2011年6月12日日曜日

橘玲「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」



 非常におもしろく刺激的な本で書かれている内容はほぼ同意しつつ――基本的にぼくも自己啓発はあまり意味がない(まったく無意味とは思ってないが)――、なぜか、ぼくの結論はたぶん、著者とはまったく反対のようだ。


 著者は遺伝子ですべてが決定されるといっていないが、たとえ、すべてが決定されていたとしてもぼくは何の問題もないと考えている。努力に有効性はあるし、人生は未知のままだ。単純にいってぼくらは自分がどんな遺伝子をもっているか、なんてわからないのだから。
 子どもは両親のもつ遺伝子しか、与えられないじゃないか、と意見もがあるかもしれない。しかし、両親のもつ遺伝子をすべてわかっていないかぎり何の問題ないではないか。未知のままだ。
 次の三点から遺伝子が決定的要素であったとしても問題ないと思う。

1. 有性生殖である
2. 脳の可搬性は想像以上に大きい
3. 環境によって発現するかしないか決定される遺伝子が存在する

 とくに「有性生殖」の要素は大きい。
 ぼくらは両親の遺伝子にすべてを決定されるが、半分の遺伝子は捨てられるのだ。頭の悪い両親から、頭の悪い子どもが生まれる可能性は高いかもしれないが、それは可能性が高いだけだ。A型の母親とB型の父親からO型が生まれることがあるように、有性生殖を介することによって「トンビが鷹を生む」。
 それは頭の良い両親から頭の悪い子どもが生まれる可能性があることも示している。統計的には遺伝子は決定的かもしれないが、個々人には何の関係もない。どちらであるのか、わからないのだから。
 「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」の中の比喩に従うならジャイアンにも勉強の才能があるかもしれない、ということだ。


 この本で多少なりとも苛立ちを覚えるのは、このように全体を個人すべてに均等に適用している部分があるからだ。たとえば、嫉妬深さについての考察がある。嫉妬深さは進化の結果、獲得された形質だ、と――それ自体はそのとおりだと思うのだが、それが、すべての嫉妬しない人々を淘汰したと考える根拠はどこにもない。
 第一、今以上の嫉妬深さでないのはなぜか、という観点がないのはなぜか?
 それは嫉妬深すぎると、生存に支障をきたすからだろう。そうであるなら当然、嫉妬深くないことが有利な状況がありうるということだ。


 自己啓発は無意味だという著者より、努力にも有効性があるかもしれない、と考えるぼくの方が楽観的なのだろうか?
 むしろ絶望的だとぼくには思える。
 ぼくの考え方はあるかないかわからないものに賭けつづけなければ、ならない、ということなのだから。
 そして。
 ぼくたちは目標に向かって努力して失敗したとき、それが才能がなかったからなのか、努力が足りなかったせいなのか、ただ、運が悪かっただけなのか、わからない。もちろん成功したとしても。

2011年6月2日木曜日

ロバート・A・ハインライン「天翔る少女」


 ロバート・A・ハインラインって凄いな、と思ったのは「夏への扉」のことを思い出したときだった。読んでのは1982年のことだからもうずいぶん前のことだ。それをふと思い出し、当時はまったく気づいていなかったことに気づき、感銘を受けた。「夏への扉」はタイムトラベラーものの代表的な作品だけれど、よくあるパターンともいえる未来を知っている主人公が大金持ちになる、という展開がある。
 その方法がふるっていた、ということに気づいたのだ。
 「バックトゥザフューチャー」でもそうだけど、よくあるのがギャンブルで大儲けという手。ところが「夏への扉」はそうではなかった。なんと、株を買うのだ。ギャンブルと同じじゃん、と思うでしょう。ぼくも読んだ当時はそう思っていた。でもバートン・マルキール「ウォール街のランダムウォーカー」を読んだり、ウォーレン・バフェットや株のことを知った今は微妙にちがう感じを覚えた。
 ちょっとバートン・マルキールとハインライン、なんか似てね? とも。

 で、「天翔る少女」だ。
 この中でもハインラインの経済学者的な要素があって驚いた。出産についてだ。なんと「天翔る少女」の火星では(原題は「火星のポドケイン」)、若い頃に妊娠した胎児を冷凍保存し、経済的に安定したときに解凍して子どもを育てる、というのだ。これは妊娠するのは若いときがいいという生物学的理由――歳をとると精子の遺伝子のエラーの確率が増える――、しかし、そのときには普通、その頃の男女は子どもを育てるには経済的に苦しい、という状況を解決するための方法である。
 何が驚いたってこの内容はスティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー「ヤバい経済学」の中にあるどうして黒人の犯罪発生率が減少したか、という考察と瓜二つの発想だからだ。
 あわてて「天翔る少女」の発刊日付を見ると、1958年。
 ハインラインの発想、すごすぎだろ。

 作品自体は小品と称すべきかもしれない。
 ラストのトムおじさんの科白に違和感を覚えた人も多いのではないだろうか。ぼくもそのひとり――解説にも似たことが書いてある――だったのだが、よくよく考えると、この科白はきわめて当然なのだ。というのもトムおじさんは次のような科白を述べているからだ。
「(中略)政治はけして悪ではない。政治は人類の最大の功績なんだ。よい政治ならすばらしいし……悪い政治でも……そこそこすばらしい」
     (中略)
「いいかい、政治というのは、そう戦わずして、事を処理するやり方のことをいうんだ。駆け引きをして、みんながみんな、自分だけ損をしているような気になったりもする。ところがな、うんざりするぐらい話し合っていると、どういうわけか、人の顔をぶん殴らなくても、応急処置的なことを考えつくんだよ。それが、政治だ。でなければもう顔をぶん殴る以外にいざこざを処置する方法はない……。そんな事態になるのは、片方か両方かが、話し合う気をなくしたときだ。だからわしは、悪い政治でもそこそこすばらしいというんだよ。政治に代わる手段は腕力だけで、そうなると深刻に傷つく者がでる」
 ということは何を差してトムおじさんがクラークはだめ、といっているのか、わかる。何が手遅れなのか、ということが。
 そう思い至ったとき、ずいぶんと「天翔る少女」の印象が変わった。

