2010年4月2日金曜日

2010年4月1日(木):本栖湖ファンボードビーチ:雨

* Sail:CORE 5.3(NEIL PRYDE) Board:NG ACP 260

 まさか本栖湖で5.3を使うことになるとは思わなかった。

 天気予報では全国的に荒れ模様だという。予想天気図も春の嵐を予感されるものだった。それならわざわざ本栖湖へ行く必要はないのではないか、とさんざん、昨夜は迷ったものだった。湘南、あるいは検見川などのポイントで爆裂で乗れる可能性が高い。問題は2009年12月07日以来、ウィンドをやっていない上に運動すらしていないということだった。しかも失職中のため、通勤という負荷すら身体にかかっていない。
 それ以外にもふたつほど、理由があった。
 ひとつは中央高速まわりの本栖湖行きを試してみたかった。かつて神奈川に在住していたため、習慣的に東名高速側から山中湖へあがるルートを使っていたのだが、現住所からは中央高速も充分ありだと気づいたのだ。それを試してみたかった。
 もうひとつはiPhoneだ。
 iPhoneのGPS機能を使ったGPSロガーアプリがある。それでウィンドの航跡を記録してみたい、と以前から考えていたのだ。もちろん iPhone は防水仕様ではないので防水パックにいれる必要がある。それがどのくらい有効から確かめてみる必要があった。なにしろ本体価格が五万ちょっとする iPhone だ。水没させておしゃかにしたら泣くに泣けない。波のあるコンディションはまずありえない。そして、万が一、水が防水パックの中に染みてきてしまったときのことを考えると、淡水が好ましい――とすると、土地勘もある本栖湖以外の選択肢はない。

 大月インターを抜けて山梨入りすると、すでに雨が降っていた。
 しまったぁ。やはり失敗だぁ、と頭を抱えてしまった。
 何しろ、今日は平日で本栖湖にはだれもいないだろう。雨ならなおのこと――雨の中、陰鬱な本栖湖でひとり、ウィンドをするなんて気分が落ち込むこと、おびただしい。しかも今の時期の本栖湖の水は氷水だ。
 いっそ南下して海へ出ようか、とも思ったが、とりあえずと本栖湖まで行くことにした。SoftBankの電波が入るか、確認するという理由をつけて。
 驚いたことにウィンドサーファーが一組、いた。車からボードを下ろし、セッティングしているところだった。風は充分にあり――というか、ありすぎで湖面が真っ白だった。本栖湖の北端の海岸を通ったとき、波が打ち寄せていたので吹いているとは思っていたのだが。
 冬枯れした木々の寒々とした暗い光景の中、白い波だけがあざやかだった。
 SoftBankの電波ははいったのでだれも聞いてないだろうが、twitterで「本栖湖なう」とつぶやいてセイルにしばらく悩んだ。本来なら5.7だ。本栖湖はどんなに吹いて見えたところでブローがきついだけで大きめのセイルが鉄則だが、そんなレベルの風じゃなかった。鬼ブローである。
 まさか本栖湖で5.3を使うことになるとは――。


 セットしたiPhoneをドライスーツの内側にいれて湖へ向かった。
 心臓麻痺を起こすなよ、と祈りながら湖水に足を踏み入れる。あまりの冷さにぎゅっと足が縮こまるのが、わかる。鋭い石を踏んだらすぱっと切れてしまいそうだ。ビーチスタートした。即プレーニング。いつものように風が触れるエリアまで突っこんでジャイブ。セイル返しに失敗して沈――しかし、ちょっと嫌な感じ。もしかしたらジャイブができなくなってる? そんな感じ。
 ウォータースタートするまで冷水の中にいた。
 冷たいというより刺すように痛い。
 ビーチにとって返す。やはりジャイブができなくなっていた。腕力がなくてセイルを引きこめないということもあるが、根本的に何かまちがっているような気もする。それを冷静に検討することすら考えつけず、ウォーターしてアウトへふたたび。鬼ブローに遭遇した。
 裏風ぇ、裏風ぇ、とつぶやきながら風を逃がしながらぎりぎりと上る。というか、上らせる以外の手段なし。すとんと風がなくなり、沈。本栖湖のガスティぶりはあいかわらずだった。
 一度、ビーチに上がり、ダウンを引き増しする。
 身体に力がなくてダウンをしっかり引けてなかったのである。
 それでセイルが軽くなった。鬼ブローにはさすがに風を逃がす以外なかったが。
 問題はアウトで沖に突っこんだときだ。風が抜けてふらふらとしているところに鬼ブローが襲ってくる。何度かいいようにされて沈。
 何本か、乗って身体も冷え、エネルギーぃ、とつぶやいておにぎりを食ったのはいいが、次の一本で沈したときに吐きそうになった。
 結局、水の冷たさと容赦ないガスティブローぶりに早々に降参して湖からあがった。自分が気づいていないが、きっと肉体は疲れているはずだ、とつぶやきながら。
 道具を片付け、帰ろうか、と思ったとき、雨があがり、陽が差してきた。

