2010年10月17日日曜日

馬券生活(11)

 しかし、結局、ぼくがパスポートをうけとることはなかった。
 金がなかったのである。
 リトルガリバーで叩きだした十万は一ヶ月かからずに消えてなくなった。幸いなことにそのあと、その友人から連絡がくることもなかった。サイパン旅行の話自体、どこかへ消えた。
 末期であることはまちがいなかった。
 体調もけしてよくなかった。
 左耳の中がいつもじゅくじゅくと化膿していて透明な液が滲み出て止まらなかった。最初はパチンコをやっているとき、防音ために耳の穴にパチンコ玉を入れていたことが原因だった。新鮮な空気に触れなくなるため、耳かきでつけた傷が化膿して治らなかったのだろう。ところがパチンコをやめたというのに一向に完治する気配はなかった。
 延命だけのために、馬券購入の金額を百円単位にし、競馬場へ行くことも完全にやめてしまった。PAK購入のスタイルに変更し、購入スタイルも変化した。資金はKさんから借金した。
 馬連――流し馬券を基本にし、軸を決めての流し馬券。ただし購入金額はそれぞれに厚みをつけ、的中すれば、二倍になるように計算した。そのためにPAKの通信ソフトがオッズを受信すると、そのデータを読みこんで、組み合わせを指定すると、金額を自動的に算出するプログラムを組んだ。
 データ競馬だったが、半年ぐらいしか保たなかった。
 馬券生活に入った元々のきっかけ――パドックを見れば、馬券が獲れるはず――ということすら否定した馬券だった。
 混乱していた。
 すでに生活だけではなく、自覚がなかっただけでぼく自身もまた、破綻してしまっていたのだろう。
 Kさんへの金の無心がひんぱんになってきたある日。
 彼女がいった。
「わたしはヒモを養うつもりはないのよ」
 小さく囁くような声だった。


 年がかわり、中山競馬場に開催が戻ってきた。
 資金はなかった。そのはずなのにぼくはまだ競馬場へ通っていた。
 暇なときはスカパーの無料の映画を観ているか、パソコンをいじっているか、喫茶店で本を読んでいた。
 近くのハローワークへ行って様子をうかがったこともある。
 就職先よりも仕事を探す人の方が多くてげんなりした。
 限界だとわかっていたが、それに対応するために競馬以外のことをすることがどうしてもできなかった。喫茶店でパソコンをいじっていたところへ電話があった。久保田さんだった。瞬間、吹きでる汗に眼鏡をいつも曇られていた久保田さんの姿が頭に浮かんだ。
 仕事をしないか、いう。
 受けることにした。
 一年間、ずっと切らずにいた髪は肩までとどくロングヘアになっていた。そのまま、面接へいった。すでにKさんとは別れることになっていた。引っ越し費用がないのでそれができるまで待ってくれ、とぼくは頭を下げた。
 再開した仕事をほんとうにやっていけるか、どうかはわからなかった。
 ブランクが長すぎた。
 ところが、やってみると、以前よりもむしろ自由に仕事ができたことに自分で驚いた。スキルが上がっていたのだ。馬券まみれの間、暇なとき、パソコンをいじってばかりいたが、それがいつのまにか、スキルアップにつながっていたらしい。もどるつもりはなかったので将来に向けての投資という意識はまったくなかったのだが。
 そして、引っ越し費用を溜めたぼくはKさんのアパートをでた。

2010年10月13日水曜日

馬券生活(10)

