2011年6月12日日曜日

橘玲「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」



 非常におもしろく刺激的な本で書かれている内容はほぼ同意しつつ――基本的にぼくも自己啓発はあまり意味がない(まったく無意味とは思ってないが)――、なぜか、ぼくの結論はたぶん、著者とはまったく反対のようだ。


 著者は遺伝子ですべてが決定されるといっていないが、たとえ、すべてが決定されていたとしてもぼくは何の問題もないと考えている。努力に有効性はあるし、人生は未知のままだ。単純にいってぼくらは自分がどんな遺伝子をもっているか、なんてわからないのだから。
 子どもは両親のもつ遺伝子しか、与えられないじゃないか、と意見もがあるかもしれない。しかし、両親のもつ遺伝子をすべてわかっていないかぎり何の問題ないではないか。未知のままだ。
 次の三点から遺伝子が決定的要素であったとしても問題ないと思う。

1. 有性生殖である
2. 脳の可搬性は想像以上に大きい
3. 環境によって発現するかしないか決定される遺伝子が存在する

 とくに「有性生殖」の要素は大きい。
 ぼくらは両親の遺伝子にすべてを決定されるが、半分の遺伝子は捨てられるのだ。頭の悪い両親から、頭の悪い子どもが生まれる可能性は高いかもしれないが、それは可能性が高いだけだ。A型の母親とB型の父親からO型が生まれることがあるように、有性生殖を介することによって「トンビが鷹を生む」。
 それは頭の良い両親から頭の悪い子どもが生まれる可能性があることも示している。統計的には遺伝子は決定的かもしれないが、個々人には何の関係もない。どちらであるのか、わからないのだから。
 「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」の中の比喩に従うならジャイアンにも勉強の才能があるかもしれない、ということだ。


 この本で多少なりとも苛立ちを覚えるのは、このように全体を個人すべてに均等に適用している部分があるからだ。たとえば、嫉妬深さについての考察がある。嫉妬深さは進化の結果、獲得された形質だ、と――それ自体はそのとおりだと思うのだが、それが、すべての嫉妬しない人々を淘汰したと考える根拠はどこにもない。
 第一、今以上の嫉妬深さでないのはなぜか、という観点がないのはなぜか?
 それは嫉妬深すぎると、生存に支障をきたすからだろう。そうであるなら当然、嫉妬深くないことが有利な状況がありうるということだ。


 自己啓発は無意味だという著者より、努力にも有効性があるかもしれない、と考えるぼくの方が楽観的なのだろうか?
 むしろ絶望的だとぼくには思える。
 ぼくの考え方はあるかないかわからないものに賭けつづけなければ、ならない、ということなのだから。
 そして。
 ぼくたちは目標に向かって努力して失敗したとき、それが才能がなかったからなのか、努力が足りなかったせいなのか、ただ、運が悪かっただけなのか、わからない。もちろん成功したとしても。