2009年11月25日水曜日

笠井潔「人間の消失・小説の変貌」



 どうして小説は書けてしまうのか。理由は単純で、小説の本質は自己反復にあるからだ。小説家が小説を書いているわけではない。全宇宙にも匹敵する無限の内面から小説が生まれるわけでも、小説家が虚無から小説を想像しているわけでもない。DNAがDNAを複製するように、小説が小説を書く。あるいは本が本を書く。小説家とは小説と小説、本と本のあいだに挟まれた薄い栞のようなものだ。小説家がいなければ小説の自己複製は不可能だろうが、書かれた小説にとって作家は些末な存在にすぎない。
 同じことを小説家の側からいえば、創作の本質は模倣ということになる。「××のような」小説を書きたいという模倣欲望が、あるタイプの人間を小説家にする。だから「書きたいことがない」場合でも小説は書ける。書けてしまう。DNAの複製にかならず誤差が生じるように、小説の場合も不幸にして完璧な模倣は不可能である。どうしても存在してしまう誤差として個性や独創性、その他もろもろが結果として生じる。

笠井潔「人間の消失・小説の変貌」より


 であるにしてもどうして必然的に誤差が生じるか、という疑問は残る。その原因が著作権にあるということは本末転倒だろう。小説を書きたいという欲望は模倣であって複製欲望ではないということは重要だ。同じようにすばらしいものを書きたいという欲望が小説を書かせる、というのならそれはどこから来るのか。それは他者とはちがうということを証明しつづけなればならない個としての欲求ではないか。
 たとえ、「十九世紀の小説家が信じた個性や独創性が虚構にすぎない」としても。