2009年4月13日月曜日

笠井潔「例外社会」



 この本の存在を知ったとき、これは読まなければ、いけない、と思った。すぐにでも――宣伝の文句に「グローバリズム」「非正規雇用者」「ワーキングプア」などの言葉が踊っていたからだ。


 というのもかつて「労働、アービトラージ、ワーキングプア」という文章を書いてみて自分の考えを外在化してみたとき、状況は絶望的だ、少なくとも希望はない、という結論に至ってしまったからだ。これは今でもかわってなくて、とんでもない世界――世界は底抜けしてしまった、と思っている。この認識はトーマス・フリードマンの「フラット化する世界」を読んだ結果、まちがってはいなそうだ。
 だから「例外社会」を読んでみなければ、いけない。
 しかし、それはこの本に救いを求めて、というわけではない。状況は絶望的、ということに希望がありうるとは思えない。それでも読まなければ、と思ったとは笠井潔の評論ということが大きい。ただのへ理屈たれであるぼくなどとちがって思考の強度、緻密さ、深さを持つ笠井潔が状況をどのように認識しているのか、一読以上の価値はあるはずだ。


 大部分は二十世紀の再検討にあてられている。
 そして、その結果としてボリシェヴィズム(ソ連)とナチズム(ドイツ)とアメリカニズム(アメリカ)を同じとする視座を提供するが――この視座そのものは笠井潔の「探偵小説論」を読んできた身としては、その延長上にある思考なのですんなりと受け止めることはできたけれど、初めて触れる人はひっくり返るだろうな……普通、対立していたと捉えれているソ連とアメリカを同じとするのだから。ドイツ、ナチズムを革命と捉える考え方も――これは「探偵小説論」ではないが――そうだろう、ということは感じていたのでそれほど、驚きはなかった。やっぱりかぁ、という感じ。
 ひっくり返ったのは社会的再生産装置としての教育、という視点だった。
 教育が階級を再生産(親から子へ)し、固定化するために働く、というのだ。教育を平等の装置と思っていたこともあり、驚愕だった。


 そして、二十一世紀に提起される「複岐する実存」――。
 実をいうと、この概念がうまくイメージできないでいる。よくわからない。なんとなくイメージしている部分をあるのだけど。たぶん「シュレーディンガーの猫」なんだろうな、とは思うけれど、それがどのように展開されるのか、理解できない。保留と決断――というタームで自分の中で整理できるのかな、とは思うのだが……ただ、保留と決断というタームで解釈しなおそうとするのはたぶん、福本伸行の「アカギ」の影響だな。いや、待てよ……もしかしたら「HELLSING」か?
 たとえば、
私が犠牲としてのこの私の死を受容するのは、無数のもう一人の私、われわれが生きるためだ。選択以前として、私は犠牲であることをみずから引き受ける。
という「例外社会」の一文と
殺し続けていた
私の中で
私の命を
三百四十二万四千八百六十七
一匹以外は全員殺して殺し尽してきた
もう私はここにいる
もう私はどこにもいないし
どこにでもいる
だからここにいる

HELLSING」アーカードのセリフにはどこか響き合うものがありはしないか?