※EveryTrailの航跡データは手違いで消してしまった……。

2010年3月22日月曜日

福田和代「ヴィズ・ゼロ」

ヴィズ・ゼロ

 いつか読みたいと思っていた一冊だった。
 元々、関西国際空港を舞台にしたテロものっておもしろいんじゃね? とずっと思っていたのだ。謎のテロ集団に占拠され、孤島と化した関西国際空港! 政府に突きつける12億の身代金! ――てな。映画にも小説にもなってないよなぁ、と思っていた矢先、「堀晃のSF HomePage」で福田和代の「ヴィズ・ゼロ」の存在を知った。まさにそのような作品らしい。
 読後、複雑な気分にさせられた。
 最後までおもしろかったのだが――読み終えたのだからもちろんそうだ――、ふと懸念を抱いてしまった。もしかしたら古き良き冒険小説はもう現代を舞台にしては成立しないのだろうか、と。古き良き冒険小説というのはたとえば、アリステア・マクリーンの「ナヴァロンの要塞」であり、「北極戦線」であり、デズモンド・バグリィの「高い砦」であり、ハンス・オットー=マイスナーの「アラスカ戦線」だ。第二次大戦に時代を設定すれば、可能かもしれないが、2000年以降の現代ではどうだろう、と。
 未読だけれども「プロメテウス・トラップ」のことを考えれば、作者の個性による偏差なのかもしれないのだが、「ヴィズ・ゼロ」は冒険小説的な道具だてのおもしろさよりも「ファントム」が際立っている――事実、ラストにあるように「ファントム」がかくれた主人公でもある。つまりハッカー小説のおもしろさ。

 「CORE」という映画を観たとき、確信したのだが、ハッカーは現代に蘇えった魔法使いである。勇者の物語の中で、魔法使いの役割といえる。勇者に機会をもたらすジョーカー。
 古き良き冒険小説――「大人の男のための男の物語」――は魔法使いのいない勇者の物語だ。世界には魔法などない、という苦い認識から出発した物語。だからこそ、肉体のみをたよりとする物語になる。しかし、日常の隅々までコンピュータネットワークが張り巡らされつつある現況ではフィクションの中で魔法使いとしてのハッカーが蘇えってきつつある。そのことが悪いということはまったくないのだが――そうであるなら、古き良き冒険小説――勇者のみの物語は成立しづらくなるのも当然なのかもしれない。

2010年3月8日月曜日

カール・R・ポパー「果てしなき探求 -知的自伝-」

果てしなき探求(上) -知的自伝ー
果てしなき探求〈下〉―知的自伝

 もちろんポパーを読んでみようと思ったのはナシーム・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質」の影響なのだが、「果てしなき探求」を読んでみてあらためてカール・R・ポパー「探求の論理」を読んでみよう、と思った次第だ。それほど魅力的な上下巻だった。ほかのポパーの書籍には触れたことがないのでもしかしたら、なのだが、「果てしなき探求」はポパーの思想的遍歴の入門書になっているのではないだろうか――そして、救いを得た。

 救いというのはたとえば、次のような言葉がある。転向。以前とちがうことをのべて「以前とはちがうことをいっているじゃないか」と非難される。たとえば、そのようなこと。その非難を予測してしまうと、口をつぐむしかない。自分が今、語っていることはもしかしたら無知からきているかもしれないからだ。自分が無知であることは自覚できても無知の内容は自覚できない以上、それをつねについてまわることだ。

 そして、過去をふりかえってみれば、自分の考え方がいろいろと変転をくりかえしてきていることがわかる。歳をとれば、なおのことそうだ。歳をとると過去の発言、自分が残した言葉が思考の足枷になっていることがわかる。そのことに気づくことは思った以上にすくないかもしれないが。人には現状維持バイアスがあるので過去の自分を肯定したい、という傾向がどうしてある。

 考えを変えることは悪いことだ――という無意識の圧力がある。意思を貫き通すということが肯定的にあつかわれる以上、それは否定的な圧力だ。たぶんこれは文化的なものだろう。そのように共同体から教育されてきたわけだから。

 ところが考え方は変わり得る。

 知識が追加されれば、見方が変わることは充分にあり得る。問題はそれを充分、批評的に検討した結果か、ということだ。人にはバイアスがある。意識することなく保身に走ることもよくある。別にポパーがそれらのことを肯定しているわけではないのだが、ポパーはいう。すべての理論は仮説である、と。どんなに実証されたとされる理論であっても仮説である、と考え、その反証可能性があることが科学の理論だ、という。それゆえに理論は永遠に真理の近似値でしかない。そして、科学の理論が発達するのはその反証可能性ゆえに理論が批評に晒されることによってだ、と。極端な話、実証は何の証拠にもならない、とすらポパーは考えているようだ。

