2011年3月11日金曜日

Evernote vs Emacs+howm+org+Dropbox

 Evernoteはすばらしい。
 よくできたシステムだと思う。
 ありとあらゆる情報を放りこみ、クラウド経由でパソコン、スマートフォンでその情報を共有できる――すばらしい。検索機能も充実していてまさに夢のようなソフトウェアだ。Evernote以前は複数台のパソコンでの情報の同期とその散逸に頭をいつも悩ませていた。
 とにかくひとつのフォルダ配下にファイルに放りこんで複数台のパソコン間はsyncコマンドで同期する――というようなことをやっていた。当時はスマートフォンもなかったのでそれで充分に思えたのだが。問題はひとつのフォルダの下にどんどんファイルを入れていくと情報を探し出すことが困難になっていくことだ。ファイル名にいくら情報を付与してもそれは焼け石に水。
 もちろんその解決策としては検索機能の充実なのだが、それは昔からあるgrepコマンドを使用していた。テキストファイルしか検索できないとか、文字コード系の混在に弱いとか、いろいろ問題はあれど、これはこれでなかなか強力な手段だった(Googleデスクトップという選択肢もあったが、Emacsからシームレスに作業できなかった)。

 そうして辿りついたのがEmacs+howm+org+Dropboxという選択肢だった。
 howmにファイルの管理と検索機能をまかせ、個別のファイルの情報の整理、統合――アウトライン、タグ、リンク(howmのリンク機能およびメニュー機能は使用していない)、todoなどはorg、Dropboxはsyncのかわりで複数のパソコン間でファイルの同期を行なってくれている。
 スマートフォン上での入力、参照、検索機能をのぞけば、Evernoteの機能と同等のことをやっていたわけだ。テキストファイルに関してだけだが。
 単体のEvernoteにはorgのagenda機能はないのでその分、高機能ともいえるかもしれない。
 ちなみにhowmはgrepを使用することができるけれど、ぼくはhowmの検索を使用している。elispで書かれているため、速度的にはgrepに劣るが、文字コード系の混在――ファイルごとに文字コードがちがう、という状況――に対応できるからだ。

 実はそれらのシステムをEvernoteに移行してしまうことも考えた。
 Evernoteの(ぼくにとっての)最大の魅力はiPhone上で入力できる、ということと、写真、音声、pdf、htmlファイルをあつかえるということだ。
 もちろん、htmlに関してはEmacsでもw3mとかを導入すれば、可能だということもわかっているのだが――ブラウザからの直接の取り込みができないということもあって、いまいち乗り気になれなかった。Evernoteはそれができる。Evernote以前はFirefox+ScrapBook+Dropboxを使っていたが、やはり写真(htmlの中の画像ではなく)などが使用できるEvernoteの魅力には抗し難い。
 しかし、今のところ、Emacs+howm側はまだ、Evernoteへ移行していない。

 なぜか。

 せんじつめていえば、個人的理由になる。
 テキストに関してはEmacsに束縛されてしまった。そういう身体になってしまった、というのが一番、大きい。キーバインドがEmacs以外ではとてもストレスを感じてしまうのだ。SKKでのかな漢字変換になれてしまうと、もうあとにはもどれない。これはたぶん、もう不治の病なのだろう……。

 しかし、あえて理由を探せば、Evernoteはテキスト入力が貧弱だということもあるかもしれない。
 テキストの表現としてはhtmlに準ずる形になっているのでEmacs(というか、org)よりも上かもしれないが、アウトライン機能がないのはけっこう致命的だ。Evernoteはノート上ではなく、ノートの集合でアウトラインを実現しているようなものなのだが――しかし、入力しながら考えをまとめる、という作業には適していない。それともそれもしょせん、慣れなんだろうか。
 ただ、これは別にEvernoteで実装すべき機能ではなく、todo管理などと同じように周辺ソフトで行なえば、いいことなのかもしれない。

 というわけでしばらくはテキストはEmacs側、それ以外はEvernoteという選択になりそうだ。Evernote for iPhoneで入力されたテキストはEvernoteのエクスポートファイルから一気にhowmに取りこむelispプログラムも書いてあることだし。

 余談。
 Evernote for Windowsにはインポートフォルダの指定がある。これをhowmフォルダに指定してやれば、Emacsで入力されたデータがEvernoteへ自動的に取り込まれることになるのだが、修正すると、別ノートとしてEvernoteへ取り込まれてしまう。それだとテキストの修正はEvernote上でやらなければ、ならなくなってしまう。修正した内容はインポートフォルダへ同期されないようだし。まぁ、インポートフォルダなんだから当然といえば、当然だけど。

2011年3月5日土曜日

本多猪四郎監督「ゴジラ」



 子どもの頃――たぶん小学生の夏休みに怪獣映画のテレビ放送をよくやっていて「ガメラ対ギャオス」など何度も観たりしていたのだけれど、「ゴジラ」は一度,観ただけだった。しかも途中からで、たぶん、芹沢博士が開発したオキシジェン・デストロイヤーを使用するべきか、どうかでもめているあたりからだった。それでも熱中して観て最後の水中のシーンはかなりもの悲しい気持ちになったのよく覚えている。
 どこをどう解釈していたのか、わからないのだが、なぜか、ゴジラは芹沢博士が生み出したのもので――大きな水槽にさまざまな魚が泳いでいたので、その中で生み出されたと勘違いしていたようだ――、その後始末のためにオキシジェン・デストロイヤーを造ったのだ、と思っていた。しかもゴジラはどこかの湖にいる、とまで考えていたのだ。水槽から逃げ出したゴジラが湖で暴れていた、というわけ。
 子どもの想像力はおそろしい。
 たぶん似たような内容のモンスター映画でも観ていたのだろう。それなりに整合性もとれているし。全然、勘違いだったけれど。

