2012年3月17日土曜日

浦沢直樹「20世紀少年」(9):ラビット・ナボコフ


浦沢直樹「20世紀少年」(9)

 みんな。
 もしカジノでラビット・ナボコフをやっていたら即参加だ。
 むっちゃゲスト(子)に有利なルールじゃないか。
 親のカードを見て参加(ペレストロイカ)を決めることができて参加しないのなら「マトリョーシカ」といって見送れば、いい。しかも参加料はないようだ(マンガの中では)。
 いろいろルールはあるようだが、ペレストロイカするのは親がジョーカーを引いたときだけでいい。なぜなら子がハートの2を引けば、ラビット・ナボコフで100倍づけだ。単純に考えて52回に1回、ハートの2を引けるのだから100倍なら充分、期待値はプラスじゃないか。
 さあ、みんなでハウス(親)を殺しに行こう。

 ルール参考=>ラビット・ナボコフ

2012年2月18日土曜日

メラニー・ミッチェル 「ガイドツアー 複雑系の世界: サンタフェ研究所講義ノートから」


 鼻血がでるほど――でてないけど――おもしろかった。
 第17章の「スケーリングの謎」など、あまりのおもしろさに感動すら覚え、第9章の「遺伝的アルゴリズム」は、実際に自分で実装してみようか、と思ったほど。さすがに第13章のコピー・キャットは無理っぽいが。
 それにしてもダグラス・ホフスタッターの「ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環」かぁ。作者のメラニー・ミッチェルはそれを読んで学者に転身したらしいのだが、日本で出た邦訳の出版は1985年。実は手元に初版本がある。人を殴り殺せそうなぶ厚い本が。
 衝撃的な本だった。
 で、「複雑系の世界」の訳本は2011年。
 あれからもう26年も経つのか。両方の本にダグラス・ホフスタッターの写真が掲載されているのだが、なんとまぁ、老けたことよ。元気そうだけど。いやぁ、その時間が自分の上にも流れたことを考えると、なんともいい難い気分になる。

2012年2月7日火曜日

エリック・マコーマック「ミステリウム」


 実は去年読んだ小説の中でベストはエリック・マコーマックの「ミステリウム」だった。たかだが27冊の中からだが。何の予備知識なしに読んだのが、よかったのかもしれない。今まで読んできた小説の中でもけっこうな上位に属する。
 つい先日、軽く読み直し、傑作の感あらた。
 それだけではなく、最初のときには気づかなかった「もしかしたら」という解釈に気づき、愕然とする。そうだ。そうなのかもしれないじゃないか。というか、そうだろう、と。


 それにつづいて「パラダイス・モーテル」を読んだ。
 おもしろい。しかし、個人的には「ミステリウム」の方が数段、好きだ。
 それはたぶん、「ミステリウム」の方がミステリーの構造を持っているからかもしれない。構造があるからこそ、それが崩れたときの衝撃が大きい。「パラダイス・モーテル」はどちらかというと最初から構造を崩している。構造が組み上がらないうちに崩して回っているような感じとでもいえば、いいか。
 そのせいもあってか、最後がどうしても予定調和的に感じられてしまった。別にそれが悪いというわけではないのだけれど。

2012年1月22日日曜日

星新一「ちぐはぐな部品」


 記念すべき自炊電子書籍の読了本第一号。

 ほんとうにiPad2で本なんて読めるのか?
 不安になりつつ、300冊ほど自炊し、あらためて読もうとして失敗だったか、と思っていたところだった。なにしろ、iPad2の表面はてかてかで自分の顔が映りこんでしまう。それで思ったより読みづらい。たぶん、明るいところでの読書はきつい。
 Kindleの方がいいかも。
 でも部屋を薄暗くしてなんとか、いけたけど、ちょっと目に悪いかもしれない。

 Kindleはどうだか、知らないけれど、iPad2だとi文庫HD+SugerSync――今、Sugerと打って「すげ」とでて笑った――で、pdfファイルが取りこめる。こいつは便利だ。