2011年5月28日土曜日

千街晶之「幻視者のリアル (幻想ミステリの世界観)」



 俎上にあげられている作品のほとんど読んでいないことにショックを受けた。どちらかといえば、幻想ミステリは好きだし(そのはずだ)、この間など「ミステリウム」に深い感銘を覚えたというのに。中井英夫の「虚無への供物」だって好きだし、夢野久作だってそうなのに。
 ほとんど読んでいなかった。
 元々、多読なたちではないのだが、それにしても。
 とくに赤江漠と皆川博子を読んでないことはショックだった。そのことを思い知らされた。
 赤江漠と皆川博子は――高校に入った年、毎月、貸本屋で小説現代を月遅れで借りて眺めていた(あまり読んではいなかった)とき、よく見かけていた名前だった。気になっていた名前だった。皆川博子の「水底の祭り」を読んでショックを受けていたというのに――全然、著作は読んでいないのだった。
 せめてこの中の著作のいくつかは読んでみたいのだが、読むことはできるだろうか……。

2011年5月23日月曜日

iPad2、来る!

 ようやく心待ちにしていたiPad2が到着。
 夕方から出かけもせず、夜遅くまでいじってしまう。途中、家の無線LANに接続できずにどうしたらいいか、夜の街を彷徨ってしまったが。どこかフリースポットはないか、と。以前、見つけていた場所にもなく。結局、DELLに「BUFFALO Air Station NFINITI 11n/g/b USB用 無線子機 WLI-UC-GN」をインストールしなおし、無事、ルータ化に成功。というか、ThinkPadでルータ化してiPad2で接続できなかったのはおれの勘違いからだった。パスフレーズが実はあっちの方だったとは。



 まぁ、よい。
 で、AppleStoreでいろいろアプリをダウンロードしようとしてはたっ、と困ってしまう。結局、必要なものはEvernote、Dropbox、iBookぐらいではないか、と。ほかのものはiPhoneで使用できるので何もわざわざ、iPadに落とす必要はない。
 見ると、Skype for iPadもないみたいだし。
 となると、なんでiPadを買ったのか、ということになる。
 そうだ。競馬のためだったんだ、と今日、試しにSafariで馬券を買う。まぁ、悪くない。でも、とはじめてここで気づく。iPhoneでよかったんじゃね?
 いちいちパソコンの前で馬券を買わなければ、いけないことが不便だと感じていたのだが、それで手元に置いておけるiPadと考えていたのだけれど、実はiPhoneでもできんじゃーん。iPadを購入してから今日、気づいた。馬鹿だ。
 でもまぁ、動き自体はiPadは軽快で、もしかしたらうちで一番、軽いマシンかもしれない。ただ、思ったよりも重いんだよねー。これが半分の重さならまちがいなく、OKなのだが。まだ、重い。ノートブックパソコンはこの重さなら確実にOKなのだが。使うとき、手に持たないから。でもiPadは手に持つんだよねー。この差はけっこう、大きい。
 まぁ、一番の問題は何に使うか、という明確なビジョンがない、ということだな。今のところ、馬券の投票用でしかない。それでも十分だけど。それにしては重すぎる。でも最大の問題点はDELLを動かしていなければ、いけないということかもしない(DELLをルータ化しているから)。なんか、無駄と感じてしまう。
 あとはやはり有料アプリを購入する必要がありそうな。
 iPhoneはほとんど、無料アプリでなんとか、なっているのだが。
 有料アプリを使うと負けみたいな感覚があるんだよなー、どうしても。無粋な感覚だが。それにiPadに閉じられるのはやはり嫌だ、というのもある。
 わがままだねー。

2011年5月21日土曜日

フランシス・S・コリンズ「遺伝子医療革命―ゲノム科学がわたしたちを変える」



 エイズは不治の病だ、と思っていた。
 DNAに自分自身の遺伝子を逆転写するというそれだけで治療する方法など存在しないのではないか、と思っていたのだけれど、そうではないらしい。すでに完治している人間がいることをこの本ではじめて知った。
 しかもエイズに感染しない人間というのもごくわずかだが、存在するらしい。