 不思議なもので勘違いしているということに、今回、「ゴジラ」を視聴するまで気づいてなかった。いや、「ゴジラ」は水爆が生み出した怪獣だという知識もあったし、東京で暴れるシーンは何度か、テレビで「ゴジラ」を語るとき、流されるので知っていたはずなのだが――それが自分の記憶とリンクしてなかった。まぁ、よく覚えていなかったということもあるが。たぶん、知識と記憶が頭の中で別々のフレームワーク上にでも格納されていたのだろう。
 ※最近、こういうことはぼくだけに限ったことではない、ということを「え!?絵が下手なのに漫画家に?」で知った。

 で、「ゴジラ」だ。
 正直に言おう。傑作である。
 観る前は斜に構えていたのだが――どうせ世紀の傑作とかいわれていても所詮、日本映画と――、驚嘆してしまった。たしかに俳優の演技がへただとか(さすがに志村喬はすばらしいが)、ガイカーカンウターを船縁から海に向けてゴジラを探すのはおいおい、という感じではあったけれど。
 時代が生んだ徒花のような、奇跡的な傑作なのかもしれない。
 とくに戦争の記憶が消えつつあった公開当時はその記憶が亡霊のように甦るような恐怖感があったのではないか――。

 そして、はじめてきちんと「ゴジラ」を観てはじめてわかったのだけれど、「ガメラ 大怪獣空中決戦」はまちがいなく、「ゴジラ」のフォーマットを参照、取りこんでいる。元々、「ガメラ 大怪獣空中決戦」はガメラシリーズの様々な換骨奪胎が行なわれているけれど――オマージュと呼んでもいいのかもしれないが――、まさか「ゴジラ」までとは思わなかった。
 冒頭の夜の海のシーン。船舶への謎の出来事。怪獣の伝説。嵐の夜に起きる暴威。海の中から出現する怪獣。破壊される電車……すべてが終わり、最後に登場人物のつぶやきすらどこか似ているではないか。もちろん平成ガメラでは役割がガメラとギャオスに分担させられているが。

 それにしても「ゴジラ」はすばらしい。
 戦争経験がないにもかかわらず、息を飲むようなシーンがいくつもあり、戦慄させられた……。その鮮かさだけでもぼくには充分、傑作だ。

2011年3月2日水曜日

それは四角ではない

 それが小学生のときだったのか、中学生のときだったのか、よく覚えていないのだが、教師のところに質問に行った。数学の質問で、四角形の内角の和について、だった。
 ある四角形の内角の和が360度にならないような気がしたのだ。
 どんな四角形からというと、鏃のように一角が内側に凹んだ図形だ。ぼくは教師に説明した。どういう風に説明したのか、まったく覚えていないのだが、最終的には、内角の和が360度にならないでしょう? どうしてなんでしょう? と答えを求めた。どこか、勘違いしていたはずなのだが、それが知りたくて教師に質問しに行ったわけなのだが――。
 そのとき、教師はこう答えたのだった。

 ――これは四角形じゃない、と。

 なんという目から鱗。
 なんてことはなく、当時のぼくですら唖然とした。
 今さら口をきわめて罵っているところだ。それ以前に質問に行かないだろうが。

 ちなみに当時のぼくはおそらく「内角」の場所をまちがっていたのだろう、と思う。

2011年3月1日火曜日

Instapaper->ePub->iBook

PDF表示


 きっかけはRead Laterだった。
 ブラウザでInstapaperをのぞいてみたところ、右にDOWNLOADという項目があることに気づいた。「Printable」「Kindle」「ePub」とある。これはePub形式で溜めこんだ記事をePub形式で出力してくれる、ということではないか?
 さっそくダウンロードしてみた。
 ところがBookmanというiPhoneのソフトはePubに対応していなかった上、Stanzaではうまく表示されない。うーむ。calibreでpdfへ変換したが、送りこんでみたが、いまいちの表示だし。
 やはりePubを直接、見れないかな、としかたなく、iBook for iPhoneをインストールした。

 おっといいじゃん!

 特に気にいったのは読みやすいフォントサイズで一行が画面に収まることだ(フォントサイズを大きくしても画面に収まるように折り曲げをやってくれる)。htmlやPDFだとわざわざ画面をスクロールさせない、といけなかった。そのせいでiPhoneであまり文書を読もうという気になれなかったのだが。
 これならOKじゃん。
 気に入った。