 で、星新一「ちぐはぐな部品」。
 積読本の一冊なのでちと古い。
 改訂版ではきっとこのコンピュータの記述とか、書きかえられているんだろうなぁ、とか、思うけれど――実は最初の方を読んでいてあれれ、と思っていた。これってショートショートというよりコントじゃん……。
 って思っていたらですね。どんどん凄くなっていくわけですよ、作品が。「凍った時間」はNHKでテレビ化されていたから当然として「シャーロック・ホームズの内幕」なんて世界中のシャーロキアンが怒るんじゃないか、というほど、ブラックな話で、「神」など絶句、「災害」にいたっては筒井康隆の「おれに関する噂」まんまじゃないか。当然、星新一の方が先だろう。そして、「おれに関する噂」より「災害」の方が好みだわー。
 凄いわ、星新一。
 「おーい、でてこーい」とか世に流布されている傑作のイメージでいたら唖然とするほどブラックな数々。
 凄いわ、星新一。

電子書籍(自炊)



 自炊で電子書籍化しようと考えたのは去年の東日本大震災がきっかけだった。それまでは自炊のことは知っていたけれど、今いち興味がもてず、本を裁断する気にはなれなかった。
 それが地震でひっくり返った。
 文字通り地震で本棚がひっくり返り、もし部屋にいたら本を詰めたプラスチックケースが頭に直撃していたかもしれない、という状況を見て、やばいと思ったのだ。この次は死ぬかもしれん、と。

 それに積読本が文庫で500冊近くあり(もっとかもしれない)、その置き場にこまってダンボール箱に詰めて押し入れにいれていたのだが、そうすると、何を所有しているのか、すっかりわからなくなってしまった。
 パソコンの画面で一覧を見れれば、それもなくなるだろう。
 幸い手元には馬券購入のためのiPad2もある。
 お立ち台に接続した2TBのハードディスクもある。
 それでも先行投資する金をなかなか捻出できず――おもに気持ちの問題――、ようやく年末に一大決心してScanSnapと裁断機を購入した。今度、引っ越しするときにまた、大量の本を(しかも読んでない)運ぶのはもう嫌だ、と考えたのである。

 一ヶ月、毎日、しこしこと自炊してようやく文庫本300冊ほどを電子書籍化したのだけれど――ただ、スキャンするだけならもっと早いのだが、OCRもかけているので――、がっくりくるのは自分の買った本の情けなさ。なんだろうね。何を考えてこんな本を、というのもあるし、同じ本が二冊あったりするし、当時は読みたくてしかたがなかったのに今はもう、という本もけっこうある。
 まさに過去の自分の情けなさの現身。

2012年1月20日金曜日

ジャック・フットレル「思考機械」

思考機械 (1977年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)


 山田風太郎の「人間臨終図鑑」の中に、ジャック・フットレルの項があった。「13号独房の問題」で見事な脱出トリックをもちいて13号独房から抜け出したが、沈没するタイタニック号からは脱出できなかった……というようなことが。
 ああ、そういえば、読んでないな、「隅の老人」――。
 すっかりかんちがいしていた。
 「隅の老人」ではなく、「思考機械」だった。
 それでも読んで感心してしまった。おもしろかったのだ。もちろん、時代背景的に現代ではありえないトリック――「紅い糸」とか、あるけれど、どれもたくみで、読ませる。うまい。よくできた短編ミステリだった。
 しかもトリックのいくつかはクイズ形式のトリック本で見かけたものもある。
 「13号独房の問題」なんて昔、少年マガジン系の漫画雑誌の中の実録風の読み物の中でおめにかかった記憶がある。これが元ネタだったのか。
 それにしても「ルールを識り、論理さえ働かせればどんな相手にも勝てる――」なんてあきらかにシャーロック・ホームズを極大化したような探偵が成立したんだな、と思うと感慨深い。ゲーデルの不完全性定理が証明された現代ではこの手の探偵はむずかしい。