 つまり自己肯定バイアスに身をまかせてポパーを拡張するならすべての考えは仮の考えでしかなく、あたらしい知識によってそれは否定され得る。また、そうでなければ、考えが前に進むことはないであろう。しかし、それは批判的に行なわれなけえばならない、と。

 いずれにしてもポパーの「探求の論理」をいつか読んでみたい。

2010年3月1日月曜日

BUFFALO Air Station NFINITI 11n/g/b USB用 無線子機 WLI-UC-GN


 iPhoneは無線LANに接続可能だ。
 その場合はあたりまえだが、softbankに回線使用料を支払う必要はない。自宅に無線LANがあるのならそこに接続してiPhoneからインターネットへでていける。そうしてクラウドコンピューティングの端末として使えることがiPhoneの魅力のひとつだろう。たとえば、パソコンの前でなくてもさっとiPhoneでアクセスできるのだ。ベットに寝転がってYouTubeを見るなんてこともできる。
 その手軽さを考えると、やはり無線LAN環境が自宅に欲しくなる。
 というわけで無線LANルーターを購入しようか、とも思っていたのだが、なにしろクライアントは今のところ、iPhoneだけだ。いくらなんでも無駄じゃね、という思いもあってルーターを買う気になれなかった。それなりの値段がすることでもあるし。
 そうやってヨドバシカメラをうろうろしていたところ、「BUFFALO Air Station NFINITI 11n/g/b USB用 無線子機 WLI-UC-GN」が目についた。なんとパソコンを親機にしてiPhoneを接続してインターネットへでていけるというのだ。おおっ、これぞ、求めていたものではないか。値段もルーターにくらべれば、安い。
 で、購入した。
 自宅に持ち帰り、取扱説明書を見て失敗したか、と思った。というのも何を書いているのか、さっぱりわからない書き方をしていたのだ。いったいどうやれば、ぼくのやりたいことができる、というのか。BUFFALOのサイトを見てみてもさっぱりわからない。ググってここのサイトのいうとおりにしてなんとか稼働させることができた現在でもこの説明書はひどすぎる、と思う。
 いずれにしても先行者がいてくれて助かった。感謝である。

2010年2月25日木曜日

iBearMoney



 お金を管理するために、ずっと貸借対照表――BSが出力できるものはないか、と探していた。個人のお金の管理なんてこづかい帳で充分だろう、という意見もあるかもしれない。しかし、それだと損益計算書――PLしか把握できない。定期的な収入があって財布の出し入れを管理するだけならたしかにそれで充分なのだが、現在、貯金を取り崩して生活している立場上、それだけでは不十分だろう。各銀行口座の状態を把握し、負債を管理するにはやはり、BSが必要だ。
 収入のない立場で負債――借金なんてもってのほかだ、と罵しられるかもしれないが、世の中にはローンとか、クレジットという形でどうしようもなく、発生する負債が存在する。それにBSで見ると、借金――負債が即それだけで問題とはいえないことがわかる。問題はそれをコントロールできないことなのだ。
 というわけで負債の管理をするためにBSは必須で、こづかい帳のようなPLだけでは力不足という結論に逹っする。

 実はHP200LXにはクイッケンというすぐれたソフトが同梱されていてそれがたぶん、理想に近いはずなのだが、以前、データの入力している途中でふっ飛んでしまったので使うのをあきらめてしまっていた。
 そうした中でiPhone上で動作するiBearMoneyを見つけたわけだ。
 最初は無料版で試していたのだが、ほぼ、望みは果せるようなので有償版に切りかえることにした。というのも無料版は機能制限版というよりも操作の邪魔をするようにできているため、非常に不愉快だったのだ――そのこと自体は勘弁ならん、と思っているのだが、日本語化された同等の機能を持つものが見当たらないので購入した。
 そして、iPhone上で動作するというところはかなりポイントが高い。
 というのも支出が発生した段階――スタバでコーヒーを飲んだ――そのタイミングでさっさとデータを入力してしまうことができるからだ。この、都度入力ができるというのがなんといっても助かる。レシートを見ながらその日の夜に入力なんて絶対、やらなくなってしまう。
 そういう意味でもiPhoneは携帯端末として便利だな、とも思う。

 ところで自分の手持ちのBSを管理したところ、やばい、という危機感がふつふつと沸いてきているところだ。
 やはりおれの人生に収入は必要だ。

2010年2月22日月曜日

デビッド・アレン「はじめてのGTD ストレスフリーの整理術」

はじめてのGTD ストレスフリーの整理術

 インターネットにはいろいろな情報があるもので。
 GTD(Get Thing Done)という手法がある、ということを知ったのもインターネットでだったが、なんとなくわかったつもりになっていたのもインターネットのせいだった。ところが提唱者の本を実際に読んでみたところ、思った以上にちがっていた。つまりぼくはGTDはtodoリストのちょっと進んだものと思っていたのだが、そうではなかったのだ。
 もしかしたらかんちがいしていたのは世の中でぼくだけかもしれないが、GTDのポイントはプロジェクトとか、next actionではなく、実は次の三つではないか。