ePub表示

2011年2月28日月曜日

ジェイムズ D.スタイン「不可能、不確定、不完全―「できない」を証明する数学の力」

不可能、不確定、不完全―「できない」を証明する数学の力

 内容とはあまり関係がないのだが、この本を読んでひとつの確信を得た。まちがっているかもしれないし、ただ、勘違いをしているだけなのかもしれないが。
 それは重力はどのくらいの速さで伝わるのだろう、という疑問への答えだ。
 光は光速で伝わる。
 ゆえに人間が知ることができるのは光が届く範囲内のことだ――。
 その程度の知識はあるのだが――これすらぼくの勘違いである可能性はあるが――、重力がどのくらいの速度で伝わるのか、読んだ記憶がない。もしかしたらググれば、どこかに情報はあるのかもしれないが……。
 たとえば、超新星の光が地球に届いた瞬間に、人間は超新星の存在を知ることになる――が、その超新星の引力の影響は受けるのはいつからなんだろう……。見えた瞬間か、それとも超新星が誕生した瞬間から影響を受けているのか。
 そんなことを考えていると、夜も眠れない。
 ところが「不可能、不確定、不完全―「できない」を証明する数学の力」の中に次のようなことが書かれてあった。
 アインシュタインの理論は、質量がゼロでない粒子が光速で移動するためには無限大のエネルギーが要ることを示していた。
 また、こうもある。
このことは、光の光速で移動することを防げない。なぜなら、光の粒子である光子には質量がない。そもそも静止質量からしてないのだから。
 ということは、だ。
 光子でなくても質量ゼロの粒子は光速で移動できるということではないか――。
 これはつまり重力がまだ、発見されていない粒子――グラビトンで伝わるのならすくなくとも光速を超えることはないが、質量がゼロであるなら光速で重力は伝わる。

 この解釈が正しいかどうかは知らないが、おかげでこれから夜が眠れなくなることはなさそうだ。

2011年2月17日木曜日

小松左京監督「さよらなジュピター」

さよならジュピター

 ウィンドサーフィンをはじめたのはもう三十年近い前で――ウィンドサーフィンの専門誌「ハイ・ウィンド」が創刊された頃だった。熱中と倦怠をくりかえしながらも延々とウィンドサーフィンをやってきたけれど――今は倦怠期――、その間の道具の変遷には驚くほどだ。
 道具を使うスポーツならどれでもそうなのかもしれないが、道具の進歩がパフォーマンスのレベルを簡単に向上させてしまう。そうなると、かつて先鋭的だと思えたデザインがものすごくダサいものに見えてくるのだから不思議だ。


 先年、津波が日本に押し寄せてきたとき、YouTubeにハワイの様子という感じで動画がアップされた。
 それを見たとき、ぼくは即座に違和感を覚えた――ほんとうに今の映像なのか、これ、と。なぜか? 中に映っていたウィンドサーフィンの道具が信じられないぐらい古いものだったのだ。今、この時代にこの道具はありえねえ……。
 Twitterではハワイがこんな状態に!という発言が飛び交っていたのを尻目に、YouTubeの他の動画を検索してみたらまったく同じ動画があらわれた。昔の津波の動画をだれかが再アップしたものらしい。どういう意図があったのか、わからないけれど。


 それはどうでもいいのだけれど、映画「さよならジュピター」を見たときには純粋にこまってしまった。
 「さよならジュピター」は知る人ぞ知るSF映画で、木星を開発している集団があり、それに反対する自然を守れ、というセクタとの争いをしているところにブラックホールがやってきて……という未来を舞台にした宇宙SF映画だった。その中で主人公が自然派の御大のところをたずねるシーンがある。
 たぶん沖縄で撮影したものだったと思うのだけれど、美しい海が広がる中、一艇のウィンドサーフィンがゆっくりと画面を帆走していった――。
 それを見たときはぼくは目を大きく見開き、心の中で叫んでいたのだ。

 ――古っ! 未来なのに古っ!

 ウィンドサーフィンの道具が当時としてもすでに古い一世代前のものでダサかった。

2011年2月15日火曜日

ホームシュレッダー

シュレッダーハサミ

 別にそんなに気にすることはないのかもしれないのだが、いろんな郵便物は裁断するようにしている。まぁ、株式の取引報告書とか、送られてくるわけだし、わざわざ自分の住所が入っている情報をそのままにして捨てることもないだろう……。
 というわけでシュレッダー用のハサミ――五つのハサミを重ねたようなハサミで裁断していたのだけれど、これが実に面倒臭い。個人用のシュレッダーなんて必要ないと購入したのはよいのだけれど。
 これは商品が悪いというわけではなく、むしろ最初のうちは感動すらしていたのだが――人間はどんなことにでも馴れるもので面倒になってしまったのだ。郵便物をいろいろとためこんでしまうという悪癖もあるし、プラス、ハサミでは裁断した破片があたりに注意していたとしてもどうしても散ってしまう。
 とくに最近は競馬用の印刷を使い古しの裏紙にしていたので、その処分もある。
 安いシュレッダーないかな、と調べてみたところ、あっさり見つかった。
 5000円台。電動式。
 安物じゃないか、という不安感を押し殺してポチッとな。注文した。
 その翌日に荷物が届いたのも驚いたが、使ってみてあまりの楽さに驚いた。今までの苦労はなんだったんだ……。ダイレクトメールも片っ端から放りこめるし、それ以外の書類はとりあえず、送られてきた書類はスキャナに取りこんで裁断。
 快感だ。
コクヨS&T デスクサイドシュレッダー <RELISH> スノーホワイト KPS-X80W

2011年2月11日金曜日

永井豪「激マン!」

永井豪「激マン!」(1)

永井豪「激マン!」(2)

自分が生きた証拠にこの世に自分のマンガ作品をたとえ一作でも描き残すと!