 生活はすでに破綻していたし、ある意味、それはパチンコへ行かなくなった段階で確定していた。それなのにぼくには再就職のことも生活を建て直すことも頭になく、考えることは馬券のことばかりだった。
 馬券以外の方法で状況を打開しようという発想がまったくなかったのだ。
 資金も尽き、できることは過去の馬券を調べてみることだけだった。今までの購入した馬券はエクセルで管理してある。データを洗い出し、調べてみたところ、単勝は回収率が七五%ほど、複勝は一〇〇%をわずかに越えていた。
 これは何を意味するのか?
 単勝を買わずに、複勝だけだったのならぼくは浮いていたということだ。
 それは複勝は保険という意識があったからこその結果なのかもしれないが、すくなくとも失われた五百万近い金はそのまま、そっくり残されていたということだった。
 その事実にパソコンの前でげんなりとしてしまったぼくはふと、競馬におけるオッズの歪みに気づいた。長期的に見れば、単勝と複勝の回収率は同じになるはずだ。同じ馬を買うことができ、控除率、還元率は同じなのだから――端数切り捨てによる歪みは考えていない――。そうであるなら単勝の平均オッズは複勝のそれの三倍になるはずだ。複勝がくる可能性は単勝の三倍なのだから。
 ところが、単勝のオッズがかならず、複勝の三倍以下になってしまうケースが存在する。
 単勝のオッズが三倍以下のときだ。
 複勝のオッズが一倍を下回ることがない以上、それは必然だ。
 そうであるなら単勝三倍以下の場合、複勝を買う方が合理的だ。そちらの方が確率的――期待値的に有利な馬券なのだから。
 その簡単な条件で今までに買った馬券をコントロールしてみた。単勝三倍以下の馬は複勝を買うという制御。結果は衝撃的だった。回収率一二七%。なんとプラスだった。トータルの控除率が八〇%であることは考えれば、大幅な浮きだ。
 気づくのが遅すぎた。
 すでにぼくには資金がなく、経済的に破綻していた。


 後年、競馬で喰っていた――一時的とはいえ――人と知り合った。その人は大学を卒業して二年ほど、競馬で本当に喰っていたのだという。けれど、最終的にはやはり破綻してしまい、社会復帰した。
 彼のことを尊敬するのはぼくとはちがい、まちがなく喰えていた瞬間があったということだ。ぼくは貯金を食い潰していただけだった。ほとんどその人と競馬の話をしたことはなかったが、二度とあの道には戻るつもりはないようだった。
 ぼくはどうだろう。
 子供の頃は飽きっぽい性格だと親になじられてばかりいた。それなのにどうしてこんなに馬券に執着するのか……。そんなとき、数すくない友人から連絡があった。今年の冬、サイパンへ遊びに行かないか、という。まだ春にすらなっていないというのに。
 ぼくが無職で馬券まみれであることを彼は承知していたので、馬券が取れて金があったらな、と答えておいた。たぶん今の状況では無理だろう、と内心では思っていた。パスポートも持ってないし。
 その週末の中山競馬場だった。
 Kさんに借金しての競馬。メインレース前の新馬戦――ぼくにはメインレースなんか関係ない――で気になる馬を見つけた。リトルガリバー。どういう背景の馬なのか、まったく知らなかったが、ぼくはその馬で勝負した。
 リトルガリバーの競馬はぼく好みの前へ行って粘る競馬だった。
 中山の坂を上り、粘りに粘ったところで後ろからきた馬にかわされた。が、それも二頭まででなんとか、三着に滑りこむ。複勝一五〇〇円だった。一万円いれていたので十万円コース。その瞬間だけならサイパン旅行代が出る金額だった。冬までにその金が残るとは思えなかったが、もしかしたらなんとかなるかもしれない。
 そういう気になった。
 パスポートを申請することにした。

2010年10月12日火曜日

馬券生活(9)