・頭の中にある「気になること」をすべて外にだす。
・「気になること」を行動までブレイクダウンする。
・週次レビューを行なう。

 「気になること」をすべて、というのがとてもポイントが高いように思う。
 これはビジネス、プライベートの区別なく、すべて、という意味だ。何もかも、リストとして吐き出す。自分の全作業を把握するためでもある。そのため、週次レビューはかかせない。そうしないと、全作業が把握できなくなるからだ。
 そして、行動までブレイクダウンというのは――next action――、todoではなく、実際の行動を考えるということだ。たとえば、「求職活動」、というtodoリストではGTDではない。next actionとして「ハローワークへ行く」という風に行動までブレイクダウンしてこそ、GTDらしい。
 行動までブレイクダウンされていれば、たとえば、ネットで行なうことがビジネス、プライベートであったとき、パソコンの前でその行動リストをこなしていくだけで、いい。そうするためにも「気になること」はすべてなのだ。
 そうやって今までの自分のtodoリストを見返してみると、具体的な行動にブレイクダウンしていないせいで、いつまでも残留しているtodoの多いことよ。

2010年2月16日火曜日

iPhoneについてなど


 先月――1月末にauからsoftbankに乗りかえた。
 理由は簡単、iPhoneが欲しかったからだ。元々、iPhoneがアメリカで販売されたときから欲しいと思っていたのだが、残念ながら日本でのキャリアはsoftbankであきらめていた。別にNMPがあったのだからその必要はなかったのだけれど――踏ん切りがつかなかった。
 その踏ん切りをつけてくれたのが、twitterだった。まだ、twitterははじめたばかりではまっているというわけでもなかったのだが、おもしろそうな感じはうけていたので――iPhoneからtwitterをするのがいいという風評もあり、これはiPhoneにするしかないかな、と。御前崎へウィンドに行って「御前崎なう」とつぶやいてみたいなどと考えたわけだ

 で、iPhoneのキャンペーンをやっていたこともあり、softbankへ切り替えた。最後の最後まで金がないので躊躇していたことも事実だが。長いこと使用していたiPodの電池の保ちが悪くなっていることも背中を押してくれた。
 はっきりいって以前のauは携帯端末として所有していただけだった。
 どの機能もそれほど魅力を感じず、どのサービスを利用するにもユーザから金を絞りとるものとしか、見えなかった。今だに使い方もほとんど把握していないほどだ。マナーモード切り替えすら知らないし、着信音すらかえていない。
 それほど、いじる魅力がなかった――。
 ところがiPhoneである。
 タッチパネルがこれほど、快楽とは知らなかった。


 もちろんタッチパネルがすべてではない。
 携帯端末好きには工夫しだいで様々なことができるということはたまらなく魅力的だ。いじれる、工夫できる、というのは快楽なのだ。それが以前の携帯電話では何もできなかった。根本的には単なるコンピュータだというのにだ。それでマーケットを創出できると思っているところにメーカー側の傲慢さがある。
 たとえば、GPS機能だ。
 以前の携帯でもGPS機能はついていたが、ほとんど利用できなかった。今、いる場所を相手にメールで送信できますって? は? 何、それ、である。機能があるのにそれを利用する手段が御仕着せのものしかない。げんなりしたね。興味すらなくしたよ。
 iPhoneはGPSロガーとして使用することができる。もちろん、デフォルトの機能ではないが――デフォルトの機能のマップぐらいしかないが、それすら以前の携帯にはなかった――、ネットと連携したEveryTrailというようなアプリがある。それをダウンロードしてくれば、GPSロガーとして使用できる。
 そして、何がよいか――以前の携帯とちがうか、というと、たとえ、そのようなアプリがあったとしてもそれを御仕着せのものでしか、なく、こちら側に選択肢がなかった。iPhoneのアプリはいろいろとあるため、GPSロガーにしても何種類か、あるうちから選択することができる。
 ちなみにGPSロガーについてはウィンドの航跡を記録したいと思い、一度、GPSロガーを購入し、その直後に壊してしまった、という苦い思い出がある。今のところ、いろいろとアプリを見た感じだとEveryTrailがよさげだ。あとは海に行く機会と、iPhoneを身につけて海にでる勇気だけだ。


 iPhoneの魅力のひとつはネットとの接続を前提に考えられていることだろう。
 とくに素のiPhoneでもおそろしいことに、Googleのクラウド環境へSafariで接続できるのだ。これでたいがいのことはできてしまう。それだけでも充分なくらいで、それだけで携帯電話より使用価値はまちがいなく高い。しかもWi-Fi接続が可能なのだ。
 ちなみに昔、auの携帯のOperaからインターネット接続して天気図を見ていたのだが、画像データのドットを――おそらくデータ量を減らすために――抜かしていてなんのために天気図を見ているのか、わからなくてげんなりした。風向の矢印がどっち向きなのか、わからなかったりしたのだ。きわめて許し難かった。この件に関しては一生、auを恨みつづけるつもりだ。