 その決意は死を実感したときから――自分は死ぬかもしれない、と考えたときからはじまったのだ、という。それにたいして不思議な気分になるのはだれもでも人生で一度は『死』というものを実感するものだろう……なのに、多くの凡夫はただ何事もなく、生きていくだけなのに、永井豪は永井豪になった。
 今まで死をすぐそばに感じたことは何度か、あるが、この世に自分の生きた痕跡を残したいと思ったことは一度もない。死んだら無に帰るだけだろう、という想いの方が強いのだ。そのあたりが凡夫である証拠なのかもしれないが。
 はじめて『死』を感じたのは小学四年のときだったと記憶している。
 そのとき、ぼくは習字塾で席が空くのを順番待ちしていた。
 ふと、何の気まぐれか、死を想像しようとした。
 死とはどんな状態なんだろう、と。
 五感とひとつひとつ、消していき、何も感じない暗闇の中に浮かんでいる自分というものにたどりつき、そこからさらに思考すらないのだ、と進んだ。この想像する自分すら存在しないのだ、と。そこまで限界だった。恐怖に目が見開いた。
 わーっ、と叫び出したい気分。
 あたりの人間の肩を叩きまくり、こわかったよーっ、とまくしたてた。まわりの人間はきょとんとしていたが。

2011年2月10日木曜日

ニック・レーン「生命の跳躍――進化の10大発明」

生命の跳躍――進化の10大発明

 訳文がいまいちのなのか、原文がそうなのか、それともこちらにリテラシーがないだけなのか――所々、意味の把握できない文があったのだけれど、ひさびさに興奮させられた一冊だった。やはり科学はおもしろい、と。
 とくに真核細胞の核膜についての知見には驚嘆してしまった。
 核――DNAが核膜によってほかから隔離されているのはDNAを守るためだとばかりずっと思っていた。生命の設計図たる遺伝子が壊れないように保護しているのだ、と。それが実はそうでない可能性があるという――詳しい内容については本書を参照して欲しいのだけれど、思わず唖然となってしまった。
 自分の知っていることがすでに古いものになっているのだ……。
 ポパーではないが、科学は永遠に自己更新を繰り返すシステムなのだな、と。科学と同じように世界を語る言葉であるはずの宗教が容易に原理主義や教条主義に陥るのに反して。
 まるで進化をくりかえす生命のようではないか。

2011年1月16日日曜日

伊藤計劃「ハーモニー」

伊藤計劃「ハーモニー」
 「自由」は失効してしまったのではないか、と思っていた。
 システムへの反逆。あるいは日常からの脱出。物語の中でモチベーションとして成立していたはずの感覚。たとえば、大藪春彦の小説などにみられる主人公が状況を喰い破っていく感覚。主人公が最後には街をでていく。あるいはすべての破壊を予感させて終了する物語――村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」のように。
 ヒッピームーブメント、学生運動にも通底するそのような感覚はもはや時代的にリアルティを喪失してしまったのではないか、と思っていた。もう状況は「自由」などではなく、「サバイバル」ではないか、と――。そう考えたひとつのきっかけには「エヴァンゲリン」の碇シンジがある。あのキャラクター造型は戦いを放棄していたからだ。逃亡を試みるが、失敗し、戻ってきたところで戦いを指向するわけではない――物語の構造にはマッチしてなかったが、奇妙なリアリティを保持していた、あの存在。あの微妙な齟齬感は「自由」の物語構造に、現代的な「自由」が死んでしまった時代のキャラクターを乗せてしまったためではないのか。
 奇妙なことに「ハーモニー」の中では「自由」への希求がまだ生きのびているようにも思えた。少女たちの中にかろうじて。
 個人的には「ハーモニー」は既視感がきわめて強かった。最初の方は京極夏彦「ルー=ガルー ― 忌避すべき狼」と通底する雰囲気を漂わせているし、「涼宮ハルヒの憂鬱」から引用もあり、背景のアイデアは諸星大二郎の「蒼い群れ」を進化発展させたものに思えるし、ストーリーのターニングポイントは「デビルマン」を思い出させる。もちろん作者は病院が抑圧装置として働くことは承知のことだろう。ミッシェル・フーコーの名前がでてきている以上。
 そして、ラストは映画版「エヴァンゲリオン」のラストの裏返したものともいえる。もちろん「意識」を救う道はまったくなかったわけではなかったはずだ。たとえば、小松左京の「果てしなき流れの果てに」と同じように作者は上位階梯を措定することもできたはずだ。
 しかし、作者はそれを選択しなかった。
 作者が選択しなかったという仮定はぼくの思い入れでしかないが、そうしなかったがゆえに「ハーモニー」の絶望は深い。
 そして、ぼくは思うわけだ。どうして「エヴァンゲリオン」では「ハーモニー」側を選択しなかった、あるいはできなかったのだろうか、と――。

2011年1月1日土曜日

2010年12月29日水曜日

馬券の回収率についてなど

 競馬のテラ銭は通常なら25%、単勝式なら20%と聞いていた。
 これは単純に馬券を買いつづければ、回収率がその割合に収束するということでもある。これはどんなギャンブルでもそうだろう。勝つための方式が存在しないかぎり。
 パチンコなどのテラ銭はその店の心積もり次第だろうが、競馬では法律でその割合が定められている。それが25%であり、20%だという。競馬法のわけのわからない文章を眠くなりながら読んでみて25%という数字はどこにもなかった。ついでにいうなら単勝式および複勝式にたいする特別な還付という項目もぼくは見つけ出すことができなかった。結局、直接的な25%という数字はなく、ちょっと複雑な数式を読み解いてみると、だいたい、25%ということになるらしい。ぼくがざっくり計算してみたら73.8%ぐらいだった。
 眩暈がするような数値だ。
 こんな不利なギャンブルを毎週、やっているか、と思うと吐き気すら覚える。
 ちなみに競馬法には次のような項目もある。

