2010年5月31日月曜日

丸山健二「猿の詩集」

猿の詩集〈上〉
猿の詩集〈下〉
 傑作だ。
 すくなくとも個人的には丸山健二の最高傑作ではないか、と思っている。ついに「千日の瑠璃」をこえたのではないか、とも。
 丸山健二との出会いは「君の血は騒いでいるか」――などのエッセイだったけれど、「雨のドラゴン」「ときめきに死す」などに痺れ、「惑星の泉」以来、年毎の新作を楽しみにしていた。とくに「水の家族」「野に降る星」「白と黒の十三話」「見よ、月が後を追う」など、すばらしく、「千日の瑠璃」ではひとつの高みにのぼってしまった感があった。それ以降ももちろんコンスタントに作品を世に問うていたのだが、やはり「千日の瑠璃」をこえることはできない、というのが私見だった。ひとつには丸山健二の政治観が一面的すぎる、というのがある。ぼくにとってあまりにも現実感のない言説なのだ。つまり納得できない。
 「鉛のバラ」まではほぼ、リアルタイムで追いかけた。
 ところが「貝の帆」で追うのをやめてしまった。丸山健二が「貝の帆」で変わろうと意思していたこともあるが、こちらの生活がフィクション離れを起こしていてこともある。だからすっかり丸山健二とはご無沙汰してしまっていたのだが、そんなときだ。「猿の詩集」の上下巻に出会ったのは。
 あいかわらずの緊密な文体に酔い痴れながら読み進み、不安を感じながら下巻に突入した。不安というのは「争いの樹の下で」のように現実感のない政治的な言説にまみれてしまうのではないか、という不安だ。たしかに丸山健二の政治観はあいかわらずではあったけれど、それに拘泥することなく、下巻は進み、進みつづけ、そして、ラストへ――。大袈裟すぎる言い方だが、魂が震えた。
 「貝の帆」からの変化がこの作品を生み出したのはまちがいない。それ以前ではほとんどあつかうことのなかった男女の睦み事を「猿の詩集」ではきちんと描写しているからだ。そして、登場人物の多彩さも「貝の帆」以前の丸山健二にはあまり見られなかった特徴だ。なにしろ「虹よ、暴力の虹よ」では登場人物がほとんど三人しかいないという過激さなのだ。
 いずれにしてもぼくの前には「貝の帆」から「猿の詩集」までの著作が存在するわけで、ぼくはそれをとても楽しみにしている。