世の中には賢人というものがほんとうにいるもんだなぁ。
最近よくそんなことを思う。
「隷属への道」を読み出してすぐに思い出したのはまだ、FreeBSDのメジャーバージョンが2ぐらいのころのことだ。次のような意見を目にした。どうしてFreeBSDとLinuxと別々に開発しているのですか、いっしょに開発すれば、もっといいものができるでしょうに——そんな残念だといわんばかりのニュアンス。
わかってないなぁ、というのが感想だったけれど、それをうまく言語化できなかった。何をわかってないというのか。
似たような話はたとえば、プログラム言語の開発——Rubyとか、Perlとか、いろいろなプログラム言語があることにたいしてある。どうしていっしょにやらないの? 無駄じゃない? 優秀な頭脳の無駄遣いじゃないの、というわけ。
「隷属への道」を読んでいてなぜか、その反論の言語化のきっかけを得た。
いっしょに開発すればいいのに、といっている人間は「いい=悪い」という価値軸がひとつしかない、と考えているのだろう。しかし実際には人によって「いい=悪い」は千差万別だろうし、様々な価値軸が世の中には存在する。それを無駄遣いと断じるのは多様性の否定でもある。
など。
そして、日本の政治は物事を決められない。リーダーシップがない(だから大統領制にすべきだとか)。動きが鈍いからいざというときに対応できない——という批判。ぼく自身もそんなふうに感じてもいたのだけれど、そうではないのかもしれない、と「隷属への道」を読んで考えをかえた。
本質的に民主主義は決められないものだ。多様な意見が存在し、そのせめぎあっている——それができるということが民主主義の良いところである。そんなふうにハイエクはいっているようだった。
それは多様な意見を尊重する、ということでもあるのではないだろうか。
そういえば、大山史朗「山谷崖っぷち日記」でも次のような一節があった。
何よりもこのような貧富の格差が露骨に誰の目にも入って来るような社会は (ゴミ箱を漁る人々が収容所に送られたりはしない社会は)、価値の多様性が容認されている社会でもあるはずである。
——不思議とシンクロしているように感じる。