 「13号独房の問題」は1905年。
 ゲーデルの不完全性定理は1931年。

 ところで「思考機械」ことヴァン・ドゥーゼン博士ってなんとなく、ヴィトゲンシュタインを想像してしまうのはぼくだけだろうか。

2012年1月16日月曜日

星野之宣「セス・アイボリーの21日」


 ひさしぶりに星野之宣の「セス・アイボリーの21日」を再読して傑作の感をあらたにした。元々、星野之宣はアベレージの高い作家で、ほとんど外れはない――それどころか、時々、とんでもない傑作をモノにすることがある。もちろんぼくにとってだが。「遠い呼び声」を読んだときにはほんとうに絶句してしまった。
 「セス・アイボリーの21日」もまた。
 ぼくのマイ・フェイバリット・ベストテン(短編)で唯一、複数ランクインしている作家でもあるのだ。まだ十本、ないけど。
 ちなみその作品というのは――。

 星新一「古風な愛」
 西村寿行「刑事」
 山田風太郎「墓掘人」
 諸星大二郎「黒石島殺人事件」
 星野之宣「遠い呼び声」
 星野之宣「セス・アイボリーの21日」
 永井豪「真夜中の戦士」
 堀晃「熱の檻」

 となる。以上、順不同。

2012年1月12日木曜日

山田風太郎「人間臨終図巻」


 いつか読みたいと思っていた一冊――といってもぶ厚い本で、今回はなんと文庫本で四分冊。一冊一冊もかなり厚い。読み終えるのにけっこうな日数がかかってしまって気づくと、年を越えていた。
 最初のきっかけは四巻の解説を書いている筒井康隆が「奇想天外」という雑誌で連載していた書評で(タイトル失念)取り上げていて大絶賛していたことだった。元々、山田風太郎は好きだったし、読んでみたい、と。だれもが大絶賛しているし。
 それにしてもこの年齢で読むと、けっこう来るものがある。ちょっと体調を崩すと、これってもしかしたら、とか思ってしまって。アホな話だけど。
 この本を読むと、自分がどんなに恵まれた時代に生きているのか、と痛感する。すこし前までは人は簡単に結核や梅毒で死んでいるし、ちょっとしたことでも死んでいる。戦争もあったし、極貧というのもある。すくなくとも今の時代、細菌性の病気で死ぬのはまれになっているだろうし、事実、老年になれば、なるほど、戦後の人間が増えてきて――その死因は癌、心臓発作、脳溢血というのがポピュラーになる。
 不思議なのことだけど――この本では死亡年齢順に並べられていることもあって――やはり年齢によって死亡原因に偏りが感じられる。様々な時代の偉人、有名人を取り上げているからきっと統計的な有意性はないのだろうけど、中年あたりで多いのは癌のようだ。若死には結核。老年は心臓発作、脳溢血。
 よくテレビなんかで取り上げられる偉人でも今際のときなんてけっこう悲惨だったりして驚く。ジャクリーン・ケネディなんてオナシスの死後のその遺産をすべて相続したのだとばかり思っていた。たとえば、坂本九がどうして亡くなったか、覚えておいでだろうか。ぼくはすっかり忘れていた。
 ――凄い一冊、いや四冊だった。

2011年12月24日土曜日

ガブリエル・ウォーカー「スノーボール・アース: 生命大進化をもたらした全地球凍結」



 地球はかつて全面的に凍結していた!

