぐらいだった。三年ぐらいウィンドしていない気分なのだが――ウィンド原因の腰痛が治ってしまうほど。

 だめみたいだけど、一応、準備だけでもしておこうかなぁ、とセッティングを開始。あちらこちらのチャックが潮で噛んでしまっていて片っ端から壊れてしまった。あーあ。しかたねー。
 それでもなんとか、リグを組み立て終ったそのとき、東方向の曇った空から腹に響く雷鳴が――。
 湖上の十数枚のセイルがさすがにビーチへ移動をはじめる。
 終わったか。
 終了。ジ・エンド。ついてないときなんてこんなもんだ。
 雷鳴は北の空からも聞こえてくる。包囲されたような感じ。しかし、本栖湖へは近づいてこなかった。やがてほんのすこし吹きはじめた風にセイラーがふたたび、湖上へ。雷鳴は聞こえなくなった。
 ぼくも湖上へ。
 それにしてもこの出張った腹は何だ?
 まったく自覚はなかったが、パンツに締め付けられてまるでボンレスハムのようではないか。

 風はまったく足りなかった。
 時折、走り回っているセイラーもいるが、どう見ても体重の軽い女性か、幅広ボードにでかセイルという組み合わせ。それでも彼らにしてもブローをつかんでようやくという感じだった。
 FUNビーチの吹き出し口にはなんとなく、風がたまっているように見えるのだが、届くブローはどれもカスばかり。湖上をうろうろし、ビーチで休み、ぼくにできることなど何もなく、ふたたび、湖上の人に。なんとなく、心なしか、ブローがきているような気がする。
 吹き出し口めざして風上へとろとろと上る。
 きた。
 ブロー。
 あと五メーター、吹き上がってくれ。
 もうすこし。
 ハーフプレーニング。オンハーネス。テイルをひきずりつつ、祈るような気分。ぎりぎりでフルプレーニング。一年ぶりのプレーニング。両足ともフットストラップ。もっと吹いてくれ。ブローの端がすぐそこだ。
 重い。
 おれが重い。とても重い。
 気づくと、失速していた。
 それからしばらくブローがぽんぽんと入ってきたのだけれど、ほとんどあとちょっとでプレーニングできるのにっ、と状態だった。ポートタックがとくにひどく――セッティングも悪く、腕もなかった――、泣けた。
 それでも一本、ふたたびスタボータックでプレーニングすることができ、しかもジャイブした。
 そして、それで終わりだった。
 それから粘ったが、風は上がりそうで上がらず、気だけもたされて本日のウィンドは終了したのだった……。
20110809本栖湖 at EveryTrail


