しかし、結局、ぼくがパスポートをうけとることはなかった。
金がなかったのである。
リトルガリバーで叩きだした十万は一ヶ月かからずに消えてなくなった。幸いなことにそのあと、その友人から連絡がくることもなかった。サイパン旅行の話自体、どこかへ消えた。
末期であることはまちがいなかった。
体調もけしてよくなかった。
左耳の中がいつもじゅくじゅくと化膿していて透明な液が滲み出て止まらなかった。最初はパチンコをやっているとき、防音ために耳の穴にパチンコ玉を入れていたことが原因だった。新鮮な空気に触れなくなるため、耳かきでつけた傷が化膿して治らなかったのだろう。ところがパチンコをやめたというのに一向に完治する気配はなかった。
延命だけのために、馬券購入の金額を百円単位にし、競馬場へ行くことも完全にやめてしまった。PAK購入のスタイルに変更し、購入スタイルも変化した。資金はKさんから借金した。
馬連――流し馬券を基本にし、軸を決めての流し馬券。ただし購入金額はそれぞれに厚みをつけ、的中すれば、二倍になるように計算した。そのためにPAKの通信ソフトがオッズを受信すると、そのデータを読みこんで、組み合わせを指定すると、金額を自動的に算出するプログラムを組んだ。
データ競馬だったが、半年ぐらいしか保たなかった。
馬券生活に入った元々のきっかけ――パドックを見れば、馬券が獲れるはず――ということすら否定した馬券だった。
混乱していた。
すでに生活だけではなく、自覚がなかっただけでぼく自身もまた、破綻してしまっていたのだろう。
Kさんへの金の無心がひんぱんになってきたある日。
彼女がいった。
「わたしはヒモを養うつもりはないのよ」
小さく囁くような声だった。
年がかわり、中山競馬場に開催が戻ってきた。
資金はなかった。そのはずなのにぼくはまだ競馬場へ通っていた。
暇なときはスカパーの無料の映画を観ているか、パソコンをいじっているか、喫茶店で本を読んでいた。
近くのハローワークへ行って様子をうかがったこともある。
就職先よりも仕事を探す人の方が多くてげんなりした。
限界だとわかっていたが、それに対応するために競馬以外のことをすることがどうしてもできなかった。喫茶店でパソコンをいじっていたところへ電話があった。久保田さんだった。瞬間、吹きでる汗に眼鏡をいつも曇られていた久保田さんの姿が頭に浮かんだ。
仕事をしないか、いう。
受けることにした。
一年間、ずっと切らずにいた髪は肩までとどくロングヘアになっていた。そのまま、面接へいった。すでにKさんとは別れることになっていた。引っ越し費用がないのでそれができるまで待ってくれ、とぼくは頭を下げた。
再開した仕事をほんとうにやっていけるか、どうかはわからなかった。
ブランクが長すぎた。
ところが、やってみると、以前よりもむしろ自由に仕事ができたことに自分で驚いた。スキルが上がっていたのだ。馬券まみれの間、暇なとき、パソコンをいじってばかりいたが、それがいつのまにか、スキルアップにつながっていたらしい。もどるつもりはなかったので将来に向けての投資という意識はまったくなかったのだが。
そして、引っ越し費用を溜めたぼくはKさんのアパートをでた。