 ホッカイマティスやターフメビュースのような思い出深い馬との出会いはG1クラスではほとんど、なかった。
 ひとつにはそういうレースを好まなかったということもあるが――G1レースのパドックは混みすぎだ――、まったくいないわけではなかった。アブクマポーロはそういう一頭だった。今だに彼が最強の馬だとぼくは思っているが、ちなみにアブクマポーロを負かしたメイセイオペラは速い馬――このちがいをわかってもらえるだろうか。
 二頭とも中央競馬ではなく、地方競馬の馬だが、まちがいなく、強い馬であり、速い馬だった。
 中央でも通用する馬だと思えたし、ターフでも通用するように思えた。メイセイオペラの方が芝向きだとは思っていたけれど。
 そう嬉々とKさんに話したところ、彼女にいわれた。
「アブクマポーロが中央で走ったとき、あなたはだめだって切ったじゃない」
 そういわれるまでまったく認識してなかったのだが、ぼくは中山で行なれた地方交流戦のときのアブクマポーロを見ていたのだった。
 第四十三回産経賞オールカマー。
 地方競馬から強い馬がきている、と妙にパドックがざわついていたことは覚えている。しかし、ぼくの目にはアブクマポーロはまったく映ってなかった。Kさんからどうか、という問い合わせの電話があり、それではじめてまじめに見たのだった。そして、ぼくははっきりと「切り」と答えた――。
 結果はアブクマポーロにとっても不本意なものとなった。八着。
 ぼくがアブクマポーロを意識したのは東京大賞典で中央の馬――トーヨーシアトルに敗れ、復帰第一戦だったと思う。川崎競馬でおこなわれた川崎記念レースだった。そのときのぼくはパチンコの収入も途絶え、資金も充分でなく、Kさんに借金して競馬場へ通っていた。
 トーヨーシアトルが参戦していたためだろう。
 アブクマポーロの一番人気だったが、オッズは一・七倍ほどだった。そのオッズはアブクマポーロにしては高いものだとは知らなかったが、ぼくはそのときの財布の中身全部をアブクマポーロの単勝に賭けた。全財産勝負してもいいと思うほど、オーラを放っていたのだ。すばらしい存在感だった。財布の中身は七千円しか残ってなかったけれど。
 その馬券以来、アブクマポーロの馬券をぼくが買うことはなかった。
 あまりにも人気するため、買う気になれなかったのだ。それでもそれなりにレースはフォローしていた。マイルチャンピオンシップ南部杯参戦で水沢競馬場へ遠征したときも最初から買えない馬券だとはっきりしていたので、あとでKさんが録画したビデオを見せてもらった。彼女は勝負にいっていたのだろうと思う。
 録画のパドックを見ながらぼくは思わず、つぶやいた。
「――やばいかも……」
 そのつぶやきにKさんが黙りこんだ。
 輸送の影響なのかもしれないが、ぼくの目にはアブクマポーロがかかりすぎているように見えた。もともとパドックでは気合いを表に出す馬なのだが、それにしてもすぎているようだった。
 それでもアブクマポーロは強く、圧倒的な足でゴール前の直線で先行していたメイセイオペラへと迫ったが、届かず三着。あと百メートル直線が長ければ、という競馬だった。
 次のアブクマポーロとメイセイオペラの直接対決は大井で、こちらはアブクマポーロの圧勝。まぁ、勝つでしょう、という状態だった。しかし、そのレースを見てはじめてぼくはメイセイオペラが強い――速いことを認識した。だてにアブクマポーロに土をつけたわけわけじゃない、と。
 それなのに中央競馬のダートのG1にでたメイセイオペラを買えなかったのだけは痛恨だ。さらに痛恨なのは一年後の同じダートG1でメイセイオペラの単勝馬券で勝負してしまったことだ。メイセイオペラは二着で破れたのだが、パドックですでに不安材料ばりばりだったのだ。嫌な予感のする状態だった。それなのに、前の年に買えなかった痛恨さが馬券を購入させてしまった……。
 一着にきたとき、馬券を買ってない痛恨よりも買って外れた馬券の方がよい。そう考えてしまったのだ。
 この一件を見てもぼくがギャンブラーとして三流以下であることはあきらかだ……。

2010年10月10日日曜日

馬券生活(8)

 そんなぼくにできたのはパチンコへ通うことだった。
 以前、無職になったとき、二ヶ月ほどパチンコで喰っていたことがあるのだ。学生のころにはバイトのかわりにパチンコで稼いで中古のオートバイを買ったこともある。パチンコはカジノ賭博とちがってランダムではないので勝つ方法が存在する。ぼくが知っているその方法が有効なら小銭程度は稼げるだろう……。
 最初の一ヶ月はパチンコで二、三十万、稼いだ。ただし、毎週末、競馬へ通っていたので金はまったく残らなかった。競馬に吸いこまれた。
 二ヶ月目、三ヶ月目になると、店側が出玉を絞りはじめた。
 勝つこと自体がむずかしくなった。
 パチンコで喰うつもりなら新しい店を開拓すべき頃合いだった。それはわかっていた。わかっていたが、パチンコは仮の姿だと考えている自分がいた。馬券で喰うのが正しい姿だと。負けつづけていたにもかかわらず。
 タイミングの悪いことにちょうどそのころ、パチンコで体感器打法という必勝法が問題になりはじめていた。そのためなのだろう。時々、手を休めて打っていたら新人の店員に注意された。
 手を休めるな、打ちつづけろ、と。
 客がどのようなペースで打とうが関係ないだろう、とカチンときて怒り狂い、以降、その店に行くことをやめてしまった。
 それは収入がなくなったということも意味していた。


