2010年3月8日月曜日

カール・R・ポパー「果てしなき探求 -知的自伝-」

果てしなき探求(上) -知的自伝ー
果てしなき探求〈下〉―知的自伝

 もちろんポパーを読んでみようと思ったのはナシーム・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質」の影響なのだが、「果てしなき探求」を読んでみてあらためてカール・R・ポパー「探求の論理」を読んでみよう、と思った次第だ。それほど魅力的な上下巻だった。ほかのポパーの書籍には触れたことがないのでもしかしたら、なのだが、「果てしなき探求」はポパーの思想的遍歴の入門書になっているのではないだろうか――そして、救いを得た。

 救いというのはたとえば、次のような言葉がある。転向。以前とちがうことをのべて「以前とはちがうことをいっているじゃないか」と非難される。たとえば、そのようなこと。その非難を予測してしまうと、口をつぐむしかない。自分が今、語っていることはもしかしたら無知からきているかもしれないからだ。自分が無知であることは自覚できても無知の内容は自覚できない以上、それをつねについてまわることだ。

 そして、過去をふりかえってみれば、自分の考え方がいろいろと変転をくりかえしてきていることがわかる。歳をとれば、なおのことそうだ。歳をとると過去の発言、自分が残した言葉が思考の足枷になっていることがわかる。そのことに気づくことは思った以上にすくないかもしれないが。人には現状維持バイアスがあるので過去の自分を肯定したい、という傾向がどうしてある。

 考えを変えることは悪いことだ――という無意識の圧力がある。意思を貫き通すということが肯定的にあつかわれる以上、それは否定的な圧力だ。たぶんこれは文化的なものだろう。そのように共同体から教育されてきたわけだから。

 ところが考え方は変わり得る。

 知識が追加されれば、見方が変わることは充分にあり得る。問題はそれを充分、批評的に検討した結果か、ということだ。人にはバイアスがある。意識することなく保身に走ることもよくある。別にポパーがそれらのことを肯定しているわけではないのだが、ポパーはいう。すべての理論は仮説である、と。どんなに実証されたとされる理論であっても仮説である、と考え、その反証可能性があることが科学の理論だ、という。それゆえに理論は永遠に真理の近似値でしかない。そして、科学の理論が発達するのはその反証可能性ゆえに理論が批評に晒されることによってだ、と。極端な話、実証は何の証拠にもならない、とすらポパーは考えているようだ。

 つまり自己肯定バイアスに身をまかせてポパーを拡張するならすべての考えは仮の考えでしかなく、あたらしい知識によってそれは否定され得る。また、そうでなければ、考えが前に進むことはないであろう。しかし、それは批判的に行なわれなけえばならない、と。

 いずれにしてもポパーの「探求の論理」をいつか読んでみたい。