 はじめてそんな話に出会ったのはたしかNHKのドキュメント番組でだった、と思う。過去に地球全体が氷結し、氷の世界になったことがあるという。聞いたこともなかったのでなんだこの話は? と思ったことをはっきりと覚えている。しかもそれは何度も起き、生命の爆発的な進化に関係していた……というような内容だったと思う。
 どうやら元ネタはガブリエル・ウォーカー「スノーボール・アース: 生命大進化をもたらした全地球凍結」だったらしい。

 実際にはまだ、全地球凍結と生命の進化との関連はあきらかにされていないようだけれど、全地球凍結ということは実際に起きていたようだ。うーむ。ちょっと星野之宣のマンガを思い出した。「巨人たちの伝説」ではなく、短編の方。

 つくづく思うのは科学というものはひとりの天才の手によってなるのではなく、何人もの知の積み重ねなのだな、ということ。

 それにしてもこの間、観たスコット・デリクソン監督「地球が静止する日」がどんなに傲慢な映画かが、よくわかる。あの中で地球は人類によって滅びようとしている、というような考えで、地球を救うために人類を滅ぼす、と異星人が行動するのだが、なんとまぁ。人類なんて地球がちょっと凍結してしまえば、簡単に滅んでしまうだろうし、人類がどんなにどたばたしたところで地球は我、関せず、プレートは移動していくだけなんだよなぁ。

2011年11月15日火曜日

ジョン・ラフリー「別名S・S・ヴァン・ダイン: ファイロ・ヴァンスを創造した男」


 笠井潔の「バイバイ、エンジェル」――ずっと実際に読むまでハードボイルド小説だと思っていたことは内緒だ――の中で、ファイロ・ヴァンスの名前があらわれたときはやたらとうれしかった。というのもクイーンは、クイーン問題もあって名前をよく聞くのに、その先行者たるヴァン・ダインの名前は忘れ去られているように思えたからだ。ぼくが中学生のとき、熱中した名探偵ファイロ・ヴァンスの名前はすっかり。
 12本の長編ミステリのうち、11本は読破した。
 「ベンスン殺人事件」から読み出し、「カナリヤ」「グリーン家」と読み進み、熱狂し、そして、「僧正殺人事件」――。「グレイシー・アレン殺人事件」で挫折するまで。最後の「ウィンター殺人事件」が創元文庫で出版される前にぼく自身の興味が本格ミステリから日本SFの方に興味をうつってしまったということもある。
 「ケンネル殺人事件」以降のヴァン・ダインはほとんど記憶に残っていなことが今回の伝記で判明して愕然とした。「カジノ殺人事件」などタイトルすら忘れていた。「競馬場殺人事件」が「ガーデン殺人事件」のことであることに気づくまでしばらく時間がかかった。もちろん前期の傑作群のこともはるか、記憶の彼方なのだが――。ストーリーはほとんど思い出せないのだが、なぜか、ファイロ・ヴァンスがセザンヌの絵を買おうと見ているシーンのことはくっきりと覚えていて、ぼくはすっかり古典的な絵を、と思っていたのだが、ヴァン・ダインの当時はセザンヌというのは古典ではなく、現代画だったのだ、ということをこの伝記で知った。当たり前といえば、当たり前なのだが。
 ウィラード・ハンティントン・ライト。1939年4月11日没。享年51歳。
 すでにぼくはその年齢に逹っしようとしている。