 自分の知識がすでに古く、科学はたゆまなく進歩しているのだな、と痛感した一冊であった。

2011年5月15日日曜日

アガサ・クリスティー「邪悪の家」


 中学生のころ、結構、創元文庫の本格ミステリを読破することを目標に本格ミステリばかり読んでいた。だいたい100冊、読んだのだけれど、そのときのお気に入りはヴァン・ダインで、ファイロ・ヴァンスに痺れた。http://www.blogger.com/img/blank.gif
 後年、笠井潔の「バイバイ・エンジェル」を読んでファイロ・ヴァンスのことが一行、書かれていて無性にうれしかったのだが、それはまた別の話。
 クリスティーはどちらか、というと苦手な作家で――短編はすばらしいのに――「ミス・マープルの13の謎」とか――、なんで長編はつまらんかな、と思っていた。「アクロイド殺害事件」も「オリエント急行の殺人」もあまり、おもしろいとは思わなかった。ただ、これはメイントリックを知っていて読んだということもあるかもしれない。昔、ミステリのトリックをクイズ形式で片っ端からばらした本があってそれを読んでいたのだった。ちなみにその本の中で夢野久作の「ドグラ・マグラ」は読んだら気が狂う、奇書として紹介されていた。
 ただ、最近、「オリエント急行殺人事件」見たとき、当時のぼくはちゃんと、小説を読めていたんだろうか、という疑念が沸いた。というのも「オリエント急行殺人事件」がおもしろかったのだ。
 なのでクスティーをいつか、読み返してみようか、と思っていたのだが、存外、早く読んだ。それが「邪悪の家」だ。初見なのだけれど、非常におもしろかった。
 やはり中学生当時のぼくはちゃんとミステリを読めてなかったのかもしれない。今、読めているという想定も幻想かもしれないが――。
 興味深かったのはエルキュール・ポワロだ。エルキュール・ポワロという装置。
 実はクリスティーはだめと烙印を押してしまった原因のひとつはエルキュール・ポワロだった。「晩餐会の13人」という作品の中で、本の半ばでほとんど真相はあきらかに思えたのに、名探偵であるポワロが右往左往していたのだ。
 で、結果、こちらの想像通りの真相だった。
 そんなこともあり、クリスティーはだめ、と烙印を押してしまったのだが、もしかしたらそれは読者というメタな立場にいる人間の傲慢さだったのかもしれない。
 今回も似たような感じではあった。
 たぶん「邪悪の家」のメインのネタは本を半分ほど読んだところで、気づく人も多いのではないか、と思う。ただ、それは論理的に逹っした結果ではなく、今までの読書経験からの類推なのだ、と思う。すくなくともぼくはそうだった。それを割り引いても作品としてのリーダビリティは高く、読まされた。それはポワロという装置がストーリーをドライブさせていたからだ。
 たぶん「晩餐会の13人」のときのぼくはポワロを名探偵として考え、そうでないことが不満だったのだろう。なんで読者は気づている真相にこの名探偵はかけらも気づかない……。
 実はポワロは名探偵ではない、と今回、ようやく気づいた。どちらかというと事件を語り、ストーリーをドライブさせる装置なのだ、と。今回だけなのかもしれないが――たとえば、冒頭で主要人物が撃たれたことに気づき、いきなりサスペンスのフェーズに放りこんだのはポワロなのだ。事件に気づくという形で――。

 いずれにしてもクリスティーは世間の評価通りおもしろい、とようやく了解できた。これはよろこばしい。さて次は何を読もうか……。

2011年3月21日月曜日

クリストファー・チャブリス/ダニエル・シモンズ「錯覚の科学」

錯覚の科学
 邦題よりも原題の方がいいんじゃないか。
 そう思うのは偶然、テレビで「見えないゴリラ」の実験のビデオを見たからかもしれない。その実験がどんなものか、どうかはこの本を参照して欲しいが、たぶんそのような話を聞いてもにわかに信じられないだろう……。自分でその経験をしないかぎり。
 経験してみて軽くショックを受けた。
 まさか****の試合中に****通りすぎる****気づかないなんて。
 考えてみれば、テーブルマジックというのはまさにそれを応用した技術なのだろう……。
 本の中ではいろいろな錯覚について語られているが――「注意の錯覚」「記憶の錯覚」「自信の錯覚」「知識の錯覚」「原因の錯覚」「可能性の錯覚」――、その中で一番、ショックを受けたのは「記憶の錯覚」かもしれない。ふいに自分の記憶があいまいに感じられて気味が悪くなってしまった。確信を持っている記憶ほど、あてにならない、というやつ。
 まさに思い当たることがあったからだ。
 時々、本の一部を思い出し、それを確認するためにページを繰ることがあるのだけれど、これがいつも本当に見つけるのに苦労してしまうのだ。たしか、ページのこのあたりに書かれていてあった――見開きの位置とか、このイラストのすこしあととか、はっきり覚えているにもかかわらず、その場所には見つからない、という経験を何度もしていて。
 いやはや、錯覚にすぎなかったのか。その確信は。

2011年3月15日火曜日

福島原発、あるいはサンクトペテルブルクのパラドックス

 告白しよう。
 実は2011年3月12日の段階で、東京から逃げ出すつもりだった。
 福島第1原発第1号機の建屋が水素爆発でふっ飛び、原子力研究資料室のUstrem放送などを見たあとだ。状況は芳しくない――しかし、それが原因ではない。
 この状況はサンクトペテルブルクのパラドックスの裏ではないか、と思えたからだ。あるいはパスカルの神をどうして信じるか、という問い。
 パスカルのように合理的に行動するなら東京から避難するのが正しい――と。

 つまりこういうことだ。
 状況は次のマトリックスにまとめることができる。

格納容器が無事格納容器が破損
とどまるa1.被害なしa2.被害無限大(たぶん死亡)
避難するb1.失職、人間関係の破綻b2.日本経済大打撃

 この状況でぼくに選択できる道はふたつ。とどまるか、避難するか。このそれぞれの被害の期待値は次のように計算できる。

(無事の確率×a1)+(破損の確率×a2)=とどまる被害
(無事の確率×b1)+(破損の確率×b2)=避難する被害

 この結果、「とどまる被害>避難する被害」になる。a2の被害が無限大である以上。そうであるなら合理的な判断は「避難」なのだ。
 しかも原発は複数個、存在する。
 だから判断は「逃げる」だ。

 が、今だ、東京にいる。

 ――家人が仕事があるから、というのだ。それを説得するだけの材料がぼくにはなかった。サンクトペテルブルクのパラドックスは、行動経済学の実験結果では人は通常――このケースだと「とどまる」ことを選択することがわかっている。ぼくの方が異常なのだ。その判断は経済的合理性にもどづいたものではなく、人の感情的なものだが、だからこそそれを説得するのはむずかしい。
 腹をくくるしかないのだけれど、そう思ってはいても、次々にでてくる福島原発の状況に肩がぱんぱんになり、おろおろと吐きそうな気分……。
 これはきつい。
 そこで自己正当化を試みた。
 上記の考えはあやまっているのではないか。
 たとえば、b2は日本経済大打撃としているが、これはa2と同じで被害無限大ではないか――。次のようになる。