セーリング時間:1時間48分
セーリング距離:6.2km
平均艇速:3.4km/h
最高艇速:33.6km/h

2011年8月3日水曜日

TODO管理

 GoogleTasksをいじっていてふと、日時を指定すると、GoogleCalendarに該当項目が表示されることに気づく。ただし、デスクトップ版だけだが。
 それでもおっ、と思った。
 というのもTODO管理をEmacsのOrg-modeからGoogleのTasksに移行しない最大の要因がTODOの日時指定だったからだ。Orgならタスクをばらばらと入力していってデッドラインとかの日付をいれると、agendaに表示されるようになる。Googleのサービスだとわざわざ、Calendarに入力してやらなければ、ならないとばかり思っていたのだ。そうじゃないならGoogleへTODO管理を移してもいいんじゃないか?
 それでもOrg-mode on Emacsはかなり強力でなかなか手放せなさそうなのだが――iPhoneやiPadで動くMobileOrgというアプリもあることだし。Dropboxを使うことによってデータの共有も楽にできる。が、それでもこちらの環境は日々、かわりつつあったのだった……。
 パソコン同士だけのデータ共有ならおそらく移行しようとは思わなかったと思う。ところが最近は端末がiPhoneやiPadが仲間入りしてしまった。これらの上でEmacsが動くなら今までと、かわらなかったのだが、あいにくこれが動かない。パソコン自体を起ち上げていないことがまま、あるのだ。
 たしかに前述のとおり、MobileOrgというものがあって便利に使わせてもらっているのだが、ひとつ不満な点があった――データの同期にEmacs上で操作が必要なのだ。MobileOrgで入力した内容を取り込むにしてもパソコン上のデータを渡すにしても。
 ひと手間、多い。
 これが不満でEvernoteでTODO管理できないか、とも考えていたのだが、どうもこれといったアプリが見つからない。とくにTODOの日付指定がネックだった。GTDっぽい真似事をしていることもあってスケジュール側から物事を発想しないのでTODOからCalendarの自動的な同期はどうしても欲しい。SnapCalというアプリがそれに近そうな機能を持っていそうなのだが、微妙にちがう。
 それがGoogleTasksで解決できそうな按配だ。
 あとはGoogleTasksの項目がmobile版のカレンダーやiPadのカレンダーにできるようになることを望む。
 まぁ、最大の問題はオフラインのパソコン上でどうやってTaskを入力したり、見たりするか、ということかもしれない。Org-mode on Emacsに自動で同期できれば、いいのだが――あいにくGoogleTasksのAPIはまだ、公開されてないみたいだからなー。

2011年8月2日火曜日

org-mode=>iPad2,iPhone

 calfw-orgを導入したらGoogle Calendarにorgの予定を同期したくなってしまった。calfwがEmacsで動くにしてはあまりにもかっこよかったからである。元々、カレンダーは月単位の升目表示が好みということもある。
 パソコンでできるならiPadやiPhoneのカレンダーに同期したくなってしまったのだ。iPhoneはSnapCalだけど(これも月表示で升目に予定が表示されるから)。
 Calnedar for iPadやSnapCalは Google Calendar から同期できるからorgから Google Calendar へ同期できれば、OKと考えわけだ。


 すぐに思いついたのはDropboxを使う方法だった。
 Dropboxにorgからexportしたicsファイルを置いて、それを外部リンクとして Google Calendar に同期する。 Google Calendarは「他のカレンダー」としてicsファイルの取り込むことができる――はず。
 楽勝。
 そう思ったのだが、思わぬ伏兵があらわれた。
 Google Calendarがicsファイルの文字コードをUTF-8として認識してくれない……。これにはまいった。そういう話があるということは知っていたのだが、なんとかなるだろう、とたかをくくっていた。UTF-8だめ。EUCだめ。ShifJISだめ。JISだめ。UTF-8をエスケープしてもだめ。
 袋小路にはいってしまった。Google Calendar側で対応してくれなければ、無理だ。そうでないなら自分でサーバを立ち上げるか……(char-setを与えてやればよいらしい)。


 ふと他の方法(Google Calendar経由以外)で、iPadへ同期できないだろうか、と考えた。で、設定を見ていたらなんと、Dropboxのicsファイルを直接、読みこめるじゃないか!

 設定>メール/連絡先/カレンダー>アカウントと追加>その他>照会するカレンダーを追加
※ずいぶん前からDropbox側の仕様変更によりicsファイルの参照ができなくなってしまっている(2017/06/02記)

 で、なんと簡単にDropbox経由でicsファイルをiPadへ取り込めてしまった。リードオンリーだけど、この場合、その方が都合がいい。SnapCalにはそういう機能はないみたいだけど、iPhoneのCalendar経由でicsファイルの予定を取り込むことができた。唯一の欠点はすべての予定がGoogle Calendarに集まらない、ということだけど、どうせパソコンからはGoogle Calendarではなく、org-modeを使うから無問題だ。
 Google Calendar=>org-modeはcalfwで可能という話だし。最悪、なんとかなるでしょw