 馬券はあいかわらず、負けつづけていたが、どういうわけだか、前年と同じ九月の中山競馬場だけはプラスになった。
 その時だったか、次の中山開催のときだったか、前の年に取りそこねた複勝五八八〇円のホッカイマティスの馬券にけじめをつけることができた。去年と同じく最終レースだった。やはり雨しぶりの馬場だったと記憶している。もちろん、複勝五八八〇円ということはなく、複勝一三六〇円だったが、充分だった。一万を突っこんでいたので十万をゲットした。
 不思議なことにずっと馬を見つづけると、そういう出会いが時折、ある。
 馬券をくれる馬という意味ではなく、くるときがパドックではっきりとわかる馬だ。今日は調子が悪いな、とわかる馬だ。どの馬にもそういう記憶をもてれば、馬券でプラス計上も夢ではないのかもしれないのだが――ホッカイマティスはそういう一頭だったし、ターフメビュースもまたそうだった。
 最初の出会いは中山競馬場だったと記憶している。
 パドックで発見し、スピード指数で――このころにはスーパーパドックの指数の見方もかなり堂にいってきていた――ハナにたてそうだ、と踏んだ。たしか前残りぎみの馬場コンディションだったのだ。
 単勝複勝を賭け、見事に一着へきた。
 単勝五六一〇円、複勝七四〇円。
 三十万円コースだった。
 二着の馬も穴馬で馬連は六五二九〇円の万馬券だった。もちろん買ってなかったけれど。
 うれしさあまってパドックからKさんへ電話した。
 よろこびを伝えようとする前に、向こうから先に興奮した声が響いてきた。なんと彼女は馬連を買っていたのだ。二着に着たのはクラサンゼットいう彼女が買いまちがえで万馬券を獲ったときの馬だったのだ!
 おそるべき、ツキの太さである。
 お互いによく馬券を買っていたが、互いに勝負にいった馬券でガツンと獲れたのはこのときぐらいだった。お互いにガツンと外すことはよくあったのだが。
 ターフメビュースとの再会は府中の東京競馬場でだった。
 しかし、このときのターフメビュースはくる気がせず――疲れているように見えた――、馬券は買わなかった。見(ケン)をきめこむ。もともとターフメビュースの競馬はハナに立って逃げるか、二番手追走の形で最後の直線で前に出て粘るタイプだったので無理な気がしたのだ。結果、ターフメビュースは三着にもこなかった。
 三度目の出会いはさらに二、三週間後の東京競馬場の最終レースだった。
 ぼくの目には買い。
 これを買わずして何を買うというのだ、という状態。
 問題はこの日のぼくは負けがこんでいて資金がなかった、ということだった。単勝一万円、複勝二万円いきたいところだったが、財布の中には二万しかなかった。その二万円をターフメビュースの単勝一点に賭けた。
 保険の複勝馬券はなし。
 熱い馬券だった。
 最終コーナーを二番手でまわったターフメビュースがすぐに前の馬をかわし、先頭に立ったときぼくは勝利を確信した。ターフメビュースの勝ちパターンだった――。そのまま、そのまま、とぼくはつぶやきつづけた。ターフメビュースは一着でゴールした。単勝二〇八〇円。ターフメビュースによる二度目の穴馬券だった。
 次の出会いを楽しみにしていたのだが、そのあと一レース走ったあと、引退してしまった。

2010年10月8日金曜日

馬券生活(7)