格納容器が無事格納容器が破損
とどまるa1.被害なしa2.被害無限大(死亡)
避難するb1.失職、人間関係の破綻b2.被害無限大(生存)

 そうすると、話はちがってくる。a2-b2の被害の大きさは単純にぼく個人の価値しかないからだ。どのくらいかわからないが。つまり問題は|(a2-b2)*破損の確率|>|(a1-b1)*無事の確率|であるか、どうかということになる。(a2-b2)=(a1-b1)ではないが、仮にそうであっても、破損の確率が無事の確率と同じでなければ、「避難する」に賭ける意味はない、ということになる。

 あー、ほっとした。どうやら最初の判断がまちがっていたようだ。

2011年3月13日日曜日

東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日(金))

 歩きに違和感があった。
 急に足元が柔らかなくなったような違和感。踏み出した足が微妙にずれた場所を踏んでいるような感覚――ふらついているのか?
 眩暈?
 iPhoneでGorillazを聞きながら帰宅している途中だった。
 立ち止まって音楽を止めた瞬間、揺れているのは自分ではなく、地面なのだ、ということがわかった。揺れている。でかい。そして、いつもならこのあたりで弱くなる、と思われるときに、揺れがさらに大きくなった。国道の向かい側では街路樹がわさわさと音をたてながら揺れ、電線がうねり、ビルが揺れている。
 前方ではおばさんふたりにおじさんがひとり、固まって騒いでいる。
 かたわらのビルを見上げた。
 ベランダに植木鉢が置かれたりしてないか、と不安になったのだ。ない。しかし、何か落ちてきたら最悪だ。そのビルの下に入る。一瞬、ビルが崩れたら、とも思ったが、そのときはかたわらに立っていたら確実に落下物でひどい目にあうだろう……。
 おばさんたちの喚き声が聞こえる。
 なかなか揺れはおさまらなかった。
 車に乗っている人は気づいてないのか、目の前を通りすぎていく。
 揺れがおさまったときには自分が興奮していることに気づいた。とりあえず、家人に安否をたずねるメールを送り、帰路についた。国道では車が徐行している。ふりかえって交差点を見ると、渋滞していた。事故があったのかもしれない。どこかからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
 店の防犯ベルらしい電子音が鳴り響いている。
 その音を地震警報とかんちがいしたおばさんが喚いている。
「また、来るんでしょ、またっ。ほらっ、鳴ってるっ」
 横を通りすぎ、道端でしゃがみこんでいる女性のかたわらを抜ける。そこでまた、微震を感じた。足元が揺れた感覚があった。
 車は通りすぎ、人々は何事もなく、横断歩道を渡っている。
 ――ここまで大きかったのはひさしぶりだな、と考えながら歩道橋を上った。そこから見下ろす交差点の風景はいつもとかわりなかった。揺れたとき、どんな様子だったんだろう……。マンションに帰りつくと、セコムの警報が鳴りつづけていた。
 そこでようやく気づく。エレベーター、停まってるんじゃ、ね?
 案の定だった。
 停止していた。
 セコムに連絡はいっているだろうが、いつ復旧するか、わからんな、と判断して非常階段を上りはじめた。今日はずいぶん、歩かされる日だな……、と思いながら。玄関前のフロアでは自転車がひっくり返っていた。
 自宅に入って唖然とした。リビングへつづく廊下に並べてあった本棚が全部、倒れている。自分の部屋の本棚も全滅だった。斜めにぶっ倒れ、本が散乱している。買ったばかりのシュレッダーと、プリンタと、パソコン本体が落下し、転がっていた。とにかくぐしゃぐしゃだ。

 正直、ここまでの惨状は予想してなかった。
 今までのようにだいじょうぶじゃないか、となんとなく思っていたのだ。
 動かしていた洗濯機は停まっていたが、これは地震のせいなのか、どうかはわからなかった。とにかくキッチンまでいかなければ、と思い、本棚をどかし、散乱した本をまたいで廊下を抜けた。途中で鍋にいれた味噌汁のことを思い出した。昨晩、ひさしぶりにつくった味噌汁だ。ひっくり返ってるだろうな、と思ったが、鍋は無事だった。中身は半分ぐらいガスコンロにまきちらされていたが。
 シンクのまわりのものはいろいろとひっくり返り、ブリタにいれていた水のせいで床はびしょ濡れだった。植木鉢は転がり、置時計はシンクの丼の中に浸かっていた。さいわいだったのはメダカの水槽が無事だったことだ。
 食器棚の中身はさすがに放りだされ、割れたグラスの破片が散っていた。
 二匹の飼い猫の名前を呼ぶが、返事はなかった。おびえてどこかで震えているのだろう。落下物に潰されているなら声が何か聞こえるはずだ。それはなかった。
 リビングのテレビをつけ、震源が東北の方だ、と知る。数日前の地震と同じ震源だ。被害の程度はわからない。津波警報がでていることを伝えている。
 自室にもどり、パソコンをチェックした。動かしっぱなしで出かけていたのだが、再生していたDVDはエラーになっていたが、他は問題なさそうだった。さすがSSD。衝撃に強いな、と感心しながら――台から落下していた――、インターネットの地震情報をチェック。
 驚いたことにtwitterは問題なく、タイムラインを流していた。
 Googleのリアルタイム検索でサーバールームでラックが倒れ、腹を潰され、だれも気づいていない、血がでている、助けてくれ、というメッセージを見てしばし、固まる。だいじょうぶか、と思ったが自分がどこにいるか、肝心の情報がない。いろいろと見ているうちに、いたずらではないか、と思えてきた。あまりにも冷静な文章の上、状況から考えると、ツイッターではなくメールでだれか知り合いに連絡できるはずだし、twitterのダイレクトメッセージもある。
 何かおかしい。いずれにしても、どうすることもできないし、サーバールームのラックが簡単に倒れるとも思えない。いたずらだとしたらこの震災の状況でこういうことをする人間がいるんだ、ということに唖然とした。震災の状況を知らなかっただけかもしれないが。最終的にこの件に関しては住所がわかった段階でデマと判断した。存在しない住所だったのだ。
 いずれにしてもテレビ――Ustrem――とネットの情報でかなりの震災だということがわかってきた。マグネチュードも8.8に変更された。そうこうしているうちに津波の様子が伝わってきた。港では漂流しはじめた桟橋が駐車場のビルに衝突し、船が――漁船よりも大きく、タンカーよりも小さな――堤防にただ、押し流されて衝突した。
 沖から押し寄せてくる津波も放映された。遠目にはまるでサーフィンに最適なきれいなセットブレイクの波に見えた。正直、まかれたくない、と思えるものだった。死ぬ。
 無力を受け入れるしかない状況だった。
 何かしなければ、と善意でデマを拡散させてもしかたがない。
 できるのは自分のまわりの何人か、の無事を確認することぐらいだろう……。
 とりあえず、行方がわからない家人と猫が心配だ。twitterをやらせておけば、よかった、と思ったが後悔してもしかたがなかった。Googleの消息検索サービスと携帯電話の検索サービスをチェックし(いずれも情報なし)、パソコンからメールを送っておく。携帯電話の回線は使用できないだろう。Skypeは使えるということだったが、相手が携帯電話、固定電話では無理のようだった。心配しているだろう実家へ連絡する術もなさそうだった。