2011年8月1日月曜日

指を動かす

 きっとぼくは馬鹿なんだろう。

 というのもつらつらとkiwanamiさんのサイトの非同期処理deferredを読んでいたのだが、なんかうまく理解できない。使ってみれば、わかるかも、とは思ったが、なにしろEmacsが動く環境がスタンドアローンにしかなかったので、インストールすることすらできなかった。
 しかたなく、deferredで使っているという「run-at-time」を動かしてみようと*scratch*バッファでrunと打ったところで、はっと、気づいた。そうか。
 lambdaってすげー。

 それにしても指を動かさない、とわからないってどうよw。

2011年7月25日月曜日

メモ

  org-mode
  GoogleCalendar
   現在、GoogleTasksはimportをサポートしていない
    たぶんそのせいで、iCalのTODOの項目がGoogleCalendarにimportされない
  anything
   使えれば、悪くなさそうだが、指が覚えている操作に合致しない場合、マイナス
    とくにbookmark
  calfw
   すばらしい。かっこいい。
   org連携あり
    ただし、orgのDiary連携したデータは表示されないようだ
   翌月、前月の移動がうまくいかない
   最新版が今日、リリースされていてショックを受けてたりして>おれ

  iPhone、iPad、ThinkPad、DeskTopのカレンダー、TODO連携
   だいたいそんなことをやらなければ、ならないほど忙しい人間か、という思いはある
   iPhone、iPadはGoogleCalendarを連携できる
    ただし、TODO(GoogleTasks)はまだ、サポートがいまいち
    iPhoneはSnapCalを使用
     なんとこれはEvernoteとも連携できる!
    つまりGoogleCalendar連携ができれば、完璧!
    calfwはorgとiCalを混在表示ができるらしい
     しかし、どちらかといえば、orgで管理したい
      calfwはorgのviewの位置づけ
     つまり、orgにGoogleCalendarから情報を取り込めないか?
      GoogleCalendar->org
       icalendar-import-fileでDiary形式の取り込みは可能
       単純にDiaryに取り込んだら2回目以降が面倒
       なので、Diaryのinclude機能を使用したらどうか?
        たぶんorgはDiaryのfancy機能を使用しているっぽいので取り込んでくれそうな気がする
       gCalというファイルを生成
       Diaryからinclude
       そうすれば、GoocleCalendarの複数カレンダーも対処可能
       すばらしい。あとはどう自動化するか。
        calfwのやり方をパクる
     org->GoogleCalendar
      orgでiCal形式出力が可能
      それをDropboxでGoogleCalendarへ連携はできそう
      しかし
       TODO項目がサポートされてないのが痛い
       orgでスケジュールやデッドラインはTODOでやっているので
       こちらの入力パターンを変更する
       単純にTODO項目をEVENT項目に変換したらGoogleは取り込んでくれるだろうか?
        いずれにしてもGoogleのサポート期待
    これでiPhone、iPad、ThinkPad、DeskTopの連携ができるようになるはず
     だからどうした、と内心の声
    そもそもこれらのことをやりたいのはMobileOrgのagendaが予定を一週間しか表示できないため
    やはりcalfwのように表示したいよな、と
    しかもMobileOrgだと翌週の予定を見ることができない
    データが連携されてないから
    なので上記のことができたら予定表はSnapcalから見て、TODOはMobileOrgということになる
    MobileOrgからDONEできるしね

2011年7月4日月曜日

無線LANルータ

 こういうのをタイミングが悪いというのだろうか。
 マーフィの法則?

 無線LANルータをAmazonでポチッとしたのは一週間ほど前のことだ。元々、無線LANは「BUFFALO Air Station NFINITI 11n/g/b USB用 無線子機 WLI-UC-GN」を使用していたのだが、これはパソコンをルータ化するものだ。さすがに家に二台のiPad2、一台のiPhoneがある状況で、いちいち無線LANを使うときにパソコンを起動するのがかったるくなってきた。
 パソコンを起ち上げっぱなしにするのは節電が叫ばれている世の中、なんとなく居心地が悪い。というわけで、無線LANルータを買うことにしたのだが、Amazonでポチッとした翌日、ルータにしていたパソコンの電源が入らなくなってしまった。
 分解したり、いろいろとやっていたら偶然、電源が入った。
 たぶん電源ユニットが壊れかけているのだろう。
 ということは、だ。ここでパソコンの電源を切ったら明日には二度と起ち上がらなくなるかもしれない。そうなるといくら節電が叫ばれていても事情がかわる。起動させっぱなしにすることにするしかなかった。
 そうすると、なんのために無線LANルータを購入したのか、わからなくなってしまった。パソコンの電源を切るために購入を決意したというのに。
 タイミングが悪い。
 つくづくそう思った次第。おれの人生、終わっているな、と。

