企業は「価値を生み出す装置」 - Zopeジャンキー日記
私が解雇規制に反対するのは、労働市場への介入だからだ。それは市場を守る規制ではなく、市場を損なう規制になってしまっている。
市場は自由な取引により成り立つ。自由な取引とは、当事者どうしが自らの意志に基づいておこなう取引だ。
解雇規制は、雇用契約という取引をやめたいという企業側の選択肢を封じてしまうので、どんな取引をするかという意思決定自体に影響を与える。自由な意思決定のための選択
基本的、ぼくも同じような、近い考え方をしているのだが、労働市場にすべてをまかせることには無理がある、ある程度の介入は必要だ、と思っている。その介入で問題が解決するとはまったく思っていないが。
というのも。
労働市場が正常に働くためには売り手と買い手が均衡している必要がある、ということだ。
市場原理でどこかで均衡するだろうって?
まってくれ。
仮に均衡したとしても、その均衡点で労働者は生活できる賃金を得ることができるという前提はどこにも存在しない。市場にまかせれば、たしかに売買は均衡する。しかし、そこで人は生活できるとはかぎらない。それを可能にするには政府の介入が必要だ。ただし、それでうまくいくとはぼく自身は思っていないが。
そして、ふたつ目。
ある種のカテゴリーの労働者の集団は圧倒的に買い手市場であるという現実。
たしかに高度な知識や技術を持っている労働者は市場原理にまかせた方が効率的かもしれない。優秀な人物を特定の会社に抱えこませるのではなく、必要な場所へ流動させるという意味でも、その部分については市場にまかせた方がいいし、そういう人たちはおそらく労働市場にまかせてくれ、と思っていることだろう。
しかし、労働者という集団の多数はそういう人たちではない。
すでに労働者としてのグローバルな競争に晒されている(本人たちは自覚していないかもしれないが)多数の労働者は、そのために圧倒的な買い手市場の中にいる。そういう人たちは市場にまかせると、生活できないレベルまで賃金など、落ちこまざろうえない。
みっつ目は労働者自身の流動性の問題だ。グローバルな競争に晒されている人々は賃金のレベルに合った物価の国へ移動できない、という現実がある。すでに国外へ流動できないということで――法律的、能力的、感情的にしろ――労働市場としてすでに歪みが発生している、ということだ。そういう状態で、すべてを労働市場にまかせることがベストだろうか?
非常に疑問だ。