 ――猫は、一匹は布団の下で怯えているところをすぐに発見した。そのあとすぐ、余震ですさまじい勢いで駆け出し、ベッドの隅に逃げ込んでしまったが。
 もう一匹がどうしても見つからない。
 一番心配していた本棚の下敷、ということはなかった。しかし、他の場所にも姿はない。見当たらない。もしどこかで潰されているなら臭いがするはずだろうからどこかで震えている、と考えるしかなかった。
 妹からメールがあり、その返事をだして震災の状況を見つづけた。
 濁流となった津波が田畑を飲みこんでいくシーンに息を飲み、車が何台も空箱のように固まって流されていくシーンに唖然とした。ガスタンクが爆発し、そして、福島原発。
 余震はつづいている。
 夜になって燃え上がる気仙沼の様子が放映された。
 JRと地下鉄は運行を停止しているという。
 そこへようやく家人からメールが到着した。
 銀座線、大江戸線が復旧し、家人が帰宅できたのは夜中近くだった。

 ※最後まで行方がわからなかった飼い猫はここにはいないだろう、と思っていた棚の上に目を真っ黒にして隠れていた。

2011年3月11日金曜日

Evernote vs Emacs+howm+org+Dropbox

 Evernoteはすばらしい。
 よくできたシステムだと思う。
 ありとあらゆる情報を放りこみ、クラウド経由でパソコン、スマートフォンでその情報を共有できる――すばらしい。検索機能も充実していてまさに夢のようなソフトウェアだ。Evernote以前は複数台のパソコンでの情報の同期とその散逸に頭をいつも悩ませていた。
 とにかくひとつのフォルダ配下にファイルに放りこんで複数台のパソコン間はsyncコマンドで同期する――というようなことをやっていた。当時はスマートフォンもなかったのでそれで充分に思えたのだが。問題はひとつのフォルダの下にどんどんファイルを入れていくと情報を探し出すことが困難になっていくことだ。ファイル名にいくら情報を付与してもそれは焼け石に水。
 もちろんその解決策としては検索機能の充実なのだが、それは昔からあるgrepコマンドを使用していた。テキストファイルしか検索できないとか、文字コード系の混在に弱いとか、いろいろ問題はあれど、これはこれでなかなか強力な手段だった(Googleデスクトップという選択肢もあったが、Emacsからシームレスに作業できなかった)。

 そうして辿りついたのがEmacs+howm+org+Dropboxという選択肢だった。
 howmにファイルの管理と検索機能をまかせ、個別のファイルの情報の整理、統合――アウトライン、タグ、リンク(howmのリンク機能およびメニュー機能は使用していない)、todoなどはorg、Dropboxはsyncのかわりで複数のパソコン間でファイルの同期を行なってくれている。
 スマートフォン上での入力、参照、検索機能をのぞけば、Evernoteの機能と同等のことをやっていたわけだ。テキストファイルに関してだけだが。
 単体のEvernoteにはorgのagenda機能はないのでその分、高機能ともいえるかもしれない。
 ちなみにhowmはgrepを使用することができるけれど、ぼくはhowmの検索を使用している。elispで書かれているため、速度的にはgrepに劣るが、文字コード系の混在――ファイルごとに文字コードがちがう、という状況――に対応できるからだ。

 実はそれらのシステムをEvernoteに移行してしまうことも考えた。
 Evernoteの(ぼくにとっての)最大の魅力はiPhone上で入力できる、ということと、写真、音声、pdf、htmlファイルをあつかえるということだ。
 もちろん、htmlに関してはEmacsでもw3mとかを導入すれば、可能だということもわかっているのだが――ブラウザからの直接の取り込みができないということもあって、いまいち乗り気になれなかった。Evernoteはそれができる。Evernote以前はFirefox+ScrapBook+Dropboxを使っていたが、やはり写真(htmlの中の画像ではなく)などが使用できるEvernoteの魅力には抗し難い。
 しかし、今のところ、Emacs+howm側はまだ、Evernoteへ移行していない。

 なぜか。

 せんじつめていえば、個人的理由になる。
 テキストに関してはEmacsに束縛されてしまった。そういう身体になってしまった、というのが一番、大きい。キーバインドがEmacs以外ではとてもストレスを感じてしまうのだ。SKKでのかな漢字変換になれてしまうと、もうあとにはもどれない。これはたぶん、もう不治の病なのだろう……。