2011年6月26日日曜日

押井守「紅い眼鏡」


 たしか直接、「ブルークリスマス」を観に行くきっかけになったのは星新一だったような気がする。奇想天外というSF専門誌で星新一が褒めていたのだ。元々、そのころはわりと映画を観に行っていたので、ロードショーを観に行った。今でもラストの竹下景子のシーンはよく覚えている。SF映画にしては特撮などなく、ドラマをたんねんに積み重ねた映画だった。
 その映画館で印象的な予告編を見た。
「犬の時代は終わり、猫の時代が始まった――」

 たしか、そのようなナレーションが入った予告だった。かっこいい。絶対、この映画、見たい、と思った。ところがそんなことをすっかり忘れて日常に埋没し、後年、レンタルビデオで押井守の「紅い眼鏡」を観てむちゃくちゃ気に入ったにもかかわらず、その予告編が「紅い眼鏡」のものであることにまったく気づかなかった。
 気づいたのはさらにそのあとで、ふと「紅い眼鏡」のことを思い出し、「ブルークリスマス」のときに観た予告のことを思い出したのだった。
 ――あっ。
 てなもんだ。


 「紅い眼鏡」は人にはあまり勧められない映画だけれど、一応、ぼくのベストテンに入る――そして、「紅い眼鏡」を観たころ、別の衝撃的な映画と出会った。
 塚本晋也の「鉄男~TETSUO THE IRON MAN」である。
 1990年のことだった。

2011年6月12日日曜日

橘玲「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」



 非常におもしろく刺激的な本で書かれている内容はほぼ同意しつつ――基本的にぼくも自己啓発はあまり意味がない(まったく無意味とは思ってないが)――、なぜか、ぼくの結論はたぶん、著者とはまったく反対のようだ。


 著者は遺伝子ですべてが決定されるといっていないが、たとえ、すべてが決定されていたとしてもぼくは何の問題もないと考えている。努力に有効性はあるし、人生は未知のままだ。単純にいってぼくらは自分がどんな遺伝子をもっているか、なんてわからないのだから。
 子どもは両親のもつ遺伝子しか、与えられないじゃないか、と意見もがあるかもしれない。しかし、両親のもつ遺伝子をすべてわかっていないかぎり何の問題ないではないか。未知のままだ。
 次の三点から遺伝子が決定的要素であったとしても問題ないと思う。

1. 有性生殖である
2. 脳の可搬性は想像以上に大きい
3. 環境によって発現するかしないか決定される遺伝子が存在する

 とくに「有性生殖」の要素は大きい。
 ぼくらは両親の遺伝子にすべてを決定されるが、半分の遺伝子は捨てられるのだ。頭の悪い両親から、頭の悪い子どもが生まれる可能性は高いかもしれないが、それは可能性が高いだけだ。A型の母親とB型の父親からO型が生まれることがあるように、有性生殖を介することによって「トンビが鷹を生む」。
 それは頭の良い両親から頭の悪い子どもが生まれる可能性があることも示している。統計的には遺伝子は決定的かもしれないが、個々人には何の関係もない。どちらであるのか、わからないのだから。
 「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」の中の比喩に従うならジャイアンにも勉強の才能があるかもしれない、ということだ。


