2010年10月2日土曜日

馬券生活(5)

 ところが収支がプラスになったのは最初の一ヶ月だけだった。


 必勝本のたぐいこそ、信じていなかったが、何度も読み返していた競馬の本は存在する。
 梶山徹夫氏という馬券師の「馬券で喰ってどこが悪い」という本がそれで、Kさんとぼくは尊敬をこめて筆者のことを「梶山さん」と呼んでいた。面識はまったくなかったが、競馬場で何度もご本人を見かけたことがある。
 浦和競馬場ですれちがったとき、ぼくの顔を見て、あれ、こいつ、どこかで見かけたことがあるぞ、という表情を梶山さんが浮かべた。実際はそう思っていたかどうかはわからないが。
 「馬券で喰ってどこが悪い」を買ったのはまだ、ぼくが仕事をしていたころだった。この本がぼくに馬券で喰うということを考えさせた面もあるのかもしれない。
 中身は必勝本のたぐいとは一線を画し、景気のいい話はすくなく――それでも馬券師としてテレビ出演せざろうえなくなり、最後に日本ダービーで百万円を一点賭けする話は感動的ですらある――、一年三百六十五日、馬券で喰うために、ひたすらパドックに通う日々――。
 この本ではじめてぼくは関東でなら中央競馬の東京、中山にくわえ、南四関東地方競馬の大井、川崎、浦和、船橋をあわせて毎日、どこかで競馬をやっているということを知った。ただし、夏競馬の間は開催が福島競馬場、新潟競馬場へうつってしまうので遠征になってしまうらしいが。
 そして、この本はぼくに重要なことを教えてくれた。
 ――パドックに立つ。
 パドックの重要性は浅田次郎氏の「勝負の極意」の中でも述べられている。
 そのことはKさんには劣等感だったらしく、よくパドックがわからない、とぼやいていた。パドックで馬を見て判断できるぼくをよく羨ましがっていたが、それがほんとうにそうなのかはまた、別問題だ。もしかしたらそう思っているだけなのかもしれない。それに見ることができたとしても馬券につながらなければ、意味がない。


 梶山さんをはじめて見かけたのは大井競馬場でだった。
 南関東の地方競馬、中央競馬へと足繁く通いはじめたぼくは九月二十八日の中山競馬場の最終レースで横山典弘騎手{ノリ}騎乗する馬をパドックで見つけ、単勝二三六〇円の馬券を獲っていた。馬連は一〇二九〇円の万馬券だった。ぼくには関係のない馬券だが。
 そして、その翌日の大井競馬場で梶山さんを見かけた。たしか、無職になってはじめての大井競馬場だった。
 梶山さんは連れともにパドックから本馬場へ向かう途中だった。身振りをまじえながらにこにこ笑って連れに話しているのが聞こえた。
「昨日、ノリが最終で見事に差してきてね……」
 驚いた。
 ――そうか。昨日、あのパドックのどこかに梶山さんもいたのか……。
 そして。
 梶山さんもまた、あの馬を買っていた――。
 もちろん梶山さんは馬連で万馬券をとっていたにちがいない。しかし、それでもその事実はぼくに自信を与えてくれるには充分な出来事だった。