 元旦でも競馬が開催されていることをご存知だろうか。
 関東では元旦であっても南四関東のどこかで競馬が開催されている。むしろ元旦だからこそ、開催されるのかもしれない。
 前年をマイナスで新年を迎えたぼくは当然、やる気満々で開催開場の船橋競馬場へ行くつもりだった。
 ところが当日はみぞれまじりの雨であまりにも寒く、さすがにめげた。Kさんのアパートで競馬を観戦することにした。彼女は競馬のためにスカパーに入会していたのである。まだ、SPAKには登録していなかったので馬券は買えなかったが。
 内容はほとんど、競馬場に流されている場内テレビと同じものだ。
 パドック、返し馬を見てぼくは遊びで一頭を選んだ。
 ちゃんと口にだしてKさんに宣言した。この馬、と。
 ひさびさのお金を賭けないで選ぶ行為だった。驚くなかれ、その日、行なわれたレースの中で――たしかみぞれで最終レースは中止になったので、十レースだったと思う――ひとつのレースを除き、選んだ馬はすべて三着以内にきた。
 Kさんも驚いていたが、ぼくも驚いた。
 そんなに当たるのなら馬券を買っていれば、よかった。買う手段はなかったが。
 後悔してもはじまらなかった。
 その年のぼくの最初の競馬は三日の船橋競馬だった。最後の最後で勝負にいった馬券を外してマイナス。年初を占うには苦い結果だった。
 何か歯車が狂っている。
 そんな感じだ。
 しかし、どうすることもできず、ずるずると一月は負けた。二月も負けた。三月も同じだった。プラスになることなどあるのか、という気分だった。結局、勝ち越したのは仕事をやめて馬券で喰おうとした最初の月――九月だけだったのだ。
 自分の馬を見る目がおかしくなってきているのか――。
 最悪なのは選んだ馬が四着にくることが頻繁にあったことだ。複勝は三着までなので、馬券は紙屑になるが、馬を見る目もまったく外れているわけではないという状態。日経賞のステイゴールドのようなものだ。そして、あのときもぼくの目にはテンジンショウグンもシグナスヒーローも見えてなかった……。
 崩壊しはじめたダムを堰き止めることはできなかった。
 四月には資金が尽きた。


 もちろん、連敗してしまったことが一番の原因だったが、競馬場へ通ううちに賭け金が上がってきてしまったことも大きかった。最初、二五〇〇円からはじめた賭け金が徐々に上がり、一万から二万へ。おそらく資金に限りがあるという認識がなければ、もっと賭け金を引き上げてしまっていたにちがいない。
 事実、後年、一点十万という馬券を買ってしまったこともある。
 賭け金が迫り上がっていったのは負けた金を取り戻すため、というだけではなかった。暗い快感のためもあった。一〇〇〇円や二〇〇〇円程度では満足できなくなっていたのだ。そして、外れることすら快感になっていた。パンチドランカーのように、打たれることにすら快感を覚えていたのだ。
 だから白旗を上げたはずなのに三日後にはあきらめきれなくて競馬通いをはじめていた。
 予備にとっていた――いざというとき、方向転換するときに必要な――準備金に手を出した。最後のひとしぼりだった。それでもなんとか粘れたのも最初のうちだけで、すぐに負けがこみはじめて残金が三十万というところまで追いこまれてしまった。
 その間、三ヶ月。
 それだけ粘れたのは馬券の調子が悪くなかったということではまったくなかった。Kさんのところに居候させてもらい、散髪すら節約する生活をしていたのだ。
 そして、地方競馬を捨て中央競馬だけに絞った。
 それでも負けた。
 そんな状態になってもぼくは再就職しようとはしなかった。

2010年10月4日月曜日

馬券生活(6)