 この本で多少なりとも苛立ちを覚えるのは、このように全体を個人すべてに均等に適用している部分があるからだ。たとえば、嫉妬深さについての考察がある。嫉妬深さは進化の結果、獲得された形質だ、と――それ自体はそのとおりだと思うのだが、それが、すべての嫉妬しない人々を淘汰したと考える根拠はどこにもない。
 第一、今以上の嫉妬深さでないのはなぜか、という観点がないのはなぜか?
 それは嫉妬深すぎると、生存に支障をきたすからだろう。そうであるなら当然、嫉妬深くないことが有利な状況がありうるということだ。


 自己啓発は無意味だという著者より、努力にも有効性があるかもしれない、と考えるぼくの方が楽観的なのだろうか?
 むしろ絶望的だとぼくには思える。
 ぼくの考え方はあるかないかわからないものに賭けつづけなければ、ならない、ということなのだから。
 そして。
 ぼくたちは目標に向かって努力して失敗したとき、それが才能がなかったからなのか、努力が足りなかったせいなのか、ただ、運が悪かっただけなのか、わからない。もちろん成功したとしても。

2011年6月2日木曜日

ロバート・A・ハインライン「天翔る少女」


 ロバート・A・ハインラインって凄いな、と思ったのは「夏への扉」のことを思い出したときだった。読んでのは1982年のことだからもうずいぶん前のことだ。それをふと思い出し、当時はまったく気づいていなかったことに気づき、感銘を受けた。「夏への扉」はタイムトラベラーものの代表的な作品だけれど、よくあるパターンともいえる未来を知っている主人公が大金持ちになる、という展開がある。
 その方法がふるっていた、ということに気づいたのだ。
 「バックトゥザフューチャー」でもそうだけど、よくあるのがギャンブルで大儲けという手。ところが「夏への扉」はそうではなかった。なんと、株を買うのだ。ギャンブルと同じじゃん、と思うでしょう。ぼくも読んだ当時はそう思っていた。でもバートン・マルキール「ウォール街のランダムウォーカー」を読んだり、ウォーレン・バフェットや株のことを知った今は微妙にちがう感じを覚えた。
 ちょっとバートン・マルキールとハインライン、なんか似てね? とも。

 で、「天翔る少女」だ。
 この中でもハインラインの経済学者的な要素があって驚いた。出産についてだ。なんと「天翔る少女」の火星では(原題は「火星のポドケイン」)、若い頃に妊娠した胎児を冷凍保存し、経済的に安定したときに解凍して子どもを育てる、というのだ。これは妊娠するのは若いときがいいという生物学的理由――歳をとると精子の遺伝子のエラーの確率が増える――、しかし、そのときには普通、その頃の男女は子どもを育てるには経済的に苦しい、という状況を解決するための方法である。
 何が驚いたってこの内容はスティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー「ヤバい経済学」の中にあるどうして黒人の犯罪発生率が減少したか、という考察と瓜二つの発想だからだ。
 あわてて「天翔る少女」の発刊日付を見ると、1958年。
 ハインラインの発想、すごすぎだろ。

 作品自体は小品と称すべきかもしれない。
 ラストのトムおじさんの科白に違和感を覚えた人も多いのではないだろうか。ぼくもそのひとり――解説にも似たことが書いてある――だったのだが、よくよく考えると、この科白はきわめて当然なのだ。というのもトムおじさんは次のような科白を述べているからだ。
「(中略)政治はけして悪ではない。政治は人類の最大の功績なんだ。よい政治ならすばらしいし……悪い政治でも……そこそこすばらしい」
     (中略)
「いいかい、政治というのは、そう戦わずして、事を処理するやり方のことをいうんだ。駆け引きをして、みんながみんな、自分だけ損をしているような気になったりもする。ところがな、うんざりするぐらい話し合っていると、どういうわけか、人の顔をぶん殴らなくても、応急処置的なことを考えつくんだよ。それが、政治だ。でなければもう顔をぶん殴る以外にいざこざを処置する方法はない……。そんな事態になるのは、片方か両方かが、話し合う気をなくしたときだ。だからわしは、悪い政治でもそこそこすばらしいというんだよ。政治に代わる手段は腕力だけで、そうなると深刻に傷つく者がでる」
 ということは何を差してトムおじさんがクラークはだめ、といっているのか、わかる。何が手遅れなのか、ということが。
 そう思い至ったとき、ずいぶんと「天翔る少女」の印象が変わった。