 今のところ、iPhoneのアプリのお気に入りは次の二つ。いずれもまだ、無料版を使用中だが。

・iBearMoney
・Evernote

 Evernoteはほとんど携帯端末としてはキラーアプリケーションといえるのではないだろうか。

2010年2月2日火曜日

ナシーム・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質」

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

ブラック・スワン[下]―不確実性とリスクの本質


 まちがいなく衝撃的な一冊だ。
 「まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか」につづく、不確実性に関する話なのだが――自分の不明を恥じるしかないのだが、すっかりぼくは誤解していた。「まぐれ」のあとに読んだ「数学的にありえない」「たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する」「確率の科学史―「パスカルの賭け」から気象予報まで」といった不確実性の本と同じだと思っていたのだが、タレブはそれらにたいしても批判的だということに「ブラック・スワン」でようやく気づいた。
 タレブはギャンブルの不確実性を「遊びのあやまり」として切って捨てているのだ。そんなもの、確率がわかるじゃないか、と。それは最近、競馬をやっていて考えていたことシンクロしている部分があってので驚く。といってもこれはぼくの考えがシンクロニシティを起こしていた、というよりも因果を逆に考えているだけだ。
 たまたま、最近、ギャンブルについて考えていたことと、タレブの考えに一致している部分があった、というだけだ。ぼくが気づいていたからタレブの考えと一致したわけではない(つまりぼくの脳みそがタレブなみにいい、ということではない)。
 それはギャンブルは不確実か、ということだ。
 サイコロの次の目はけしてわからない――そのこと自体は不確実だし、それがギャンブルなのだが、それは飼いならすことができる。そして、飼いならしているのはカジノ側であるというだけだ。プレイヤーは不確実性に踊らされるが、カジノ(主催者)側は確率によってその不確実性を制御している(だからこそ、あんなに大儲けしている)。
 しかし、現実は――たとえば、株式市場は何が起きるか、わからない。その予測不能性、不確実性においてギャンブルなど、凌駕している。
 ということは――と考えたのがぼくの考えだ――株式市場に必勝法はないかもしないが、ギャンブル、競馬には必勝法があるのではないか、と――。まぁ、ぼくがたんに愚かなだけなのは承知しているが(競馬をはじめたのでバイアスがかかっているのは認める)、いずれにしても考え方はたぶん「遊びのあやまり」と同じだ。
 つまり、人生はギャンブルなんかよりもはるかに不確実に満ちている、ということなのだが、問題はぼくらはギャンブルほどにそのことに不確実性を感じることができない、ということだ。

ついろぐ(読んでたときのつぶやき)

2010年1月9日土曜日

中島梓「転移」

転移

 「アルコール依存症にもなったし」というくだりに軽くショックをうけた。
 スティーヴン・キングも「小説作法」を読むかぎりではコカイン中毒で、アルコール依存症だったらしいし、笠井潔「スキー的思考」で少しだけ描かれていた中井英夫もアルコール依存症だったように見える。
 どんなに才能があったとしてもそれだけ小説家という職業はきびしいということだろうか。中島梓――栗本薫のアルコール依存症が小説に関するストレスのためなのか、どうかは書かれていないが。
 それにしても中島梓がかぁ、という思いがある。
 彼女がまさに彗星のごとくあらわれたときことは覚えていて当時、高校生だったぼくはまぶしいものを見るような思いで見ていたものだった……「平凡パンチ」だったか、「週刊プレイボーイ」にインタビュー記事が載ったのだ。まだ、乱歩賞をとる前で中島梓としてのインタビューだった。ヤングサイダーメッセージというタイトルのシリージのひとつだったように記憶している。その中で飛ぶように駆けるように小説を書いていて、読むに耐える長編は二本とか、いっていた。そのうちの一本が乱歩賞を獲った「ぼくらの時代」だったのではないか……。
 乱歩賞受賞以前にもすでに「奇想天外」というSF専門誌で作家論をはじめていて――ぼくはそれを毎号、何度も読み返していた。それがあるとき、「ヒロイックファンタシィノート」という評論を載せたあと、あの「グイン・サーガ」が凄い勢いで出力されはじめたのだった。
 もうあれから30年以上が経っているのか。
 2009年5月26日、中島梓永眠。合掌。

