2011年6月26日日曜日

押井守「紅い眼鏡」


 たしか直接、「ブルークリスマス」を観に行くきっかけになったのは星新一だったような気がする。奇想天外というSF専門誌で星新一が褒めていたのだ。元々、そのころはわりと映画を観に行っていたので、ロードショーを観に行った。今でもラストの竹下景子のシーンはよく覚えている。SF映画にしては特撮などなく、ドラマをたんねんに積み重ねた映画だった。
 その映画館で印象的な予告編を見た。
「犬の時代は終わり、猫の時代が始まった――」

 たしか、そのようなナレーションが入った予告だった。かっこいい。絶対、この映画、見たい、と思った。ところがそんなことをすっかり忘れて日常に埋没し、後年、レンタルビデオで押井守の「紅い眼鏡」を観てむちゃくちゃ気に入ったにもかかわらず、その予告編が「紅い眼鏡」のものであることにまったく気づかなかった。
 気づいたのはさらにそのあとで、ふと「紅い眼鏡」のことを思い出し、「ブルークリスマス」のときに観た予告のことを思い出したのだった。
 ――あっ。
 てなもんだ。


 「紅い眼鏡」は人にはあまり勧められない映画だけれど、一応、ぼくのベストテンに入る――そして、「紅い眼鏡」を観たころ、別の衝撃的な映画と出会った。
 塚本晋也の「鉄男~TETSUO THE IRON MAN」である。
 1990年のことだった。

2011年6月12日日曜日

橘玲「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」



 非常におもしろく刺激的な本で書かれている内容はほぼ同意しつつ――基本的にぼくも自己啓発はあまり意味がない(まったく無意味とは思ってないが)――、なぜか、ぼくの結論はたぶん、著者とはまったく反対のようだ。


 著者は遺伝子ですべてが決定されるといっていないが、たとえ、すべてが決定されていたとしてもぼくは何の問題もないと考えている。努力に有効性はあるし、人生は未知のままだ。単純にいってぼくらは自分がどんな遺伝子をもっているか、なんてわからないのだから。
 子どもは両親のもつ遺伝子しか、与えられないじゃないか、と意見もがあるかもしれない。しかし、両親のもつ遺伝子をすべてわかっていないかぎり何の問題ないではないか。未知のままだ。
 次の三点から遺伝子が決定的要素であったとしても問題ないと思う。

1. 有性生殖である
2. 脳の可搬性は想像以上に大きい
3. 環境によって発現するかしないか決定される遺伝子が存在する

 とくに「有性生殖」の要素は大きい。
 ぼくらは両親の遺伝子にすべてを決定されるが、半分の遺伝子は捨てられるのだ。頭の悪い両親から、頭の悪い子どもが生まれる可能性は高いかもしれないが、それは可能性が高いだけだ。A型の母親とB型の父親からO型が生まれることがあるように、有性生殖を介することによって「トンビが鷹を生む」。
 それは頭の良い両親から頭の悪い子どもが生まれる可能性があることも示している。統計的には遺伝子は決定的かもしれないが、個々人には何の関係もない。どちらであるのか、わからないのだから。
 「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」の中の比喩に従うならジャイアンにも勉強の才能があるかもしれない、ということだ。


 この本で多少なりとも苛立ちを覚えるのは、このように全体を個人すべてに均等に適用している部分があるからだ。たとえば、嫉妬深さについての考察がある。嫉妬深さは進化の結果、獲得された形質だ、と――それ自体はそのとおりだと思うのだが、それが、すべての嫉妬しない人々を淘汰したと考える根拠はどこにもない。
 第一、今以上の嫉妬深さでないのはなぜか、という観点がないのはなぜか?
 それは嫉妬深すぎると、生存に支障をきたすからだろう。そうであるなら当然、嫉妬深くないことが有利な状況がありうるということだ。


 自己啓発は無意味だという著者より、努力にも有効性があるかもしれない、と考えるぼくの方が楽観的なのだろうか?
 むしろ絶望的だとぼくには思える。
 ぼくの考え方はあるかないかわからないものに賭けつづけなければ、ならない、ということなのだから。
 そして。
 ぼくたちは目標に向かって努力して失敗したとき、それが才能がなかったからなのか、努力が足りなかったせいなのか、ただ、運が悪かっただけなのか、わからない。もちろん成功したとしても。

2011年6月2日木曜日

ロバート・A・ハインライン「天翔る少女」


 ロバート・A・ハインラインって凄いな、と思ったのは「夏への扉」のことを思い出したときだった。読んでのは1982年のことだからもうずいぶん前のことだ。それをふと思い出し、当時はまったく気づいていなかったことに気づき、感銘を受けた。「夏への扉」はタイムトラベラーものの代表的な作品だけれど、よくあるパターンともいえる未来を知っている主人公が大金持ちになる、という展開がある。
 その方法がふるっていた、ということに気づいたのだ。
 「バックトゥザフューチャー」でもそうだけど、よくあるのがギャンブルで大儲けという手。ところが「夏への扉」はそうではなかった。なんと、株を買うのだ。ギャンブルと同じじゃん、と思うでしょう。ぼくも読んだ当時はそう思っていた。でもバートン・マルキール「ウォール街のランダムウォーカー」を読んだり、ウォーレン・バフェットや株のことを知った今は微妙にちがう感じを覚えた。
 ちょっとバートン・マルキールとハインライン、なんか似てね? とも。

 で、「天翔る少女」だ。
 この中でもハインラインの経済学者的な要素があって驚いた。出産についてだ。なんと「天翔る少女」の火星では(原題は「火星のポドケイン」)、若い頃に妊娠した胎児を冷凍保存し、経済的に安定したときに解凍して子どもを育てる、というのだ。これは妊娠するのは若いときがいいという生物学的理由――歳をとると精子の遺伝子のエラーの確率が増える――、しかし、そのときには普通、その頃の男女は子どもを育てるには経済的に苦しい、という状況を解決するための方法である。
 何が驚いたってこの内容はスティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー「ヤバい経済学」の中にあるどうして黒人の犯罪発生率が減少したか、という考察と瓜二つの発想だからだ。
 あわてて「天翔る少女」の発刊日付を見ると、1958年。
 ハインラインの発想、すごすぎだろ。

 作品自体は小品と称すべきかもしれない。
 ラストのトムおじさんの科白に違和感を覚えた人も多いのではないだろうか。ぼくもそのひとり――解説にも似たことが書いてある――だったのだが、よくよく考えると、この科白はきわめて当然なのだ。というのもトムおじさんは次のような科白を述べているからだ。
「(中略)政治はけして悪ではない。政治は人類の最大の功績なんだ。よい政治ならすばらしいし……悪い政治でも……そこそこすばらしい」
     (中略)
「いいかい、政治というのは、そう戦わずして、事を処理するやり方のことをいうんだ。駆け引きをして、みんながみんな、自分だけ損をしているような気になったりもする。ところがな、うんざりするぐらい話し合っていると、どういうわけか、人の顔をぶん殴らなくても、応急処置的なことを考えつくんだよ。それが、政治だ。でなければもう顔をぶん殴る以外にいざこざを処置する方法はない……。そんな事態になるのは、片方か両方かが、話し合う気をなくしたときだ。だからわしは、悪い政治でもそこそこすばらしいというんだよ。政治に代わる手段は腕力だけで、そうなると深刻に傷つく者がでる」
 ということは何を差してトムおじさんがクラークはだめ、といっているのか、わかる。何が手遅れなのか、ということが。
 そう思い至ったとき、ずいぶんと「天翔る少女」の印象が変わった。