2011年5月28日土曜日

千街晶之「幻視者のリアル (幻想ミステリの世界観)」



 俎上にあげられている作品のほとんど読んでいないことにショックを受けた。どちらかといえば、幻想ミステリは好きだし(そのはずだ)、この間など「ミステリウム」に深い感銘を覚えたというのに。中井英夫の「虚無への供物」だって好きだし、夢野久作だってそうなのに。
 ほとんど読んでいなかった。
 元々、多読なたちではないのだが、それにしても。
 とくに赤江漠と皆川博子を読んでないことはショックだった。そのことを思い知らされた。
 赤江漠と皆川博子は――高校に入った年、毎月、貸本屋で小説現代を月遅れで借りて眺めていた(あまり読んではいなかった)とき、よく見かけていた名前だった。気になっていた名前だった。皆川博子の「水底の祭り」を読んでショックを受けていたというのに――全然、著作は読んでいないのだった。
 せめてこの中の著作のいくつかは読んでみたいのだが、読むことはできるだろうか……。

2011年5月23日月曜日

iPad2、来る!

 ようやく心待ちにしていたiPad2が到着。
 夕方から出かけもせず、夜遅くまでいじってしまう。途中、家の無線LANに接続できずにどうしたらいいか、夜の街を彷徨ってしまったが。どこかフリースポットはないか、と。以前、見つけていた場所にもなく。結局、DELLに「BUFFALO Air Station NFINITI 11n/g/b USB用 無線子機 WLI-UC-GN」をインストールしなおし、無事、ルータ化に成功。というか、ThinkPadでルータ化してiPad2で接続できなかったのはおれの勘違いからだった。パスフレーズが実はあっちの方だったとは。



 まぁ、よい。
 で、AppleStoreでいろいろアプリをダウンロードしようとしてはたっ、と困ってしまう。結局、必要なものはEvernote、Dropbox、iBookぐらいではないか、と。ほかのものはiPhoneで使用できるので何もわざわざ、iPadに落とす必要はない。
 見ると、Skype for iPadもないみたいだし。
 となると、なんでiPadを買ったのか、ということになる。
 そうだ。競馬のためだったんだ、と今日、試しにSafariで馬券を買う。まぁ、悪くない。でも、とはじめてここで気づく。iPhoneでよかったんじゃね?
 いちいちパソコンの前で馬券を買わなければ、いけないことが不便だと感じていたのだが、それで手元に置いておけるiPadと考えていたのだけれど、実はiPhoneでもできんじゃーん。iPadを購入してから今日、気づいた。馬鹿だ。
 でもまぁ、動き自体はiPadは軽快で、もしかしたらうちで一番、軽いマシンかもしれない。ただ、思ったよりも重いんだよねー。これが半分の重さならまちがいなく、OKなのだが。まだ、重い。ノートブックパソコンはこの重さなら確実にOKなのだが。使うとき、手に持たないから。でもiPadは手に持つんだよねー。この差はけっこう、大きい。
 まぁ、一番の問題は何に使うか、という明確なビジョンがない、ということだな。今のところ、馬券の投票用でしかない。それでも十分だけど。それにしては重すぎる。でも最大の問題点はDELLを動かしていなければ、いけないということかもしない(DELLをルータ化しているから)。なんか、無駄と感じてしまう。
 あとはやはり有料アプリを購入する必要がありそうな。
 iPhoneはほとんど、無料アプリでなんとか、なっているのだが。
 有料アプリを使うと負けみたいな感覚があるんだよなー、どうしても。無粋な感覚だが。それにiPadに閉じられるのはやはり嫌だ、というのもある。
 わがままだねー。