2010年1月3日日曜日

星新一など

 NHKの星新一のショートショートで「無料の電話」という作品を見て愕然としてしまった。電話が無料なのはCMがはいるからなのだが、これはまさに「フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略」にあった戦略だし、会話の内容にあわせてCMがはいるあたりなどはGoogleの検索ワードにあわせてCMが表示されることを思わせる。まさに未来を予言していた内容といえるだろう(もちろん予言するつもりだったわけではないだろうが)。
 まさに星新一の凄さを再認識させられた一本だった。
 しかし。
 とも思う。このアイデアを今、得たとしたら書けただろうか、と。
 書けなかっただろう。
 そういう意味では「無料の電話」は過去に書かれたからこそ、現在に書かれたものではないからこそ、成立しえた。それは作品を保たせようと時事を排し、必死に細部に手を入れていた星新一のことを思うとなんと皮肉なことだろう。ショートショートの核ともいえるアイデア自体に時限爆弾が仕掛けられていた、ということではないか。
 しかし、それでも「無料の電話」はおもしろい、と語り伝えられるだろう。
 それは過去に書かれたという事実があるからだ。読者はそれを念頭に読んでいるかぎり、「無料の電話」のおもしろさはこれからもかわらないだろう。むしろぼくのようにそのことを念頭に置いていたからこそ、すごさを認識することもありえる。
 それでも星新一は懸命に細部に手を入れ、作品を保たせようとしていた。
 どうしてだろう。それがなぜか、哀しい。
 星新一の、あの執着にはあまり意味はなかったのだろうか、と。

2010年1月1日金曜日

2009年決算

年間、読了本冊数、91冊。
 映画23本。
 ウィンド出艇日数8日。
 まぁ、こんなもんか。人生で一番、本を読んだ一年だった。それでもこの程度。ほぼ限界。失業者の身で一日中、時間がある状態だったので暇のあるなしは関係がない。ぼくのインプット能力はこの程度ということですね。

2009年12月30日水曜日

アリス・シュローダー「スノーボール ウォーレン・バフェット伝」(上)(下)

スノーボール (上) ウォーレン・バフェット伝

スノーボール (下) ウォーレン・バフェット伝

 もしかしたら今年読んだ中で、ベストかもしれない。ベストスリーにはいるのはまちがいない。ウォーレン・バフェットを知らない人間が読んでどういう感興を得るのかはわからないが、個人的にはすばらしい一冊だった。
 しかも今まで様々なことを見聞きして(ほとんど読んでだが)、なんとなく描いていたウォーレン・バフェット像はうまく安定してなくて居心地が悪かったのだが、それがかちっと、はまったのはありがたい。たとえそれが現実のバフェットとちがっていたとしても。
 それにしてもでてくる人でてくる人――とくにパートナーシップをはじめて以降、みんな、頭が良い人間ばかりで少しばかりがっくりくる。ベンジャミン・グレアムやチャーリー・マンガーは当然としてとくにビル・ゲイツには驚嘆してしまった。パソコン業界を独占していたこともあって反感を覚えてしかたがなかったのだが、1990年に銀塩写真があやういことを見抜いていたことには驚くしかなかった。うつろな記憶でしかないが、当時まだデジタルカメラはそれほど出回ってなかったはずだ。カシオのAV-10がでるか、でないかのころだったような。
 やはり只者ではなかったのね、という感じだろうか。
 まぁ、でてくる人、みんな只者ではないんだけどね。バフェットグループの平均IQ160って何よ。

 そして、考えてしまうのは「学習」の価値だ。インターネット時代になっていろんな情報にアクセス可能になり、情報格差はなくなっているのかもしれないが――インサイダー情報のような投資情報に差がなくなり、だれもが同じ条件下にいるといわれるが、実はそうではないのかもしれない。発想や思いつきは頭の中の情報の組み合わせなので、情報がどこにあるか、アクセス方法がわかっていれば、いい、ただ、頭に知識をいれておくことは無意味だ、というのは嘘ではないか。むしろ「学習」の価値は増えているのではないか……と。

2009年12月28日月曜日

すげーな

これ、リアルタイム映像でできるようになったら何を信じていいものやら。


2009年12月13日日曜日

壊れたMacのハードディスクからデータをレスキュー

次の手順でデータをWindows側に引っこ抜いた。



センチュリー 裸族のお立ち台 eSATAコンボIDEプラス CROISEU2を購入。
これでUSB経由でハードディスクにはアクセスできるが、WindowsがMacのファイルシステム(HFS+)を認識してくれないので、MacDrive 8の試用版をインストール。
これでディスクが見えるようになったので後は単純にコピー。

