2009年11月30日月曜日

宮崎駿監督「紅の豚」


 鮮烈な印象に残っているのは主人公のマルコが自分の秘密基地に飛行艇でもどってくるところだ。舳先が浅瀬の砂にめりこみ、砂が舞う。そのシーン。それを観た瞬間、軽いプルースト現象が起きた。「失なわれた時」が立ち上がってきた。
 子どものとき、見た光景。
 マルコの秘密基地のように無人島の入江の砂浜で水中眼鏡をして潜っていたとき、小舟が船外機を止め、惰性で浜へ近づく。その様子を水中で見ていた。音もなくなだらかな海底の砂の斜面へ舳先が迫り、砂浜に喰いこんだ。その瞬間に砂が舞いあがる……。
 息を飲み、走り抜けていく過去の光景を見つめていたのは、1秒にも満たない瞬間だったにちがいない。
 不思議なのはそれが「紅の豚」で起きたということだ。
 「黄金の七人」という映画の中でも似たようなシーンを見たように思うが、過去は立ち上がってこなかった。実写ではなく、省略され、誇張され、整理されたアニメだからこそ、起きたのではないか。それはたぶん、記憶というものが省略され、誇張され、整理されて抽象化されているからだろう。歪み、水の質感がきわめて記憶したものに近いからこそ、急激に過去が想起されたのではないだろうか。
 絵というのは描く者の記憶をいったん、通り抜け、抽象化が起こなわれているものだからだろう。


 同じような経験は「崖の上のポニョ」でも起きた。
 嵐の中を戻ってきた家が停電で蝋燭を母親が探すシーンだ。
 台風のときのおなじみの光景……それがふいに甦ってきて涙ぐんでしまった。
 これはアニメだからなのだろうか。それとも宮崎駿だからなのだろうか。他にもアニメは観ているが、こんなことが経験をしたのは宮崎駿だけだ。

宮崎駿監督「紅の豚」

2009年11月26日木曜日

クリス・アンダーソン「ロングテール―「売れない商品」を宝の山に変える新戦略」



 アマゾンはあまり売れない(数がはけない)本でも売れる。それをロングテールという、という論調で語られる――実際に「ロングテール」を読んでみると、著者のいっていることはもっと深い内容だった。それは売る側の話ばかりではない。それはコンテンツ提供側にもインパクトを与える。
 たとえば、プロとアマチュアの差とは何か。
 プロを優秀でアマチュアはそうではない、というのではなく、実は売れるかどうかではないか。ロングテールによって小売りの構造が変化したならコンテンツ提供者としてのプロとアマチュアの区分はなくなるのではないか。残るのは売れるコンテンツ提供者と売れないコンテンツ提供者というなだらかな区分だけだ。ロングテール以前の小売りの状況では売れないコンテンツ提供者は提供する道すら閉ざされているのだから。

2009年11月25日水曜日

笠井潔「人間の消失・小説の変貌」



 どうして小説は書けてしまうのか。理由は単純で、小説の本質は自己反復にあるからだ。小説家が小説を書いているわけではない。全宇宙にも匹敵する無限の内面から小説が生まれるわけでも、小説家が虚無から小説を想像しているわけでもない。DNAがDNAを複製するように、小説が小説を書く。あるいは本が本を書く。小説家とは小説と小説、本と本のあいだに挟まれた薄い栞のようなものだ。小説家がいなければ小説の自己複製は不可能だろうが、書かれた小説にとって作家は些末な存在にすぎない。
 同じことを小説家の側からいえば、創作の本質は模倣ということになる。「××のような」小説を書きたいという模倣欲望が、あるタイプの人間を小説家にする。だから「書きたいことがない」場合でも小説は書ける。書けてしまう。DNAの複製にかならず誤差が生じるように、小説の場合も不幸にして完璧な模倣は不可能である。どうしても存在してしまう誤差として個性や独創性、その他もろもろが結果として生じる。

笠井潔「人間の消失・小説の変貌」より


 であるにしてもどうして必然的に誤差が生じるか、という疑問は残る。その原因が著作権にあるということは本末転倒だろう。小説を書きたいという欲望は模倣であって複製欲望ではないということは重要だ。同じようにすばらしいものを書きたいという欲望が小説を書かせる、というのならそれはどこから来るのか。それは他者とはちがうということを証明しつづけなればならない個としての欲求ではないか。
 たとえ、「十九世紀の小説家が信じた個性や独創性が虚構にすぎない」としても。

2009年11月19日木曜日

杉山俊彦「競馬の終わり」



 どこで見かけたのか、すっかり忘れてしまったけれど、日本SF新人賞受賞作のタイトル――「競馬の終わり」というのを見てどんな内容なんだ、と思ったのだ。SFと競馬? どうむすびつくんだ、と。
 で、読んでみた。おもしろかった。
 最初の方でこれはもしかしたら筒井康隆の「馬は土曜に蒼ざめる」になるのかな、と思っていたら全然、ちがっていた。どことなくフィリップ・K・ディックの「高い砦の男」を思い出しのだけれど、これは内容というより書き方からの連想かもしれない。エピソードの積み重ね。登場人物がいろいろとペダントリックに語るあたりとか。

2009年11月6日金曜日

twitter

とりあえず、はじめてみた。http://twitter.com/yamada1961

マイケル・カプコン/エレン・カプコン「確率の科学史―「パスカルの賭け」から気象予報まで」



 まるでこれまで読んだ[アダム・ファウアー「数学的にありえない」や[レナード・ムロディナウ「たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する」のネタ本のような内容だった。確率に関しての記述はどうしてもこうならざろうえないのかもしれないが、原文のせいなのか、訳文のせいなのか、ひどく文意がとりづらい箇所が散見され、読み通すのが、つらかった。
 愕然とさせられたのはエントロピーに関する部分だ。
 エントロピー。復水盆に返らず。どうして復水は盆に返らないか。盆からこぼれた水がどうしてふたたび、盆に戻らないのか。分子の状態がランダムであるのならたまたま、盆に戻るような動きをすることもあるのではないか――。
 重要なのはそのことが起きないと否定されていないことだ。
 起きる可能性はある。
 ただしそれが起きる確率は異常に小さい――宇宙が誕生してから繰り返していたとしても起きないほど――。そのため、復水は盆へ戻らない。
 ひっくり返ってしまった。
 これはもしかしたら時間はない、といっているのと同じではないか?

2009年11月3日火曜日

角田史雄「地震の癖──いつ、どこで起こって、どこを通るのか?」



 先入観というものがいかに強いものか、ということを実感させられた。
 地震の原因はプレートの移動によるものだという先入観。小松左京の「日本沈没」で刷り込まれてしまったこの先入観をなかなか捨てることができなかったのだ。たとえば、本の中で地震活動、火山活動の連続について語っている部分に、ランダムな事象の中にパターンを読んでしまっているのではないか、と疑いを抱いてしまうように。最近では「スーパープリューム」が地震の発生原因だと考えられているということを漏れ聞いていたにもかかわらず、強い抵抗感を覚えてしかたがなかった。
 なるほど。こりゃあ、地動説をとなえたガリレオが宗教裁判にかけられるわけだ。