競馬法
第10条 払戻金を交付する場合において、前3条の規定によつて算出した金額に1円未満の端数があるときは、その端数は、これを切り捨てる。
2 前項の端数切捨によつて生じた金額は、日本中央競馬会の収入とする。

 いわゆる端数効果である。
 当たり前だが、これは確実に回収率を下げる役割を果すことになる。これってどのくらいなのだろう……。これ次第で毎年の回収率はかわるはずだ。
 単勝について調べてみた。

 全レースの全通り全頭の勝ち馬のオッズの総計 ÷ 出頭総数

 これで単勝の回収率がでるはずだ。これはいわゆるテラ銭の率に収束するはずなのだから――その差が端数分ということになる。JRAが嘘をついていなければ。
 次がその結果。


年出頭総数オッズ総計回収率
20014711634276.60.72749
20024867135926.90.73816
20034744235552.00.74938
20044730932783.30.69296
20054770234514.60.72355
20064874935580.20.72987
20074854735829.40.73804
20084990936466.30.73066
20094952935107.10.70882
20104960035027.20.70619


 ええっ、てなもんである。
 去年、今年は回収率はだいたい70%。これはテラ銭が30%ということを意味している。なんだ、これは。おれが競馬を再開したからか? それにしても端数効果5%とは……。どんだけ馬券購入者の財布からぶんとっているんだよ……。

 そして、この結果を見ると、単勝式のテラ銭は20%というのは都市伝説かなにかだったらしい。

2010年12月23日木曜日

かつて住んでいた街

 大学生だったのはもう二十年以上も前のことだ。
 当時――卒業したばかりのころは四年間はずいぶんと長かったように感じていたけれど、今にしてみれば、五十年近く生きてしまうと、一瞬だったような気がする。ほとんど思い出すこともない。
 それがふと、その街のことを思い出したのは知り合いの名前を思い出したからだった。あのころ、友だちとよく行っていたスナックはどうなっているのだろうか……。Googleのストリートビューでそこをたずねてみた。ところがマップで見ても当時、住んでいた場所もわからない。
 もちろんストリートビューに映しだされる光景は当時とは全然、ちがう。
 記憶とも一致しない。
 ストリートビュー上でうろうろとさまよい、行ったり来たりしているうちにかつて自分が住んでいたアパートの場所を見つけた。たしか、このあたり――先に見つけていた友人が住んでいたあたりはすっかりかわってしまい、アパート自体が消えてしまっていたのだが、ぼくが一年だけ住んでいたアパートはまだ、存在していた。当時ですら築二十年という古いアパートだったのだが。
 それから二十年以上、たっているにもかかわらず、同じ古いたたずまいをストリートビューに見せていた。
 驚き、唖然とし、ほんのすこしだけおぞましい気がした。

2010年12月6日月曜日

SSD換装2

シー・エフ・デー販売 WJ3シリーズ2.5インチSATA接続SSD DRAM搭載(DDR2-128MB) JM612コントローラー Trimコマンド&NCQ 対応CSSD-SM128WJ3

 かつてはパドック第一主義だった。
 パドックを見ずして馬券を買うなかれ。それを主義としていた。それなのに鞍替えしたのは一にも二にも勝てなかったからだ。瞬間的には天才じゃないか、と思うことはあってもトータルだと容赦なく負けつづけていた。
 年間での回収率はいいときで約83%という体たらくだった。
 馬券を買うのを止めては復活してあいかわらず負けていた。
 パドックへ行くのを完全に止めたのはちょっとした思いつきからだった――もしかしたら予想ソフトをつくったら浮くのはではないか、と。馬券をはじめたころ、スーパーパドックのスピード指数である買い方で浮くと思い、百万をぶちこんですべてすってしまったことがある。しかし、それは毎回、一万ずつだったため、試行回数がすくなかったためではないか……。
 一年、つづけてみれば、浮いたのでは?
 当時はまだ、自分には馬を見る目があると信じていたころだったのでロジックを捨てるの躊躇はなかった。しかし、今、手元にスーパーパドックはなく、自分でスピード指数を計算するしかない。
 いろいろと試行錯誤をくりかえし、プログラムを作成した。
 それを一年、試してみようと、今まさに試みているところなのだが、問題がひとつあった。
 計算に時間がかかるのである。
 ファンがわんわん、唸り、パソコンは一生懸命、計算してくれているのだが。
 それがすこしでも速くなるのではないか、と思いついたのが、パソコンのSSD換装である。ノートブックの方ですでにSSD換装していたのだが、デスクトップでもやれば、多少なりとも計算時間が短縮できるのではないか――。
 なぜなら頻繁にディスクアクセスを繰り返していることは自明のように思えたからだ。もっとも計算をがんがんやっている部分もかなり重く、そこがボトルネックになっているようにも思えた。
 換装のやり方は前回で承知している。
 あとはいろいろと物を載せているデスクトップの本体を引っ張り出して蓋を開いてみるだけである。苦労するだろうなぁ。中は埃だらけなんだろうなぁ、と懸念しつつ、作業してみて――一日かかると思っていたのに、一時間ほどで済んでしまった。これには自分でも驚いた。DELLのパソコンだったのだが、マニュアルがネット上にあり、しかもネジを外す必要もなく、ハードディスクを取り外すことができた。
 さっそくFireFoxを動かしてみてちょっと感動してしまった。軽いのである。今まで重くてじっと待つことも多かったのに。ハードディスクの容量は50Gほど、すくなくなってしまったが、これならOKだ。
 あとは競馬の予想である。
 そんなことで的中率が上昇するわけでないことはわかっている。
 プログラムを走らせてみてやはり、と思った。
 ほとんどかわらない。
 一生懸命、考えてくれているのだが、処理時間は体感としてはかわらない。