2009年12月10日木曜日

壊れたMacからハードディスクを引っこ抜くことにした。

壊れたMacからハードディスクを引っこ抜くことにした。



えいやっ。



ばっこん。



よっっしゃっ、こんなもんよ。

2009年12月3日木曜日

クリス・アンダーソン「フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略」

フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略
 前作「ロングテール」と併せ読むことをお勧めする。
 おそらく多くの人が「ビットは無料になることを望んでいる」ということは十年以上前から気づいていたにちがいない。それにもかかわらず、本書のようにまとめられ、言葉――「フリー」をあたえられると、衝撃的だ。個人的にはGNU――スツールマンのフリーウェア宣言――フリーウェアは無料のソフトウェアのことではない。自由なソフトウェアだ――に影響を受けているので、「自由」と「無料」をまとめる「フリー」には顔面を殴られたような気分だった。
 と同時に、これから急速にフリー化がすすむにちがいない。
 概念が提示された以上、そのように発想することが容易になるからだ。多くの人がフリーからお金を生みだそうとするだろう。
 かくいうぼくもアイデアが――これはいけるぞっ、というアイデアが浮かんだが、それをすぐに実現する道がない。人脈も伝手も資金もないぼくにはそれを実現する道がない。おそらく「フリー」を読んだ人の一部は同じようなアイデアを思いついたにちがいなく、その中のだれかがアイデアを実現するだろう。ちくしょう。想像するだけで悔しくて夜も眠れなくなるが、それが商売ってもんだ。

陰陽



2009年12月1日火曜日

グローバリズム

 それにしてもこんなにグローバリズムが進むとは思ってなかった。
 昔から英語が嫌いだったのでバイアスがかかっていたということもあるけど、英語を身につけた方がいい、と気づく機会もあったというのに。10年、もしかしたらもう15年も前になるかもしれないけど、インターネットのはしりの頃だ。Ashahiネットというパソコン通信でインターネットサービスがはじまったとき、ちょっと触れていたのだ。telnetとか、ftpなど。http――WWWはキャラクタベースで提供されていた。それを見てどの情報も英語がベースだったので(当たり前だ)、英語が攻めてくる、と思ったものだった。
 それから国内のサイトが充実したのですっかりグローバリズムと世間で騒いでいても海外へでていくような企業しか関係ねえ、と思っていた。
 それがあっという間にITバブルが弾けて急激に世の中のグローバル化が進んでしまった。世界がフラット化してしまった。
 いやぁ、まいったなぁ。

フラット化する世界 [増補改訂版] (上)
フラット化する世界 [増補改訂版] (下)

2009年11月30日月曜日

宮崎駿監督「紅の豚」


 鮮烈な印象に残っているのは主人公のマルコが自分の秘密基地に飛行艇でもどってくるところだ。舳先が浅瀬の砂にめりこみ、砂が舞う。そのシーン。それを観た瞬間、軽いプルースト現象が起きた。「失なわれた時」が立ち上がってきた。
 子どものとき、見た光景。
 マルコの秘密基地のように無人島の入江の砂浜で水中眼鏡をして潜っていたとき、小舟が船外機を止め、惰性で浜へ近づく。その様子を水中で見ていた。音もなくなだらかな海底の砂の斜面へ舳先が迫り、砂浜に喰いこんだ。その瞬間に砂が舞いあがる……。
 息を飲み、走り抜けていく過去の光景を見つめていたのは、1秒にも満たない瞬間だったにちがいない。
 不思議なのはそれが「紅の豚」で起きたということだ。
 「黄金の七人」という映画の中でも似たようなシーンを見たように思うが、過去は立ち上がってこなかった。実写ではなく、省略され、誇張され、整理されたアニメだからこそ、起きたのではないか。それはたぶん、記憶というものが省略され、誇張され、整理されて抽象化されているからだろう。歪み、水の質感がきわめて記憶したものに近いからこそ、急激に過去が想起されたのではないだろうか。
 絵というのは描く者の記憶をいったん、通り抜け、抽象化が起こなわれているものだからだろう。


 同じような経験は「崖の上のポニョ」でも起きた。
 嵐の中を戻ってきた家が停電で蝋燭を母親が探すシーンだ。
 台風のときのおなじみの光景……それがふいに甦ってきて涙ぐんでしまった。
 これはアニメだからなのだろうか。それとも宮崎駿だからなのだろうか。他にもアニメは観ているが、こんなことが経験をしたのは宮崎駿だけだ。

宮崎駿監督「紅の豚」

2009年11月26日木曜日

クリス・アンダーソン「ロングテール―「売れない商品」を宝の山に変える新戦略」



 アマゾンはあまり売れない(数がはけない)本でも売れる。それをロングテールという、という論調で語られる――実際に「ロングテール」を読んでみると、著者のいっていることはもっと深い内容だった。それは売る側の話ばかりではない。それはコンテンツ提供側にもインパクトを与える。
 たとえば、プロとアマチュアの差とは何か。
 プロを優秀でアマチュアはそうではない、というのではなく、実は売れるかどうかではないか。ロングテールによって小売りの構造が変化したならコンテンツ提供者としてのプロとアマチュアの区分はなくなるのではないか。残るのは売れるコンテンツ提供者と売れないコンテンツ提供者というなだらかな区分だけだ。ロングテール以前の小売りの状況では売れないコンテンツ提供者は提供する道すら閉ざされているのだから。