2011年10月13日木曜日

エラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」


 ショックだったのはエラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」がむちゃくちゃおもしろかったことだ。それ自体はいいことなのだが、問題はエラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」を読むのはこれで二度目だということだ。再読だったのだ。うわー、こんなにおもしろかったっけ?
 もっとも前回、読んだのはずいぶんと前、十代の頃――中学二年のときで、当時のぼくのは創元社文庫の目録片手に本格推理のジャンルを読みふけっていた。ヴァン・ダインの「ベンスン殺人事件」から手始めに、順番に。結局、中学生時代に百冊ほど、読んだ。その流れで「ローマ帽子の謎」も読んだわけだ。エラリー・クイーンはドルリー・レーンもの四冊をコンプリート。国名シリーズは「オランダ靴」ぐらいまで読んだはずだ。
 それ以降は大藪春彦、筒井康隆にはまり、田中光二、山田正紀に出会い、SF、冒険小説、ハードボイルド路線へ転換してしまった。夢枕漠のキマイラシリーズがはじまったころだ。
 こまったことにエラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」がこんなにおもしろかった記憶がない。つまらなかったわけじゃないのはまちがいないのだが、あまり感銘を受けなかったような気がする。中学の授業中に教科書で文庫本を隠して読んでいた記憶があるからそれなりにおもしろかったのだろうが。
 おかげで作品の内容については全然、記憶に残っていなくておかげでほとんど、はじめて読む状態だったのだが――その結果、あまりのおもしろさに読むのをやめることができなくなった。こんなにリーダビリティが高かったっけ、と思いながら読みつづけた。なんとなく本格推理小説というものはリーダビリティはなく、最後の探偵の推理で、急におもしろくなる、と思いこんでいた。なんでそう思いこんでいたのか、不明だが――何かに毒されていたのだろう。松本清張か?
 つまりだ。ぼくは当時、ちゃんとミステリが読めてなかったのではないだろうか……。まったくガキがいきがって本を読んだふりをしていただけだったのか。

2011年10月11日火曜日

ヨン・アイヴィデ リンドクヴィスト「MORSE モールス」


 ヨン・アイヴィデ リンドクヴィスト「MORSE モールス」を読んで確信したのはマット・リーヴス監督「モールス」は小説をベースにしたものというよりトーマス・アルフレッドソン監督「ぼくのエリ 200歳の少女」をリメイクしたものだ、ということだ。そして、小説の過剰性というものについて考えさせられた。
 マット・リーヴス監督「モールス」はどちらかというと、よくできた短編小説のような味わいだったが、もちろん「MORSE モールス」は長編小説だ。しかも上下二巻とかなり長い。そのせいか、「ぼくのエリ 200歳の少女」はデ・チューンしたような印象が強かった。プロット的にもバランスが悪く、唐突感もある――エリ(アビー)の部屋に侵入者がやってくるとき、ドアの鍵がなぜか、開いているのだ。あれ、と思うが、小説版はもちろん、その部分はそうなる状況をつくり、抜かりなく描写されているし、「モールス」では侵入者はドアを蹴破ってくる(そのため、侵入者が警官だという設定が効いている)。

 それにしても小説版はなんという過剰性だろう。
 もちろん、映画には時間制約があり、元々、長編小説の映画化ということに関しては不利であることはまちがいない。そうやって考えると、映画というのはよくできた短編、という趣きを持つものなのかもしれないが――そうすると、長めの短編小説というのは市場的には不利なのかもしれない。
 「モールス」「エリ」がうまいのは小説の半分のストーリーに焦点を当てているからだ。もう半分――ゾンビストーリーの部分はあっさりと捨てられている。そのため、ゾンビストーリーに属していたトンミと警官の部分は「エリ」では捨てられている(逆に「モールス」は警官の部分をヴァンパイヤストーリーの方に組みこみ、男女の恋愛部分をカットしている)。

 しかし、「エリ」のシーンのすばらしさもある。最後のプールのシーンだ。あれは小説版には状況はあるが、描写はほとんどなく、小説的なやり方で処理している。しかし、映画版(「モールス」も同じく)では水中のシーンからプールサイドで起きている惨殺を描写するという、まさに映画でしか、できないようなシーンを構成している。あのシーンだけでもまさに一見の価値あり、といえるほどだ。あのシーンはすばらしい。そして、たぶん個人的な趣味もあるが、「モールス」よりも「エリ」の処理のしかたの方が鮮かだ。もっとも「エリ」ではそのあと、エリ(アビー)の顔のアップを挿入しているが、そこの部分だけは「モールス」の処理の方がいい。あの瞬間、エリ(アビー)がどんな異形でいるか、観客は想像せざろう得ないからだ……。「エリ」でも顔のアップだけを採用することでそれを感じさせようとしているが、「モールス」よりもやや効果が落ちている。両足だけがすこしだけ映る「モールス」の方がそれを感じさせる。
 そういう意味でも「モールス」は「エリ」をベースにして不満だったところを監督が丹念に補強したもの、といえる。完成度を高めた。
 プールのシーンは小説ではまさに小説としての処理をしているというか、映画ではよくよく考えるとおかしい点を仕掛け(サスペンス)にしてしている。つまりエリ(アビー)は本当は体育館に入れないはずなのだ。まねかれていない以上。まねく人間もプールから追い出されている(小説ではかなりの人間が目撃者として残っている)。もちろん、水中のシーンの鮮かさがあり、それゆえにシーン的には入れていないだけ、という風に映画ではされているわけだが。