 ああ、やはりという気分だ。
 ただ、一点、いいこともあった。ファンがほとんど回らないのだ。かつてはうなりつづけていたのに。もっともおかげで計算が終わったかどうかがすぐにはわからなくなってしまったが。

2010年11月29日月曜日

森博嗣「喜嶋先生の静かな世界」

森博嗣「喜嶋先生の静かな世界」

 もしかしたらマイフェバリットな一冊ということになるのかもしれない。
 どうしてぼくはこんなに感銘を受けてしまったのだろう。そんな気分だ。はでなアクションやトリックがあるわけでもないし、殺人が起きるわけでもない。そもそもこれはミステリーではないだろう……。もちろんツイストはあるし、ぼくは逆に最後のツイストは不要だろう、とも思っている。あの一行がなければ、なぁ、と。おしい、と。
 もともと森博嗣の小説のファンというわけではなかった。「すべてはFになる」はさすがに読んでいたけれど、あれはまぁ、プログラマーにとってはまんまな「F」だったからなぁ。逆にまさかなぁ、と思いつつ、読み進めたものだった。今なら64ビットが一般的だから老衰ですな。
 それでもこの作品は深く感銘を受けた。
 どうしてだろう。
 何が起きるというわけではないのだけれど、読まされてしまった。本を置くことができなかった。淡々としているにもかかわらず、何かに満たされた気分を味わいつつ、読み進んだ。まさに憧れすら感じる日常だからだろうか。仙人の生活に憧れる俗人という感じ――言葉にすると、どこかちがうような気がするが。
 そして、主人公が自分は凄くないんだよ……、と独白するシーンなど、泣きそうになってしまった。

2010年11月13日土曜日

SSD換装

 Mac Air、欲しいなぁ。手持ちのThinkPad X60もそろそろ、へたってきたことだし。ディスクはいつも99%使用の状態だし。調べてみると、ThinkPadが我が家にきたのは2006年11月24日(金)のことだった。5年目かぁ。バッテリーも二代目だ。
 そんなこんだでつらつらあっちこっちのサイトを見ていたらMac AirはハードディスクのかわりにSSDを使用している、とのこと。それで気が迷ってしまった。気づいてしまったのだ。ThinkPadのハードディスクをSSDに換装すれば、いいじゃね? と。単純にコストを比較すると、圧倒的にSSD換装の方が低コストだ。手間はかかるが、Mac Airも購入したらいろいろと設定をしなければ、ならないから結局はいっしょだ。それに元々、動いているノートブックパソコンがあるのにあらたに新しいノートブックを買うというのも好きじゃない。なんか、無駄な気がするんだよねー。事実、無駄だし。
 で、Amazonで購入した。IDEインターフェースのSSD、64Gというしろもろを。これなら32Gパンパンの容量が楽になる、というもの。
 が、ところがである。
 なんとまぁ、ThinkPad X60のインターフェースはSATAであったのだよ。最初にちゃんと調べておけよ、という話だ。返品と再購入してようやくSATAインターフェースのSSD、64Gが届いたのは昨日のことだった。はー。
 換装のやり方についてはさすがに当たりはつけておいた。
 ThinkVantageでUSBハードディスク(うちにはお立ち台があるのだ)にリカバリー・メディアを作成してそこからバックアップを戻せば、よいだろう……。
シー・エフ・デー販売 WJ3シリーズ2.5インチSATA接続SSD DRAM搭載(DDR2-128MB) JM612コントローラー Trimコマンド&NCQ 対応CSSD-SM64WJ3

 できなかった。

 まず、リカバリーメディアがUSBハードディスクにつくれなかった。そして、バックアップもThinkVantageではUSBハードディスクにはつくれず、しかたなくWindowsのバックアップ機能でバックアップしたのだけれど、こいつがThinkVantageのレスキュー機能から認識されない。
 すっかりはまってしまった。
 Cygwinからddコマンドをつかって強引にHDDからSSDへコピーしようとしたが、果たせず。しかたねー、外付けのCD/DVDドライブを買うか、と思ったが、結局、ハードディスクをコピーできれば、いいはずなのでそういうソフトがないか、とググってみた。そうしたらあったのだよ、明智くん。「EASEUS Todo Backup」というのがそれだ。パンパンのハードディスクにインストールし、ハードディスクを丸ごとSSDへコピー。なんとあっさりSSD換装が終了してしまった。コピーには時間がかかってしまったけれど。64GのSSDのパーティションが32Gにぶった切られているのはこちらもググって「EASEUS Partition Master 6.5.1 Home Edition」というソフトで55Gに拡張した。
 64Gといいつつ、実際には64Gにはならないというのはまぁ、世の常だ。
 あと、ThinkVantageのアクティブプロテクションとDiskkeeperは無効にした。SSDはデフラグなんざ不要だからである。