 馬券生活で問題は地方競馬だった。
 というのもパドック派だったとはいえ、ぼくにはまだまだスーパーパドックの出力したスピード指数が必要だったからだ。ところがスーパーパドックはJRA-VAN(当時)のデータを利用していたため、地方競馬には対応してなかった。
 しかたないので地方競馬用にスピード指数は自前で計算することにした。
 基本的な考え方はアンドリュー・ベイヤーの「勝ち馬を探せ!」でわかっている。
 簡単なプログラムを組み、データは競馬新聞から自分で入力した。
 これで毎日、競馬場へ通うことが可能になった。あっという間にぼくは馬券まみれになり、これまでの人生ではなかったくらい真っ黒に日焼けしてしまった。パドックの陽射しのせいである。勝ちつづけていれば、楽しい毎日だったのだろう。あいにく、十月、十一月、十二月と競馬場に通いつめたぼくは、九月の浮き分などあっさり吐き出してしまい、まさに転がるように負けていっていた。エクセルでつけていた収支はグラフ表示すると急角度で右下へ落ちていった。
 そして、その年の有馬記念はKさんと中山競馬場へ行った。
 彼女は他の競馬仲間と客席で、ぼくはパドックでの競馬だったのだが、想像以上の人ごみにパドックで馬を見ることはおろか、馬券を買うことすらままならないような状態だった。
 それでも九レースだったか、武豊騎乗のスーパーパドックの指数で抜けているにもかかわらず、一番人気ではない馬がいた。パドックを見ることはできなかったので迷ったが、指数的にはかなりその馬は強い。勝負した。
 それで一日のプラス五万円という目標を達成したぼくはKさんを残して帰宅した。有馬記念はグリーンチャンネルで観戦することにした。ところがグリーンチャンネルのパドックであまりにも武豊のマーベラスサンデーが抜けて見えたのでKさんのPAKを借りてがつんと勝負してしまった。
 結局、マーベラスサンデーはゴール寸前でシルクジャスティスに差されてしまい、複勝のみの的中でわずかにマイナス。思わず、悲鳴を上げてしまった。
 Kさんは競馬仲間がシルクジャスティスを応援していたこともあり、そのおいしい馬券を見事にゲットしていた。単勝八一〇円、馬連一二四〇円。
 ぼくが多少、パドックで馬を見れることなど問題でないほど、博才という意味では彼女の方がすぐれていた。なにしろ、ぼくの回収率はせいぜい八割でしかなかったが、彼女のそれは九割をこえていたのだ。その上、ギャンブラーに必要なツキも彼女は持ちあわせていた。
 たとえば、彼女が馬券を買いまちがえたのを二度ほど目撃したことがあるが、その両方とも的中していた。一度などクラサンゼットいう地方競馬からの転厩馬をまちがえて買っての万馬券だ。馬連四五三七〇円であった。
 シルクジャスティスの馬券はまさに彼女のツキの太さゆえだろうし、そして、サニーブライアンもそうだった。
 馬に興味などなく、馬券ばかりに集中していたぼくだが、それでも印象に残っている競走馬の一頭に皐月賞と日本ダービーで二冠を獲ったサニーブライアンがいる。たぶん世間的にはあまり強い馬ではなく、たまたま運良く勝てたという評価なのかもしれないが、ぼくはあの馬は強かった、と思っている。というか、二冠をとって弱いという評価は理解できない。菊花賞に挑戦できなかったのは故障のせいだったことだし。
 ところがぼくは昇級戦のころからサニーブライアンのことは気にしていたにもかかわらず、馬券はすこしも獲っていないのだ。皐月賞もダービーも弱いと評価するマスコミに流されしまって馬券を買わなかった。
 ところがKさんはしっかりと獲っていた――。


 閑話休題。
 いずれにしても有馬記念が終わったころにはぼくの競馬の負けは百万をこえていた。

2010年10月2日土曜日

馬券生活(5)