 バスルームのシーンもすばらしい。
 単純にあのシーンだけなら映画の方が小説のそれよりも印象的だ。「エリ」よりも「モールス」の方がよい。蛹を想起させるあのシーンを観て、おおっ、「ボディ・スナッチャー」と思ったほどだった。マット・リーヴス監督は意図的に「ボディ・スナッチャー」のイメージを取り込んだのではないか。
 そして、エリ(アビー)の被害をうけた女性が陽を浴びて死ぬシーンの意図が二本の映画と小説では微妙にちがう。「モールス」はシンプルにバスルームのシーンの伏線としている。「エリ」は原作のシーンの映像化にしかすぎないが、小説はストーリー的に必要だからだ。「モールス」がよくできた短編小説のようだ、というのはそういう部分だ。夾雑物を除き、バスルームのシーンのサスペンスを高めるための伏線としている。(病室のシーンとバスルームのシーンが同じような色調でつくられているのは意図的なものではないだろうか)

2011年9月20日火曜日

マット・リーヴス監督「モールス」


 まったく何の予備知識もなく、観たのがよかったのかもしれない。深い感銘を受けた。とくに原題の「LET ME IN」というのがいい。象徴的ですばらしい。
 結局、マット・リーヴス監督「モールス」はマイフェイバレットな一本になった映画なのだけれど――なにしろ、主演女優のクロエ・グレース・モレッツが気に入り、あわてて未見だった「キック・アス」を観たほどだ。いやぁ、ヒットガール、いいですねぇ――、時代設定がわずかに疑問だった。1980年代――なぜ? 観ているときはこれはラストにかかわるのではないか、と予想していたのだが、そうではなかった。
 非常によくできた映画で、それなのにわざわざ1980年代にした理由はなぜだろう。つらつら考えた末、おそらくルービックキューブのせいだ、と気がついた。作品の中でルービックキューブが重要な役割を果すし、それを使用するのなら流行した1980年代に設定するしかないだろうからだ。たぶん原作がそうなのだろう。
 そのあたりを確認したくて、原作はまだ未読だが、リメイク元になったトーマス・アルフレッドソン監督「ぼくのエリ 200歳の少女」を観た。
 細かいところはもちろんちがうのだが、ハリウッドのリメイクとは思えないほど、ほぼ元ネタに忠実にリメイクしていて驚いた。しかもできは個人的にだけど「モールス」の方が格段にいい。細かい修正――ストーリーを整理して、夾雑物を排除しているという印象がある。せつなさの純度を高めている、というか。
 途中からずっとこりゃあ、「ポーの一族」だ、と思っていたほどだ。

2011年9月9日金曜日

ルネ・クレマン監督「狼は天使の匂い」


 マイフェイバリットムービーのひとつ――だった。
 観たのは高校のとき。深夜放送のテレビでだった。感動し、以来、もう一度、観たいと思っていたのだけれど、なかなか、観る機会がなかった。何度か、ググってみたりして探したことはあるのだが、どこにもない。ビデオ化されていたが、売り切れ。レンタルビデオ屋でも見つけることはできなかった。
 DVD化もされてなかった。
 それが最近、ググったときにDVD化されていた。
 個人的には高額。あちらこちらのレンタルムービーをチェックしてみたが、レンタルされてなかった。しかたない。Amazonでポチッとな。