2010年11月10日水曜日

ヨイチサウス

 最初はダメだと思っていた。
 2008年2月9日東京競馬メイン。白富士ステークスのパドックだ。このレースに去年から追いかけていた――意識していた馬がでていたのだ。ヨイチサウス。パドックの最初の方の周回ではどうもいまいちだった。気合乗りが足りない。いつもならもっと気合が入った歩き方をするのだが。
 今日は買えないかもしれないな。
 今までにも、そう思いながらの買い続けてきた馬だった。
 ほんとうに買えそうもない――というのも、今年になってから東京競馬の馬券の買い方を変えてしまったからだ。単勝オンリー。ヨイチサウスはオープンで勝つにはちょっと力不足と考えていた。1000万クラスを勝ち上がるとき、現場にいれなかったので馬券を買えなかったのが、つくづく残念だ。
 そこまでヨイチサウスに執着するのはぼくにとって確信の馬だったからだ。

 はじめてヨイチサウスの馬券を買ったのは去年の1月28日第10レースでのことだった。ちょうど一年前だ。
 その頃、年初からの馬券が絶不調で、パドックで見つける馬はことごとく外しまくっていた。その日もとことんダメだったのだが、第10レースのパドックで、一頭の馬に心魅かれた。それがヨイチサウスだった。確信。この馬はくる、と。一頭だけが抜けて見えた。
 オッズは単勝8000円の超穴馬。
 単複の馬券を買った。ほんとうにその一頭だけの馬券だった。
 レースはヨイチサウスの逃げではじまり、ゴール直前まで逃げ粘り――直線の坂では後続を突き離すほど――、最後の最後、坂を上り切ったあとの直線で一番人気の馬にかわされてしまった。
 それでも複勝1280円。
 得たのは金ではなかった。また、馬券を買っていくために必要な確信というやつだ。
 負け続けの馬券人生だが、それでも時折、くる、という確信を持つことができた馬がいる。ワイルドバッハ、ターフメビュース、リトルガリバー……。そういう馬とのほとんど偶然に等しい出会いがなければ、馬券を買い続けることなど、できなかった。
 そして、そういう一頭がヨイチサウスというわけだった。

 パドックに雪が舞いはじめた。
 白富士ステークスのパドックはヨイチサウス以外の馬でもほとんどよさそうな馬は見当らなかった。かろうじてぼくのアンテナにひっかかったのはメテオバーストぐらいだった。それでも普段なら疑問符のつく馬だった。
 藤沢厩舎ということで期待していたピサノパテックはかかりすぎていて買う対象にはなり得なかった。
 くりかえしくりかし目の前を通りすぎていく馬をひたすら見つ続ける。
 ふと気づく。
 ヨイチサウスの雰囲気がかわっていた。歩容に力強さがでてきた。そうやって全体を比較すると、ヨイチサウスが抜けているように思えた――買いだ。
 そして、トーホウアランも悪くないことに気づいた。
 パドックの周回が終わった。
 騎乗合図。
 ピサノパテックはその間、小さくその場で回されていた。その一瞬、落ち着いた歩容を見せた。ぎょっとなる。むちゃくちゃ、いい馬格だったのだ。さすが藤沢厩舎。油断も隙もあったもんじゃない。きっちりと仕上げてきていた。

 買い目はピサイノパテック、ヨイチサウス、トーホウアランの三頭の単勝。
 去年のヨイチサウスのことが頭をよぎる。やはりヨイチサウスの一着はむずかしいか――と。複勝なら獲れるかもしれないが、単勝は難しいか、と。
 前走、16着だったが(当然、その馬券も買っている)、あれは中山だった。ぼくの見立てではヨイチサウスは中山よりも東京の方が合っている。複勝圏は充分、ありうる。だが、単勝はなぁ。くるとしたらやはりピサノパテックか。
 レースは案の定、ヨイチサウスの逃げではじまった。
 下り坂になる向正面では五馬身ほど離したが、コーナーにはいるころには後続との差はなくなった。最終コーナー。ヨイチサウスが先頭。いい感じだ。手応えは充分、残っている。右後ろに続く二番手が気になるのか、やや苛立った感じが見えるが。直線。坂。ヨイチサウスは後続を突き離せない。
 後続の足色がいい。
 やはりだめか。
 レース実況も後ろの馬に焦点を合てている。カメラの映像もそちらにふられた。ピサノパテックが間を抜けてくる。カメラが先頭に戻ってきた。
 その先頭を走っている馬がヨイチサウスだとは思ってなかった。
 画面から消えている間に二番手に抜かれてしまったとばかり思っていた。
 ヨイチサウスだった。粘っている。抜かれそうで抜かれない。実況も驚いている。
 ピサノパテックが二番手集団の中にいた。
 そっちがきてくれても馬券は的中だ。
 しかし――。
「残せっ残せっ残せっ、江田っ」
 去年の悪夢が一瞬、頭をよぎる。坂を上り切った瞬間、どっと抜かれてしまうんじゃないか。坂を上り切った。二番手集団が固まってヨイチサウスに追いつく。
「江田、頼むっ」
 あっ、と思った瞬間が、ゴールだった。
 ぎりぎり、頭ひとつ、ヨイチサウスが先着していた。