2009年11月25日水曜日

笠井潔「人間の消失・小説の変貌」



 どうして小説は書けてしまうのか。理由は単純で、小説の本質は自己反復にあるからだ。小説家が小説を書いているわけではない。全宇宙にも匹敵する無限の内面から小説が生まれるわけでも、小説家が虚無から小説を想像しているわけでもない。DNAがDNAを複製するように、小説が小説を書く。あるいは本が本を書く。小説家とは小説と小説、本と本のあいだに挟まれた薄い栞のようなものだ。小説家がいなければ小説の自己複製は不可能だろうが、書かれた小説にとって作家は些末な存在にすぎない。
 同じことを小説家の側からいえば、創作の本質は模倣ということになる。「××のような」小説を書きたいという模倣欲望が、あるタイプの人間を小説家にする。だから「書きたいことがない」場合でも小説は書ける。書けてしまう。DNAの複製にかならず誤差が生じるように、小説の場合も不幸にして完璧な模倣は不可能である。どうしても存在してしまう誤差として個性や独創性、その他もろもろが結果として生じる。

笠井潔「人間の消失・小説の変貌」より


 であるにしてもどうして必然的に誤差が生じるか、という疑問は残る。その原因が著作権にあるということは本末転倒だろう。小説を書きたいという欲望は模倣であって複製欲望ではないということは重要だ。同じようにすばらしいものを書きたいという欲望が小説を書かせる、というのならそれはどこから来るのか。それは他者とはちがうということを証明しつづけなればならない個としての欲求ではないか。
 たとえ、「十九世紀の小説家が信じた個性や独創性が虚構にすぎない」としても。

2009年11月19日木曜日

杉山俊彦「競馬の終わり」



 どこで見かけたのか、すっかり忘れてしまったけれど、日本SF新人賞受賞作のタイトル――「競馬の終わり」というのを見てどんな内容なんだ、と思ったのだ。SFと競馬? どうむすびつくんだ、と。
 で、読んでみた。おもしろかった。
 最初の方でこれはもしかしたら筒井康隆の「馬は土曜に蒼ざめる」になるのかな、と思っていたら全然、ちがっていた。どことなくフィリップ・K・ディックの「高い砦の男」を思い出しのだけれど、これは内容というより書き方からの連想かもしれない。エピソードの積み重ね。登場人物がいろいろとペダントリックに語るあたりとか。

2009年11月6日金曜日

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とりあえず、はじめてみた。http://twitter.com/yamada1961

マイケル・カプコン/エレン・カプコン「確率の科学史―「パスカルの賭け」から気象予報まで」



 まるでこれまで読んだ[アダム・ファウアー「数学的にありえない」や[レナード・ムロディナウ「たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する」のネタ本のような内容だった。確率に関しての記述はどうしてもこうならざろうえないのかもしれないが、原文のせいなのか、訳文のせいなのか、ひどく文意がとりづらい箇所が散見され、読み通すのが、つらかった。
 愕然とさせられたのはエントロピーに関する部分だ。
 エントロピー。復水盆に返らず。どうして復水は盆に返らないか。盆からこぼれた水がどうしてふたたび、盆に戻らないのか。分子の状態がランダムであるのならたまたま、盆に戻るような動きをすることもあるのではないか――。
 重要なのはそのことが起きないと否定されていないことだ。
 起きる可能性はある。
 ただしそれが起きる確率は異常に小さい――宇宙が誕生してから繰り返していたとしても起きないほど――。そのため、復水は盆へ戻らない。
 ひっくり返ってしまった。
 これはもしかしたら時間はない、といっているのと同じではないか?

2009年11月3日火曜日

角田史雄「地震の癖──いつ、どこで起こって、どこを通るのか?」



 先入観というものがいかに強いものか、ということを実感させられた。
 地震の原因はプレートの移動によるものだという先入観。小松左京の「日本沈没」で刷り込まれてしまったこの先入観をなかなか捨てることができなかったのだ。たとえば、本の中で地震活動、火山活動の連続について語っている部分に、ランダムな事象の中にパターンを読んでしまっているのではないか、と疑いを抱いてしまうように。最近では「スーパープリューム」が地震の発生原因だと考えられているということを漏れ聞いていたにもかかわらず、強い抵抗感を覚えてしかたがなかった。
 なるほど。こりゃあ、地動説をとなえたガリレオが宗教裁判にかけられるわけだ。

2009年11月2日月曜日