 たとえば、第四十六回日経賞――。
 その日もぼくは中山競馬場の二階フロアのベランダからパドックを周回する競走馬をチェックしていた。
 オッズを見ると、横山典弘騎乗のローゼンカバリーが抜けた一番人気。ほかにG1クラスの馬がいなかったのでこれはしかたなかった。しかし、ぼくにはローゼンカバリーはかかりすぎているように思えた。悪くはない、しかし、イレこみすぎている……。
 目につく馬は一頭しかいなかった。
 関西からの参戦していたステイゴールド。当然、その馬へ単勝複勝で勝負した。くれば、単勝七三〇円だ。
 レースは最終コーナーから直線を向いたところで、ローゼンカバリーが好位外目から抜け出した。ローゼンカバリーにとってわるくないレース展開だった。そのまま、ゴールまで押し切ってしまってもおかしくない――ところがそのローゼンカバリーに張りつくように江田照男騎乗のテンジンショウグンがついてきていた。ターフジーニアスの単勝万馬の立役者、江田照男である。
 後続を突き放した二頭の足色はほとんどかわらなかった。
 ところが中山競馬場の急坂の途中でローゼンカバリーの足色が一瞬に鈍った。テンジンショウグンがローゼンカバリーをかわし、先頭に立つ。ローゼンカバリーはテンジンショウグンを追ったが、差は詰まらない。足色はいっぱいだった。そのローゼンカバリーに後続が迫り、その馬群の中にステイゴールドがいた。
 ――来いっ。
 ステイゴールドが抜けてきた。よし。テンジンショウグン、ローゼンカバリー、ステイゴールドで三着。複勝は確保した。そう確信した。
 ステイゴールドはローゼンカバリーに並びかける勢いだ。
 ――ついでだ。追いつけっ。
 そう思った瞬間、鋭い切れ味でステイゴールドをかわす馬があらわれた。加藤和宏騎乗のシグナスヒーロー。さらに鋭い足色でローゼンカバリーと並ぶ。
 ぼくは心の中で悲鳴を上げていた。
 このままだとステイゴールドは四着だ。
 ――追いついてくれっ。
 しかし、ゴールはすぐそこでステイゴールドは前には届かなかった。
 四着。
 思わず喚き出しそうになった。奥歯を噛みしめ、ぼくはさっさと次のレースのためにパドックへ向かう。外れ馬券のことを気にしていてもしかたない。その途中で、場内の雰囲気がおかしいことにはじめて気づいた。
 静かだった。
 場内が異様な空気のまま、黙りこんでしまっていた。おそらくだれもが唖然としていたのだ。的中を喚く声も飛んだ一番人気の馬を罵しる声も聞こえなかった。奇妙な静けさの中、あちらこちらからぽつりぽつりと、これってすげー馬券じゃねーか、という声が聞こえはじめた。場内が興奮に包まれだす。
 パドックのまわりも異様だった。普段ならぼくのようにさっさともどってくる馬券オヤジたちがすこしもあらわれず、がらんとしていた。
 眼下にパドックへもどってくる梶山さんの姿がぽつんと見えた。
 レースは審議もなく、すぐに着順は確定した。
 パドックの電光掲示板の表示が結果に切りかわった。払い戻しが表示される。複勝の馬番でテンジンショウグン、シグナスヒーロー、ローゼンカバリーが入着したことがわかった。ステイゴールドはやはり着外だった。
 払い戻しを見て一瞬、馬連は二万ぐらいか、と思ったが、すぐに桁がちがうことに気づいた。二一三三七〇円。うおおおおっ、という歓声が競馬場全体を揺がした。三連ものがない当時としては史上最高の払い戻しだった。場内が普段とはちがう興奮に包まれる。
 梶山さんを見ると、電光掲示板の結果に驚いた表情を浮かべた。それからジャケットの内ポケットから馬券を取り出し、それを確認してから大事そうに馬券をポケットに戻した……。
 唖然とした。
 ――獲ったのか……。獲れたのか……。
 ため息がでた。
 もどってくる馬券オヤジたちは皆、興奮し切っていた。
 すげーすげー、千円、買ってたら二百万だぜ、という声から、だれも買ってないからこんな金額なんだよっ、と喚く負けおしみの声までが聞こえた。
 まるで買っている人間など世の中には存在しないといわんばかりに喚き散らし、回りに同意を求めつづけるオヤジがちょうどぼくの隣にきてしまった。うざかったのでぼくはそれを黙殺してパドックを見下ろした。よほど、的中した人間がいるから払い戻しがあるんだよ、といってやろうかと思ったが。
 あの男は取ったんだよっ、と梶山さんを指さしたらどうなるだろう、とも考えた。
 オヤジがぼくの横顔を見つめていることはわかったが、拒絶していることがわかったのだろう。反対側の男にでかい声で話しかけはじめた。
 瞬間、反対側の男が怒りだした。
「うるさいっ。黙れっ。外したくせにっ。うるさいんだよっ」
 その反応にオヤジが気色ばんだ。
「なんだとっ。じゃ、おまえは獲れたのかよっ」
「あたりまえだっ。獲れたにきまっているじゃないかっ」
 一瞬、黙りこんだオヤジが詰め寄った。
「嘘つくなっ。馬券、見せてみろっ。おいっ」
 ほんとうか、と思い、ぼくも隣から男が差しだす馬券をのぞきこんだ。
 ふいにオヤジが大笑いしだした。
「なんだ、一番人気の複勝じゃねーかっ」
 ローゼンカバリーの複勝百三十円。
「あたりまえだろうがっ。あんな馬券、獲れるやつが阿呆だっ」
 狙って獲れるやつがいるわけはないというわけだ。
 ところが。
 ぼくは狙ってとった人間がいることを知っていた。
勝負の極意 (幻冬舎アウトロー文庫)