2013年8月8日木曜日

鈴木清順監督「殺しの烙印」

鈴木清順監督「殺しの烙印」

 あれ、これって「深夜プラス1」が原作だっけ。
 何しろ、ナンバースリーだの、ナンバーワンだのとでてくるし、主人公が依頼された仕事は車で要人を護衛しながら運ぶことだ。その上、相棒はアル中、とくる。使っている拳銃も「深夜プラス1」の主人公と同じモーゼル・ミリタリーだし。しかもショルダーストックつき。
 アクション・シークエンスもそっくりなシーンがある。
 両側が切り立った崖で襲撃され、崖の上の敵をモーゼルで撃ち返すシーンとか、トーチカにいる敵を倒すため、忍びより火をつけるシーンとか——あれえ、やっぱり「深夜プラス1」っぽいよなぁ。
 ただしそれも最初の三分の一までで、真理アンヌと宍戸錠が出会ってからは全然、ちがってしまうが——。
 それでも気になって調べてみると、ギャビン・ライアル「深夜プラス1」の邦訳は1967年。「殺しの烙印」の公開は1967年6月15日。
 うーむ微妙……。イギリスでの出版は1965年なのだが。

2013年8月7日水曜日

RZA監督「アイアン・フィスト」

 山田風太郎原作の映画より山田風太郎で、思いっきり楽しめた。「どろろ」もはいっていたけど。むちゃくちゃおもしろかった。冒頭から音楽がかっこよくてなぁ。痺れた。なんと監督はラッパーなのだった。

2013年8月6日火曜日

永井豪「デビルマン」(1)〜(5)


 永井豪「デビルマン」(1)
 永井豪「デビルマン」(2)
 永井豪「デビルマン」(3)
 永井豪「デビルマン」(4)
 永井豪「デビルマン」(5)

 ひさかたぶりに再読した。
 所有しているオリジナル版を、である。この5冊だけはどうしても自炊する気になれない。浪人生のときに購入したのだけれど、買っておいてよかった。現在、入手できないようだから。愛蔵版や文庫版や新装版や改訂版があるようだが、内容にすこしばかり手が入っているらしい。
 元々は小学校のころに週刊少年マガジンに連載されていて、ドキドキしながら読んだ記憶がある。といっても毎週かかさず、読んでいたわけではなく——週刊誌を買うなんてこづかい的にできなかった——、それでもだいたい読んでいる。
 最終回について同級生に教えてもらってあわてて貸本屋で少年マガジンのバックナンバーを読みあさったのだ。
 ラストの一コマには子どもながらに感動した。
 もっとも空に天使があらわれるそのシーンは少女マンガの花の背景のように比喩的なものだとばかりずっと思っていた。
 シーンの意味に気づいたのは単行本を購入して読み返してからだ。あっ、と声をあげてしまいましたよ。そういう意味だったのか、と。あれは苦いラストなんだ、と。
 もっとも小学生のころはほかにもあきらかに誤読していて、冒頭の飛鳥了が不良にからまれている不動明を救うシーンで「ピストルは手にはいりにくくてね」「猟銃を改造したものです」というセリフを、拳銃の引き金に指を入れづらいので猟銃を改造した、という意味にとっていた。なんでそんなことをよく覚えているのか、というと、最初、読んだとき、何をいっているのか、わからず、必死に考えた結果、前記のように解釈したのだった。
 「手にはいる」という言葉が「入手する」を意味するとは知らない無知だったのだ、当時のぼくは。今もそうかもしれないが。

2013年8月5日月曜日

BUFFALO WLI-UC-GN on FreeBSD 8.3、追記

 「BUFFALO WLI-UC-GN on FreeBSD 8.3、動作す

 ああ、なんてことだ。
 スタバで無料の無線LANが提供されたので、ThinkPadで使えるようにしたのだけれど、自宅のLANとは当然、SSIDがちがう。なのでいちいち、rc.confをいじってrebootしていた。
 立ち上げて修正。reboot——という手順。

 ふと気づいた。
 もしかしたらwpa_supplicant.confにSSIDを複数、定義できるのではないか、と。
 できた。動いた。問題なかった。

network={
    ssid="ないしょ"
    psk="ないしょ"
}
network={
    ssid="at_STARBUCKS_Wi2"
    key_mgmt=NONE
}

 ああ、おれはなんて鈍いんだ。すぐ気づけよ。三ヶ月も立ち上げて修正してrebootしていた。

2013年8月2日金曜日

シドニー・ルメット監督「十二人の怒れる男」

シドニー・ルメット監督「十二人の怒れる男」

 いやあ、驚いた。
 「12人の優しい日本人」は「十二人の怒れる男」を元にしたものだろう、と思っていたけれど、ここまで換骨奪胎しているとは。予想以上だった。もちろんパクリとか、そういうレベルでは全然、ないのだけれど、登場人物のキャラ設定とか、あきらかに、おそらく意識的に流用されている。
 見事な換骨奪胎で、すげーな、三谷幸喜、と思ってしまった。
 時代背景のせいもあって個人的には「12人の優しい日本人」の方がおもしろい。
 もちろん「十二人の怒れる男」も傑作であることに異論はないのだけれど、実はもうひとつ原因があって、作中で証言の不備をつくロジックに一カ所、どうしても納得できなくてラスト、最後のひとりが意見を翻すシーンが、苦いものに思えてしまったのだ。まるで同調圧力に屈っしてしまったように。
 悲しかった。
 おそらく作品の意図とはちがう意味で。