2011年5月21日土曜日

フランシス・S・コリンズ「遺伝子医療革命―ゲノム科学がわたしたちを変える」



 エイズは不治の病だ、と思っていた。
 DNAに自分自身の遺伝子を逆転写するというそれだけで治療する方法など存在しないのではないか、と思っていたのだけれど、そうではないらしい。すでに完治している人間がいることをこの本ではじめて知った。
 しかもエイズに感染しない人間というのもごくわずかだが、存在するらしい。

 自分の知識がすでに古く、科学はたゆまなく進歩しているのだな、と痛感した一冊であった。

2011年5月15日日曜日

アガサ・クリスティー「邪悪の家」


 中学生のころ、結構、創元文庫の本格ミステリを読破することを目標に本格ミステリばかり読んでいた。だいたい100冊、読んだのだけれど、そのときのお気に入りはヴァン・ダインで、ファイロ・ヴァンスに痺れた。http://www.blogger.com/img/blank.gif
 後年、笠井潔の「バイバイ・エンジェル」を読んでファイロ・ヴァンスのことが一行、書かれていて無性にうれしかったのだが、それはまた別の話。
 クリスティーはどちらか、というと苦手な作家で――短編はすばらしいのに――「ミス・マープルの13の謎」とか――、なんで長編はつまらんかな、と思っていた。「アクロイド殺害事件」も「オリエント急行の殺人」もあまり、おもしろいとは思わなかった。ただ、これはメイントリックを知っていて読んだということもあるかもしれない。昔、ミステリのトリックをクイズ形式で片っ端からばらした本があってそれを読んでいたのだった。ちなみにその本の中で夢野久作の「ドグラ・マグラ」は読んだら気が狂う、奇書として紹介されていた。
 ただ、最近、「オリエント急行殺人事件」見たとき、当時のぼくはちゃんと、小説を読めていたんだろうか、という疑念が沸いた。というのも「オリエント急行殺人事件」がおもしろかったのだ。
 なのでクスティーをいつか、読み返してみようか、と思っていたのだが、存外、早く読んだ。それが「邪悪の家」だ。初見なのだけれど、非常におもしろかった。
 やはり中学生当時のぼくはちゃんとミステリを読めてなかったのかもしれない。今、読めているという想定も幻想かもしれないが――。
 興味深かったのはエルキュール・ポワロだ。エルキュール・ポワロという装置。
 実はクリスティーはだめと烙印を押してしまった原因のひとつはエルキュール・ポワロだった。「晩餐会の13人」という作品の中で、本の半ばでほとんど真相はあきらかに思えたのに、名探偵であるポワロが右往左往していたのだ。
 で、結果、こちらの想像通りの真相だった。
 そんなこともあり、クリスティーはだめ、と烙印を押してしまったのだが、もしかしたらそれは読者というメタな立場にいる人間の傲慢さだったのかもしれない。
 今回も似たような感じではあった。
 たぶん「邪悪の家」のメインのネタは本を半分ほど読んだところで、気づく人も多いのではないか、と思う。ただ、それは論理的に逹っした結果ではなく、今までの読書経験からの類推なのだ、と思う。すくなくともぼくはそうだった。それを割り引いても作品としてのリーダビリティは高く、読まされた。それはポワロという装置がストーリーをドライブさせていたからだ。
 たぶん「晩餐会の13人」のときのぼくはポワロを名探偵として考え、そうでないことが不満だったのだろう。なんで読者は気づている真相にこの名探偵はかけらも気づかない……。
 実はポワロは名探偵ではない、と今回、ようやく気づいた。どちらかというと事件を語り、ストーリーをドライブさせる装置なのだ、と。今回だけなのかもしれないが――たとえば、冒頭で主要人物が撃たれたことに気づき、いきなりサスペンスのフェーズに放りこんだのはポワロなのだ。事件に気づくという形で――。

 いずれにしてもクリスティーは世間の評価通りおもしろい、とようやく了解できた。これはよろこばしい。さて次は何を読もうか……。