 ヨイチサウス一着、単勝3970円。二着ピサノパテック。トーホウアランは五着だった。馬連3万7630円、馬単8万480円。
 獲ったのはヨイチサウスの単勝だけだったが――。

2010年11月4日木曜日

鳥居みゆき「ハッピーマンデー」



 鳥居みゆきの「結婚してました」宣言にはひっくり返ってしまった。
 元々、雑誌のR25だったと思うけれど、そこで鳥居みゆきが紹介されていてその日か、その翌日にテレビで観たのが、はじめてだった。ネタは「まさこ」――紙芝居ネタで、まだ、モノを動かしたり、前に戻ったりという演出がつけくわえられる前だった。実は――はっきりとしないのだが、一枚だけ絵が描かれているバージョンも観ている。
 それからすぐに「社交辞令でハイタッチ」がはじまり、それを視聴しているくらいだった。
 そのころはまだ、鳥居みゆきを甘く見ていた、といえるだろう。
 メディアから流れてくるのは「まさこ」だったからだ。

 ところがあるとき――日記によると、2008年4月25日のことだった。
 ふと思いつき、YouTubeにアップされている鳥居みゆきの映像を片っ端から観た。
 メディアにでているせいもあって「まさこ」が大部分だったけれど、中にライブのものがあり、そのいくつかのネタに――「こっくりさん」「妄想結婚式」にひっくり返った。
 ただ者じゃない。半分くらい天才かも、と。
 DVDがでるということは「社交辞令でハイタッチ」で既知だったので、さっそく「ハッピーマンデー」を購入する気になったのはそういうわけだった。YouTubeを観てなかったらおそらく見過ごしてしまっていたことだろう。
 そして、「ハッピーマンデー」を見終ったその日の夜に、鳥居みゆきの「結婚してました」宣言を知った。時間的にはちょうど、観ているまさにそのときに、発表していたらしい。「ハッピーマンデー」の宣伝ライブで。

 「結婚してました」宣言を知ったとき、まず思ったのは「まさこ」をやめるつもりだな、ということだった。YouTubeで観た様々なテレビの番組での映像や、「社交辞令でハイタッチ」などを観ていて感じていたのは「まさこ」をやりつづけるのはかなり辛いだろうな、ということだったし、まさにかなり辛くなってきているように思えた。
 「ハッピーマンデー」のバックボーンには「まさこ」がいる。
 「まさこ」が生まれるまでの物語として構成されているからだ。
 だから「まさこ」が鳥居みゆきから「ヒットエンドラーン」と産声を上げるシーンにはある種の感動がある。それはそれまでの鳥居みゆきをYouTubeで垣間見ていたせいもあるかもしれないが。
 だから「ハッピーマンデー」の構成をしたのはだれなのか、強く興味を覚えていて――最後に、流れるテロップで鳥居みゆきの名前を見たとき、確信したのだ。
 こいつ、天才だ、と。

 そして、「ハッピーマンデー」の中では「まさこ」の死まで描かれている。

 「結婚してました」宣言を知る前に「ハッピーマンデー」を観ることができたのは幸運なことだったかもしれない。聞いたあとでは印象がずいぶん変わっていたことだろう。
 中に収録されているネタ――完成度は高いと思う――は鳥居みゆきの才能や、作家性を示すものだが、「結婚してました」宣言は作家の限界を示すものかもしれない。まちがわないで欲しい。作家としての限界ではなく、作家というものの限界だ。ある意味、人間というものの限界かもしれない。
 人は生み出したものを制御できると幻想を持っている存在だ。
 「まさこ」は鳥居みゆきが生み出したものだが、その存在はすでに自走しはじめていた。だからこそ、鳥居みゆきは「まさこ」に食い潰されはじめていた自分を取り戻すために、「まさこ」の死を選んだのかもしれない。それとも、そのことについてすら鳥居みゆきは自覚的なんだろうか。

 なぜなら死んだ「まさこ」の履いていた靴には「鳥居みゆき」の名前が……。

2010年11月1日月曜日

びっくりした

いきなり10年ぐらいやっていたホームページが消えていた。infoseekのサービスが停止になっていたのである。まったく更新してなかったわけじゃないので、ちょいとふざけんな、という気分だ。いくら無料だったとはいえ。
これでWindSurfの記録はなくなってしまったのだなぁ(まる)

2010年9月25日土曜日

長沼毅「「地球外生命体の謎」を楽しむ本」

「地球外生命体の謎」を楽しむ本
 タイトルとは逆説的に、地球の生命体に関する本なのだけれど、非常に興味深くいろいろと考えさせられた。たとえば、深海に住む生物の話だ――熱水噴出孔にいるチューブワームの話など、太陽の光が届かないにもかかわらず、火山ガス(硫化水素)を吸収して代謝を維持しているのだ、という。
 実は人類なども、とても遠くから望遠鏡で見てみれば、そんな風に見えるのかもしれない。過去に蓄積された石油などのエネルギーを食って繁栄している生物。そうであるなら熱水噴出孔が絶えれば、チューブワームも死に絶えるように、石油が絶えれば、人もまた――。
 うーむ。