 もちろん不安はあった。
 なかなかDVD化されてなかったということは世間的な評価はそれほど高くないということだからだ。それでも村上龍や山田正紀がエッセイやあとがきで映画の名前を出していたりいる。そんなに外れではないはずだ。
 外れではなかった。
 しかし、何十年も美化された感動を納得させるほどではなかった。
 初見でなかったということも原因だろう。
 ラストのシーンは鮮烈に印象に残っているのでそこへストーリーが運ばれていくのはわかっていた。まったく覚えていないエピソードがいくつもあったが、多くのシーンは観ると、思い出した。
 高校のときは予備知識はまったくなかった。偶然、観た。そのときとはやはり、ちがった印象を受けてもしかたないだろう……。
 それともテレビ放映のときはざくざくとカットされていてそれが逆にストーリーを不明確にしてファンタジックな印象を与えていたのだろうか。
 もうマイフェイバリットではないのだろうか。

 しかし、今、こうして愚痴りながらも断片的なシーンを思い出しているうちに、しみじみと、やはり悪くないな……、と幸せな気分にひたっているのだが。

2011年9月6日火曜日

中原俊監督「12人の優しい日本人」


 まちがいなく、自信をもって人に勧めることができる映画だ。
 とてもおもしろい。
 にもかかわらず、途中で何度も見るのをやめようか、と思ったことか。
 12人の主要登場人物のだれにも感情移入ができず、肌がざらつくような感じがあったからだ。つまり不愉快だった。もちろん、話はおもしろいのだ。だから思わず、見つづけてしまったのだけれど。
 じゃ、それがこの映画の欠点かというと、そうではなく、感情移入できないような「優しい日本人」を配置したのは脚本の三谷幸喜の周到な計算だろう。あの配役は必要なことだった。
 この手の映画は最後の三分の一で次々に話がひっくり返っていくのが、快感なのだが、それを期待していたからこそ、最後まで見つづけることができた。そうでなかったらもしかしたら見るのをやめてしまったかもしれない。
 何しろぼくはネット配信でこの映画を見ていたのだから。
 映画館、あるいは劇場などのどこかの小屋で見ていたのなら多少、不愉快であっても、見つづけるのが辛く感じられても最後まで見るだろう。それは観劇するために、劇場の中に束縛されているからだ。
 ところが、ネット配信、あるいはテレビ放映だと、中断する敷居が低くなってしまう。そうやって考えると、次々にアクションが起きて観客の気持ちを引いていくハリウッド風のつくりはある意味、必然なのかもしれない。

2011年9月4日日曜日

荒木飛呂彦「荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論」

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論
 荒木飛呂彦が選ぶホラー映画 Best20 で「アイ・アム・レジェンド」第4位。
 正直、えーっ、と思ってしまった。ぼくの中ではあの映画はがっかりだよ映画のひとつだからだ。あれが4位? 解せん。ところが「アイ・アム・レジェンド」について書かれていることはいちいち、納得で――最終的には荒木飛呂彦自身も不満点を上げている。ネタばれなのでボカして書いているが、まさにその点でぼくはその映画にはがっかりしてしまったのだった。
 「ヒッチャー」がBest20 に入ってなかったのは不満だったけど、中で褒められていたのでこれはちょっとうれしかった。

 それにしても同年代ということもあって映画のセレクトがまさに覚えのあるものばかりで――「エクソシスト」「エイリアン」「スクリーム」とか、なんともいえない気分になる。ああ、やっぱり同世代なんだな、この人は、と。
 まぁ、大部分はタイトルだけで観てない映画ばかりなのだが――ホラー映画だけでこれだけの数なら映画全体ならどんだけ観てんねん、と思ったが――、どれも観てみたい、と思わされてしまった。
 そういや、スティーヴン・キングの「死の舞踏」を読んだときもそんな気にさせられてしまったのであった。