 しかし、あえて理由を探せば、Evernoteはテキスト入力が貧弱だということもあるかもしれない。
 テキストの表現としてはhtmlに準ずる形になっているのでEmacs(というか、org)よりも上かもしれないが、アウトライン機能がないのはけっこう致命的だ。Evernoteはノート上ではなく、ノートの集合でアウトラインを実現しているようなものなのだが――しかし、入力しながら考えをまとめる、という作業には適していない。それともそれもしょせん、慣れなんだろうか。
 ただ、これは別にEvernoteで実装すべき機能ではなく、todo管理などと同じように周辺ソフトで行なえば、いいことなのかもしれない。

 というわけでしばらくはテキストはEmacs側、それ以外はEvernoteという選択になりそうだ。Evernote for iPhoneで入力されたテキストはEvernoteのエクスポートファイルから一気にhowmに取りこむelispプログラムも書いてあることだし。

 余談。
 Evernote for Windowsにはインポートフォルダの指定がある。これをhowmフォルダに指定してやれば、Emacsで入力されたデータがEvernoteへ自動的に取り込まれることになるのだが、修正すると、別ノートとしてEvernoteへ取り込まれてしまう。それだとテキストの修正はEvernote上でやらなければ、ならなくなってしまう。修正した内容はインポートフォルダへ同期されないようだし。まぁ、インポートフォルダなんだから当然といえば、当然だけど。

2011年3月5日土曜日

本多猪四郎監督「ゴジラ」



 子どもの頃――たぶん小学生の夏休みに怪獣映画のテレビ放送をよくやっていて「ガメラ対ギャオス」など何度も観たりしていたのだけれど、「ゴジラ」は一度,観ただけだった。しかも途中からで、たぶん、芹沢博士が開発したオキシジェン・デストロイヤーを使用するべきか、どうかでもめているあたりからだった。それでも熱中して観て最後の水中のシーンはかなりもの悲しい気持ちになったのよく覚えている。
 どこをどう解釈していたのか、わからないのだが、なぜか、ゴジラは芹沢博士が生み出したのもので――大きな水槽にさまざまな魚が泳いでいたので、その中で生み出されたと勘違いしていたようだ――、その後始末のためにオキシジェン・デストロイヤーを造ったのだ、と思っていた。しかもゴジラはどこかの湖にいる、とまで考えていたのだ。水槽から逃げ出したゴジラが湖で暴れていた、というわけ。
 子どもの想像力はおそろしい。
 たぶん似たような内容のモンスター映画でも観ていたのだろう。それなりに整合性もとれているし。全然、勘違いだったけれど。

 不思議なもので勘違いしているということに、今回、「ゴジラ」を視聴するまで気づいてなかった。いや、「ゴジラ」は水爆が生み出した怪獣だという知識もあったし、東京で暴れるシーンは何度か、テレビで「ゴジラ」を語るとき、流されるので知っていたはずなのだが――それが自分の記憶とリンクしてなかった。まぁ、よく覚えていなかったということもあるが。たぶん、知識と記憶が頭の中で別々のフレームワーク上にでも格納されていたのだろう。
 ※最近、こういうことはぼくだけに限ったことではない、ということを「え!?絵が下手なのに漫画家に?」で知った。

 で、「ゴジラ」だ。
 正直に言おう。傑作である。
 観る前は斜に構えていたのだが――どうせ世紀の傑作とかいわれていても所詮、日本映画と――、驚嘆してしまった。たしかに俳優の演技がへただとか(さすがに志村喬はすばらしいが)、ガイカーカンウターを船縁から海に向けてゴジラを探すのはおいおい、という感じではあったけれど。
 時代が生んだ徒花のような、奇跡的な傑作なのかもしれない。
 とくに戦争の記憶が消えつつあった公開当時はその記憶が亡霊のように甦るような恐怖感があったのではないか――。

 そして、はじめてきちんと「ゴジラ」を観てはじめてわかったのだけれど、「ガメラ 大怪獣空中決戦」はまちがいなく、「ゴジラ」のフォーマットを参照、取りこんでいる。元々、「ガメラ 大怪獣空中決戦」はガメラシリーズの様々な換骨奪胎が行なわれているけれど――オマージュと呼んでもいいのかもしれないが――、まさか「ゴジラ」までとは思わなかった。
 冒頭の夜の海のシーン。船舶への謎の出来事。怪獣の伝説。嵐の夜に起きる暴威。海の中から出現する怪獣。破壊される電車……すべてが終わり、最後に登場人物のつぶやきすらどこか似ているではないか。もちろん平成ガメラでは役割がガメラとギャオスに分担させられているが。

 それにしても「ゴジラ」はすばらしい。
 戦争経験がないにもかかわらず、息を飲むようなシーンがいくつもあり、戦慄させられた……。その鮮かさだけでもぼくには充分、傑作だ。

2011年3月2日水曜日

それは四角ではない

 それが小学生のときだったのか、中学生のときだったのか、よく覚えていないのだが、教師のところに質問に行った。数学の質問で、四角形の内角の和について、だった。
 ある四角形の内角の和が360度にならないような気がしたのだ。
 どんな四角形からというと、鏃のように一角が内側に凹んだ図形だ。ぼくは教師に説明した。どういう風に説明したのか、まったく覚えていないのだが、最終的には、内角の和が360度にならないでしょう? どうしてなんでしょう? と答えを求めた。どこか、勘違いしていたはずなのだが、それが知りたくて教師に質問しに行ったわけなのだが――。
 そのとき、教師はこう答えたのだった。

 ――これは四角形じゃない、と。

 なんという目から鱗。
 なんてことはなく、当時のぼくですら唖然とした。
 今さら口をきわめて罵っているところだ。それ以前に質問に行かないだろうが。

 ちなみに当時のぼくはおそらく「内角」の場所をまちがっていたのだろう、と思う。

2011年3月1日火曜日

Instapaper->ePub->iBook

PDF表示


 きっかけはRead Laterだった。
 ブラウザでInstapaperをのぞいてみたところ、右にDOWNLOADという項目があることに気づいた。「Printable」「Kindle」「ePub」とある。これはePub形式で溜めこんだ記事をePub形式で出力してくれる、ということではないか?
 さっそくダウンロードしてみた。
 ところがBookmanというiPhoneのソフトはePubに対応していなかった上、Stanzaではうまく表示されない。うーむ。calibreでpdfへ変換したが、送りこんでみたが、いまいちの表示だし。
 やはりePubを直接、見れないかな、としかたなく、iBook for iPhoneをインストールした。

 おっといいじゃん!