 ところが収支がプラスになったのは最初の一ヶ月だけだった。


 必勝本のたぐいこそ、信じていなかったが、何度も読み返していた競馬の本は存在する。
 梶山徹夫氏という馬券師の「馬券で喰ってどこが悪い」という本がそれで、Kさんとぼくは尊敬をこめて筆者のことを「梶山さん」と呼んでいた。面識はまったくなかったが、競馬場で何度もご本人を見かけたことがある。
 浦和競馬場ですれちがったとき、ぼくの顔を見て、あれ、こいつ、どこかで見かけたことがあるぞ、という表情を梶山さんが浮かべた。実際はそう思っていたかどうかはわからないが。
 「馬券で喰ってどこが悪い」を買ったのはまだ、ぼくが仕事をしていたころだった。この本がぼくに馬券で喰うということを考えさせた面もあるのかもしれない。
 中身は必勝本のたぐいとは一線を画し、景気のいい話はすくなく――それでも馬券師としてテレビ出演せざろうえなくなり、最後に日本ダービーで百万円を一点賭けする話は感動的ですらある――、一年三百六十五日、馬券で喰うために、ひたすらパドックに通う日々――。
 この本ではじめてぼくは関東でなら中央競馬の東京、中山にくわえ、南四関東地方競馬の大井、川崎、浦和、船橋をあわせて毎日、どこかで競馬をやっているということを知った。ただし、夏競馬の間は開催が福島競馬場、新潟競馬場へうつってしまうので遠征になってしまうらしいが。
 そして、この本はぼくに重要なことを教えてくれた。
 ――パドックに立つ。
 パドックの重要性は浅田次郎氏の「勝負の極意」の中でも述べられている。
 そのことはKさんには劣等感だったらしく、よくパドックがわからない、とぼやいていた。パドックで馬を見て判断できるぼくをよく羨ましがっていたが、それがほんとうにそうなのかはまた、別問題だ。もしかしたらそう思っているだけなのかもしれない。それに見ることができたとしても馬券につながらなければ、意味がない。


 梶山さんをはじめて見かけたのは大井競馬場でだった。
 南関東の地方競馬、中央競馬へと足繁く通いはじめたぼくは九月二十八日の中山競馬場の最終レースで横山典弘騎手{ノリ}騎乗する馬をパドックで見つけ、単勝二三六〇円の馬券を獲っていた。馬連は一〇二九〇円の万馬券だった。ぼくには関係のない馬券だが。
 そして、その翌日の大井競馬場で梶山さんを見かけた。たしか、無職になってはじめての大井競馬場だった。
 梶山さんは連れともにパドックから本馬場へ向かう途中だった。身振りをまじえながらにこにこ笑って連れに話しているのが聞こえた。
「昨日、ノリが最終で見事に差してきてね……」
 驚いた。
 ――そうか。昨日、あのパドックのどこかに梶山さんもいたのか……。
 そして。
 梶山さんもまた、あの馬を買っていた――。
 もちろん梶山さんは馬連で万馬券をとっていたにちがいない。しかし、それでもその事実はぼくに自信を与えてくれるには充分な出来事だった。


