元旦でも競馬が開催されていることをご存知だろうか。
関東では元旦であっても南四関東のどこかで競馬が開催されている。むしろ元旦だからこそ、開催されるのかもしれない。
前年をマイナスで新年を迎えたぼくは当然、やる気満々で開催開場の船橋競馬場へ行くつもりだった。
ところが当日はみぞれまじりの雨であまりにも寒く、さすがにめげた。Kさんのアパートで競馬を観戦することにした。彼女は競馬のためにスカパーに入会していたのである。まだ、SPAKには登録していなかったので馬券は買えなかったが。
内容はほとんど、競馬場に流されている場内テレビと同じものだ。
パドック、返し馬を見てぼくは遊びで一頭を選んだ。
ちゃんと口にだしてKさんに宣言した。この馬、と。
ひさびさのお金を賭けないで選ぶ行為だった。驚くなかれ、その日、行なわれたレースの中で――たしかみぞれで最終レースは中止になったので、十レースだったと思う――ひとつのレースを除き、選んだ馬はすべて三着以内にきた。
Kさんも驚いていたが、ぼくも驚いた。
そんなに当たるのなら馬券を買っていれば、よかった。買う手段はなかったが。
後悔してもはじまらなかった。
その年のぼくの最初の競馬は三日の船橋競馬だった。最後の最後で勝負にいった馬券を外してマイナス。年初を占うには苦い結果だった。
何か歯車が狂っている。
そんな感じだ。
しかし、どうすることもできず、ずるずると一月は負けた。二月も負けた。三月も同じだった。プラスになることなどあるのか、という気分だった。結局、勝ち越したのは仕事をやめて馬券で喰おうとした最初の月――九月だけだったのだ。
自分の馬を見る目がおかしくなってきているのか――。
最悪なのは選んだ馬が四着にくることが頻繁にあったことだ。複勝は三着までなので、馬券は紙屑になるが、馬を見る目もまったく外れているわけではないという状態。日経賞のステイゴールドのようなものだ。そして、あのときもぼくの目にはテンジンショウグンもシグナスヒーローも見えてなかった……。
崩壊しはじめたダムを堰き止めることはできなかった。
四月には資金が尽きた。
もちろん、連敗してしまったことが一番の原因だったが、競馬場へ通ううちに賭け金が上がってきてしまったことも大きかった。最初、二五〇〇円からはじめた賭け金が徐々に上がり、一万から二万へ。おそらく資金に限りがあるという認識がなければ、もっと賭け金を引き上げてしまっていたにちがいない。
事実、後年、一点十万という馬券を買ってしまったこともある。
賭け金が迫り上がっていったのは負けた金を取り戻すため、というだけではなかった。暗い快感のためもあった。一〇〇〇円や二〇〇〇円程度では満足できなくなっていたのだ。そして、外れることすら快感になっていた。パンチドランカーのように、打たれることにすら快感を覚えていたのだ。
だから白旗を上げたはずなのに三日後にはあきらめきれなくて競馬通いをはじめていた。
予備にとっていた――いざというとき、方向転換するときに必要な――準備金に手を出した。最後のひとしぼりだった。それでもなんとか粘れたのも最初のうちだけで、すぐに負けがこみはじめて残金が三十万というところまで追いこまれてしまった。
その間、三ヶ月。
それだけ粘れたのは馬券の調子が悪くなかったということではまったくなかった。Kさんのところに居候させてもらい、散髪すら節約する生活をしていたのだ。
そして、地方競馬を捨て中央競馬だけに絞った。
それでも負けた。
そんな状態になってもぼくは再就職しようとはしなかった。