 特に気にいったのは読みやすいフォントサイズで一行が画面に収まることだ(フォントサイズを大きくしても画面に収まるように折り曲げをやってくれる)。htmlやPDFだとわざわざ画面をスクロールさせない、といけなかった。そのせいでiPhoneであまり文書を読もうという気になれなかったのだが。
 これならOKじゃん。
 気に入った。

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2011年2月28日月曜日

ジェイムズ D.スタイン「不可能、不確定、不完全―「できない」を証明する数学の力」

不可能、不確定、不完全―「できない」を証明する数学の力

 内容とはあまり関係がないのだが、この本を読んでひとつの確信を得た。まちがっているかもしれないし、ただ、勘違いをしているだけなのかもしれないが。
 それは重力はどのくらいの速さで伝わるのだろう、という疑問への答えだ。
 光は光速で伝わる。
 ゆえに人間が知ることができるのは光が届く範囲内のことだ――。
 その程度の知識はあるのだが――これすらぼくの勘違いである可能性はあるが――、重力がどのくらいの速度で伝わるのか、読んだ記憶がない。もしかしたらググれば、どこかに情報はあるのかもしれないが……。
 たとえば、超新星の光が地球に届いた瞬間に、人間は超新星の存在を知ることになる――が、その超新星の引力の影響は受けるのはいつからなんだろう……。見えた瞬間か、それとも超新星が誕生した瞬間から影響を受けているのか。
 そんなことを考えていると、夜も眠れない。
 ところが「不可能、不確定、不完全―「できない」を証明する数学の力」の中に次のようなことが書かれてあった。
 アインシュタインの理論は、質量がゼロでない粒子が光速で移動するためには無限大のエネルギーが要ることを示していた。
 また、こうもある。
このことは、光の光速で移動することを防げない。なぜなら、光の粒子である光子には質量がない。そもそも静止質量からしてないのだから。
 ということは、だ。
 光子でなくても質量ゼロの粒子は光速で移動できるということではないか――。
 これはつまり重力がまだ、発見されていない粒子――グラビトンで伝わるのならすくなくとも光速を超えることはないが、質量がゼロであるなら光速で重力は伝わる。

 この解釈が正しいかどうかは知らないが、おかげでこれから夜が眠れなくなることはなさそうだ。

2011年2月17日木曜日

小松左京監督「さよらなジュピター」

さよならジュピター

 ウィンドサーフィンをはじめたのはもう三十年近い前で――ウィンドサーフィンの専門誌「ハイ・ウィンド」が創刊された頃だった。熱中と倦怠をくりかえしながらも延々とウィンドサーフィンをやってきたけれど――今は倦怠期――、その間の道具の変遷には驚くほどだ。
 道具を使うスポーツならどれでもそうなのかもしれないが、道具の進歩がパフォーマンスのレベルを簡単に向上させてしまう。そうなると、かつて先鋭的だと思えたデザインがものすごくダサいものに見えてくるのだから不思議だ。


 先年、津波が日本に押し寄せてきたとき、YouTubeにハワイの様子という感じで動画がアップされた。
 それを見たとき、ぼくは即座に違和感を覚えた――ほんとうに今の映像なのか、これ、と。なぜか? 中に映っていたウィンドサーフィンの道具が信じられないぐらい古いものだったのだ。今、この時代にこの道具はありえねえ……。
 Twitterではハワイがこんな状態に!という発言が飛び交っていたのを尻目に、YouTubeの他の動画を検索してみたらまったく同じ動画があらわれた。昔の津波の動画をだれかが再アップしたものらしい。どういう意図があったのか、わからないけれど。


 それはどうでもいいのだけれど、映画「さよならジュピター」を見たときには純粋にこまってしまった。
 「さよならジュピター」は知る人ぞ知るSF映画で、木星を開発している集団があり、それに反対する自然を守れ、というセクタとの争いをしているところにブラックホールがやってきて……という未来を舞台にした宇宙SF映画だった。その中で主人公が自然派の御大のところをたずねるシーンがある。
 たぶん沖縄で撮影したものだったと思うのだけれど、美しい海が広がる中、一艇のウィンドサーフィンがゆっくりと画面を帆走していった――。
 それを見たときはぼくは目を大きく見開き、心の中で叫んでいたのだ。

 ――古っ! 未来なのに古っ!

 ウィンドサーフィンの道具が当時としてもすでに古い一世代前のものでダサかった。

2011年2月15日火曜日

ホームシュレッダー

シュレッダーハサミ

 別にそんなに気にすることはないのかもしれないのだが、いろんな郵便物は裁断するようにしている。まぁ、株式の取引報告書とか、送られてくるわけだし、わざわざ自分の住所が入っている情報をそのままにして捨てることもないだろう……。
 というわけでシュレッダー用のハサミ――五つのハサミを重ねたようなハサミで裁断していたのだけれど、これが実に面倒臭い。個人用のシュレッダーなんて必要ないと購入したのはよいのだけれど。
 これは商品が悪いというわけではなく、むしろ最初のうちは感動すらしていたのだが――人間はどんなことにでも馴れるもので面倒になってしまったのだ。郵便物をいろいろとためこんでしまうという悪癖もあるし、プラス、ハサミでは裁断した破片があたりに注意していたとしてもどうしても散ってしまう。
 とくに最近は競馬用の印刷を使い古しの裏紙にしていたので、その処分もある。
 安いシュレッダーないかな、と調べてみたところ、あっさり見つかった。
 5000円台。電動式。
 安物じゃないか、という不安感を押し殺してポチッとな。注文した。
 その翌日に荷物が届いたのも驚いたが、使ってみてあまりの楽さに驚いた。今までの苦労はなんだったんだ……。ダイレクトメールも片っ端から放りこめるし、それ以外の書類はとりあえず、送られてきた書類はスキャナに取りこんで裁断。
 快感だ。
コクヨS&T デスクサイドシュレッダー <RELISH> スノーホワイト KPS-X80W

