2011年1月16日日曜日

伊藤計劃「ハーモニー」

伊藤計劃「ハーモニー」
 「自由」は失効してしまったのではないか、と思っていた。
 システムへの反逆。あるいは日常からの脱出。物語の中でモチベーションとして成立していたはずの感覚。たとえば、大藪春彦の小説などにみられる主人公が状況を喰い破っていく感覚。主人公が最後には街をでていく。あるいはすべての破壊を予感させて終了する物語――村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」のように。
 ヒッピームーブメント、学生運動にも通底するそのような感覚はもはや時代的にリアルティを喪失してしまったのではないか、と思っていた。もう状況は「自由」などではなく、「サバイバル」ではないか、と――。そう考えたひとつのきっかけには「エヴァンゲリン」の碇シンジがある。あのキャラクター造型は戦いを放棄していたからだ。逃亡を試みるが、失敗し、戻ってきたところで戦いを指向するわけではない――物語の構造にはマッチしてなかったが、奇妙なリアリティを保持していた、あの存在。あの微妙な齟齬感は「自由」の物語構造に、現代的な「自由」が死んでしまった時代のキャラクターを乗せてしまったためではないのか。
 奇妙なことに「ハーモニー」の中では「自由」への希求がまだ生きのびているようにも思えた。少女たちの中にかろうじて。
 個人的には「ハーモニー」は既視感がきわめて強かった。最初の方は京極夏彦「ルー=ガルー ― 忌避すべき狼」と通底する雰囲気を漂わせているし、「涼宮ハルヒの憂鬱」から引用もあり、背景のアイデアは諸星大二郎の「蒼い群れ」を進化発展させたものに思えるし、ストーリーのターニングポイントは「デビルマン」を思い出させる。もちろん作者は病院が抑圧装置として働くことは承知のことだろう。ミッシェル・フーコーの名前がでてきている以上。
 そして、ラストは映画版「エヴァンゲリオン」のラストの裏返したものともいえる。もちろん「意識」を救う道はまったくなかったわけではなかったはずだ。たとえば、小松左京の「果てしなき流れの果てに」と同じように作者は上位階梯を措定することもできたはずだ。
 しかし、作者はそれを選択しなかった。
 作者が選択しなかったという仮定はぼくの思い入れでしかないが、そうしなかったがゆえに「ハーモニー」の絶望は深い。
 そして、ぼくは思うわけだ。どうして「エヴァンゲリオン」では「ハーモニー」側を選択しなかった、あるいはできなかったのだろうか、と――。

2011年1月1日土曜日