 たとえば、第四十六回日経賞――。
 その日もぼくは中山競馬場の二階フロアのベランダからパドックを周回する競走馬をチェックしていた。
 オッズを見ると、横山典弘騎乗のローゼンカバリーが抜けた一番人気。ほかにG1クラスの馬がいなかったのでこれはしかたなかった。しかし、ぼくにはローゼンカバリーはかかりすぎているように思えた。悪くはない、しかし、イレこみすぎている……。
 目につく馬は一頭しかいなかった。
 関西からの参戦していたステイゴールド。当然、その馬へ単勝複勝で勝負した。くれば、単勝七三〇円だ。
 レースは最終コーナーから直線を向いたところで、ローゼンカバリーが好位外目から抜け出した。ローゼンカバリーにとってわるくないレース展開だった。そのまま、ゴールまで押し切ってしまってもおかしくない――ところがそのローゼンカバリーに張りつくように江田照男騎乗のテンジンショウグンがついてきていた。ターフジーニアスの単勝万馬の立役者、江田照男である。
 後続を突き放した二頭の足色はほとんどかわらなかった。
 ところが中山競馬場の急坂の途中でローゼンカバリーの足色が一瞬に鈍った。テンジンショウグンがローゼンカバリーをかわし、先頭に立つ。ローゼンカバリーはテンジンショウグンを追ったが、差は詰まらない。足色はいっぱいだった。そのローゼンカバリーに後続が迫り、その馬群の中にステイゴールドがいた。
 ――来いっ。
 ステイゴールドが抜けてきた。よし。テンジンショウグン、ローゼンカバリー、ステイゴールドで三着。複勝は確保した。そう確信した。
 ステイゴールドはローゼンカバリーに並びかける勢いだ。
 ――ついでだ。追いつけっ。
 そう思った瞬間、鋭い切れ味でステイゴールドをかわす馬があらわれた。加藤和宏騎乗のシグナスヒーロー。さらに鋭い足色でローゼンカバリーと並ぶ。
 ぼくは心の中で悲鳴を上げていた。
 このままだとステイゴールドは四着だ。
 ――追いついてくれっ。
 しかし、ゴールはすぐそこでステイゴールドは前には届かなかった。
 四着。
 思わず喚き出しそうになった。奥歯を噛みしめ、ぼくはさっさと次のレースのためにパドックへ向かう。外れ馬券のことを気にしていてもしかたない。その途中で、場内の雰囲気がおかしいことにはじめて気づいた。
 静かだった。
 場内が異様な空気のまま、黙りこんでしまっていた。おそらくだれもが唖然としていたのだ。的中を喚く声も飛んだ一番人気の馬を罵しる声も聞こえなかった。奇妙な静けさの中、あちらこちらからぽつりぽつりと、これってすげー馬券じゃねーか、という声が聞こえはじめた。場内が興奮に包まれだす。
 パドックのまわりも異様だった。普段ならぼくのようにさっさともどってくる馬券オヤジたちがすこしもあらわれず、がらんとしていた。
 眼下にパドックへもどってくる梶山さんの姿がぽつんと見えた。
 レースは審議もなく、すぐに着順は確定した。
 パドックの電光掲示板の表示が結果に切りかわった。払い戻しが表示される。複勝の馬番でテンジンショウグン、シグナスヒーロー、ローゼンカバリーが入着したことがわかった。ステイゴールドはやはり着外だった。
 払い戻しを見て一瞬、馬連は二万ぐらいか、と思ったが、すぐに桁がちがうことに気づいた。二一三三七〇円。うおおおおっ、という歓声が競馬場全体を揺がした。三連ものがない当時としては史上最高の払い戻しだった。場内が普段とはちがう興奮に包まれる。
 梶山さんを見ると、電光掲示板の結果に驚いた表情を浮かべた。それからジャケットの内ポケットから馬券を取り出し、それを確認してから大事そうに馬券をポケットに戻した……。
 唖然とした。
 ――獲ったのか……。獲れたのか……。
 ため息がでた。
 もどってくる馬券オヤジたちは皆、興奮し切っていた。
 すげーすげー、千円、買ってたら二百万だぜ、という声から、だれも買ってないからこんな金額なんだよっ、と喚く負けおしみの声までが聞こえた。
 まるで買っている人間など世の中には存在しないといわんばかりに喚き散らし、回りに同意を求めつづけるオヤジがちょうどぼくの隣にきてしまった。うざかったのでぼくはそれを黙殺してパドックを見下ろした。よほど、的中した人間がいるから払い戻しがあるんだよ、といってやろうかと思ったが。
 あの男は取ったんだよっ、と梶山さんを指さしたらどうなるだろう、とも考えた。
 オヤジがぼくの横顔を見つめていることはわかったが、拒絶していることがわかったのだろう。反対側の男にでかい声で話しかけはじめた。
 瞬間、反対側の男が怒りだした。
「うるさいっ。黙れっ。外したくせにっ。うるさいんだよっ」
 その反応にオヤジが気色ばんだ。
「なんだとっ。じゃ、おまえは獲れたのかよっ」
「あたりまえだっ。獲れたにきまっているじゃないかっ」
 一瞬、黙りこんだオヤジが詰め寄った。
「嘘つくなっ。馬券、見せてみろっ。おいっ」
 ほんとうか、と思い、ぼくも隣から男が差しだす馬券をのぞきこんだ。
 ふいにオヤジが大笑いしだした。
「なんだ、一番人気の複勝じゃねーかっ」
 ローゼンカバリーの複勝百三十円。
「あたりまえだろうがっ。あんな馬券、獲れるやつが阿呆だっ」
 狙って獲れるやつがいるわけはないというわけだ。
 ところが。
 ぼくは狙ってとった人間がいることを知っていた。
勝負の極意 (幻冬舎アウトロー文庫)