2011年2月11日金曜日

永井豪「激マン!」

永井豪「激マン!」(1)

永井豪「激マン!」(2)

自分が生きた証拠にこの世に自分のマンガ作品をたとえ一作でも描き残すと!

 その決意は死を実感したときから――自分は死ぬかもしれない、と考えたときからはじまったのだ、という。それにたいして不思議な気分になるのはだれもでも人生で一度は『死』というものを実感するものだろう……なのに、多くの凡夫はただ何事もなく、生きていくだけなのに、永井豪は永井豪になった。
 今まで死をすぐそばに感じたことは何度か、あるが、この世に自分の生きた痕跡を残したいと思ったことは一度もない。死んだら無に帰るだけだろう、という想いの方が強いのだ。そのあたりが凡夫である証拠なのかもしれないが。
 はじめて『死』を感じたのは小学四年のときだったと記憶している。
 そのとき、ぼくは習字塾で席が空くのを順番待ちしていた。
 ふと、何の気まぐれか、死を想像しようとした。
 死とはどんな状態なんだろう、と。
 五感とひとつひとつ、消していき、何も感じない暗闇の中に浮かんでいる自分というものにたどりつき、そこからさらに思考すらないのだ、と進んだ。この想像する自分すら存在しないのだ、と。そこまで限界だった。恐怖に目が見開いた。
 わーっ、と叫び出したい気分。
 あたりの人間の肩を叩きまくり、こわかったよーっ、とまくしたてた。まわりの人間はきょとんとしていたが。

2011年2月10日木曜日

ニック・レーン「生命の跳躍――進化の10大発明」

生命の跳躍――進化の10大発明

 訳文がいまいちのなのか、原文がそうなのか、それともこちらにリテラシーがないだけなのか――所々、意味の把握できない文があったのだけれど、ひさびさに興奮させられた一冊だった。やはり科学はおもしろい、と。
 とくに真核細胞の核膜についての知見には驚嘆してしまった。
 核――DNAが核膜によってほかから隔離されているのはDNAを守るためだとばかりずっと思っていた。生命の設計図たる遺伝子が壊れないように保護しているのだ、と。それが実はそうでない可能性があるという――詳しい内容については本書を参照して欲しいのだけれど、思わず唖然となってしまった。
 自分の知っていることがすでに古いものになっているのだ……。
 ポパーではないが、科学は永遠に自己更新を繰り返すシステムなのだな、と。科学と同じように世界を語る言葉であるはずの宗教が容易に原理主義や教条主義に陥るのに反して。
 まるで進化をくりかえす生命のようではないか。

2011年1月16日日曜日

伊藤計劃「ハーモニー」

伊藤計劃「ハーモニー」
 「自由」は失効してしまったのではないか、と思っていた。
 システムへの反逆。あるいは日常からの脱出。物語の中でモチベーションとして成立していたはずの感覚。たとえば、大藪春彦の小説などにみられる主人公が状況を喰い破っていく感覚。主人公が最後には街をでていく。あるいはすべての破壊を予感させて終了する物語――村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」のように。
 ヒッピームーブメント、学生運動にも通底するそのような感覚はもはや時代的にリアルティを喪失してしまったのではないか、と思っていた。もう状況は「自由」などではなく、「サバイバル」ではないか、と――。そう考えたひとつのきっかけには「エヴァンゲリン」の碇シンジがある。あのキャラクター造型は戦いを放棄していたからだ。逃亡を試みるが、失敗し、戻ってきたところで戦いを指向するわけではない――物語の構造にはマッチしてなかったが、奇妙なリアリティを保持していた、あの存在。あの微妙な齟齬感は「自由」の物語構造に、現代的な「自由」が死んでしまった時代のキャラクターを乗せてしまったためではないのか。
 奇妙なことに「ハーモニー」の中では「自由」への希求がまだ生きのびているようにも思えた。少女たちの中にかろうじて。
 個人的には「ハーモニー」は既視感がきわめて強かった。最初の方は京極夏彦「ルー=ガルー ― 忌避すべき狼」と通底する雰囲気を漂わせているし、「涼宮ハルヒの憂鬱」から引用もあり、背景のアイデアは諸星大二郎の「蒼い群れ」を進化発展させたものに思えるし、ストーリーのターニングポイントは「デビルマン」を思い出させる。もちろん作者は病院が抑圧装置として働くことは承知のことだろう。ミッシェル・フーコーの名前がでてきている以上。
 そして、ラストは映画版「エヴァンゲリオン」のラストの裏返したものともいえる。もちろん「意識」を救う道はまったくなかったわけではなかったはずだ。たとえば、小松左京の「果てしなき流れの果てに」と同じように作者は上位階梯を措定することもできたはずだ。
 しかし、作者はそれを選択しなかった。
 作者が選択しなかったという仮定はぼくの思い入れでしかないが、そうしなかったがゆえに「ハーモニー」の絶望は深い。
 そして、ぼくは思うわけだ。どうして「エヴァンゲリオン」では「ハーモニー」側を選択しなかった、あるいはできなかったのだろうか、と――。

2011年1月1日土曜日