2009年4月30日木曜日
神永正博「カードセキュリティのすべて―進化する“手口”と最新防御策」
非接触で動作するICカードに、もしかしたら重要な情報を遠隔で読み取られるのではないかと、どうもいまいち、信用できないでいた。元々、非接触ではない磁気カードですら非接触でスキミング可能だ、というのだ。信用できない。
ところがよくよく考えてみれば、当たり前の話なのだけれど、ICカードというのはコンピュータなのだった。だからICカードは内部で処理ができる。データをICカード内部で暗号化できるのだ。
インターネット取引でコンピュータ間のデータが暗号化されて通信経路の途中で読み取れない――傍受しても内容が読めない――のと同じようにICカードと読み取り装置との間の通信も読み取れない。
なるほど。
あれ?
でも磁気カードもデータを暗号化しておけば、いいんじゃないか?
ああ、そうか。暗号化してあってもそのデータそのものをコピーすれば、使えるようになるのか。ICカードならランダムな数値を暗号化したものを受け取って元に復号化できる。認証は復号化したデータを返してもらってチェックする、と。つまりほんとうに知られてはいけないのは復号に使用するキーで、それはICカードからは外にでないので――ICカード内部で復号されるので――安全というわけか。なるほど。
そして、ビザとマスターの両方を持っているカードがどうしてないのか、という理由もはじめて知った。
うん。世の中、おもしろいな。
2009年4月28日火曜日
勝間和代「断る力」
2009年4月25日土曜日
土から離れて……
今、ラピュタがなぜ滅びたのか、私よくわかる。ゴンドアの谷の詩にあるもの。
土に根を下ろし 風と共に生きよう
種と共に冬を越え 鳥と共に春を歌おう
どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ。
――宮崎駿監督「天空のラピュタ」より
クライマックスのシータの感動的なセリフだ。
このセリフを聞くたびにうーん、と唸ってしまう。そうだ、と思っているからではなく、ちがうだろ、と突っ込みをいれているためだ。
人類が農業をはじめたからこそ、科学文明は発達したのではないか。ラピュタを生んだのはまさに土に根を下ろし、くらしはじめたからではないか。それを「土から離れて生きられない」と批判するのは欺瞞というものではないか……と。
2009年4月22日水曜日
2009年4月21日火曜日
GPSロガーの軌跡
GPSロガーを試してみたところ、うーん、どうも思ったより精度はよくないようだ。
ビルでGPSの電波が乱反射しているのかしらん? 行った覚えのない方向へ行ったり、あたりをうろうろしたりしている。
それにしても付属のソフトの使い方がよく把握できん。
プロットしたものをどうやって画像として落とせば、いいんだろ? 画面のハードコピーをとるのだろうか……とか、つらつら考えていたらふと思った。
GPSの位置情報をgnuplotに喰わせりゃ、いいんじゃね?
で、データをcsvファイルにエクスポートしてgnuplotでプロットしてみた。おおっ、ぽいぞ。ぽい。でもなんか北が下になっている。緯度と経度ってどこが(0,0)だっけと考えてはっと気づいた。緯度と経度って角度じゃん。そうか。地図って北が広く見えてしまうもんだった。でもまぁ、人の動く範囲だとそんなの誤差の範疇か……。
とりあえず、180度ひっくり返す方法ないかなぁ、とマニュアルをひっくり返したところ、緯度と経度でプロットする方法があった。驚く。へぇ、すげえな。極座標プロットとかいうらしい。
set datafile separator ","
set mapping spherical
set polar
set angles degrees
unset xtics
unset ytics
plot "trip_090421131156.csv" u 3:4 with lines title "20080420"
で、プロットしてみたのが、上の図。昨日のぼくの動線。
まぁ、わけがわからんな……。
2009年4月20日月曜日
2009年4月18日土曜日
体重とカロリー
2009年4月15日水曜日
大場 つぐみ /小畑 健「バクマン。」
「バグマン。」がおもしろくて毎週かかさず、読み、単行本もすぐに買い求めている。
なのだけど、第一回――回数名がページとなっているので1ページですか――を読んだとき、微妙な違和感を覚えてしまった。以下、そのメモ。
主役のひとりである高木がメインの主役である真城をマンガ家になろう、と誘うときのセリフ。
お…おまえそれにたいして真城は
このまま
ダラダラ
リーマンになるんだ
おまえの人生
それでいいんだ
中3で夢もって進もうとしているおまえの方が珍しいんだよ
俺がふつうだよ
と答える。
違和感を覚えたのはそこだ。
「ダラダラ リーマンになる」という発想そのものがすでに失効してしまっているんじゃないのか?
もちろん、今の学生は今だにその発想を許容しているのかもしれない。それはわからないのだけれど、バブルが崩壊し、2000年をすぎた今、ただ、サラリーマンになるということすら困難になりつつあるんじゃないだろうか……。
この発想はまだ、日本は総中流だという幻想が信じられていた時代の人間の――端的にいってぼくとあまりかわらない世代のものっぽいなぁ……と思っていたら「ガモウひろし」――大場めぐみはどう見てもガモウひろしでしょ――は1962年8月17日生まれじゃないか。
しっかりぼくとかわらない世代だった。
2009年4月13日月曜日
笠井潔「例外社会」
この本の存在を知ったとき、これは読まなければ、いけない、と思った。すぐにでも――宣伝の文句に「グローバリズム」「非正規雇用者」「ワーキングプア」などの言葉が踊っていたからだ。
というのもかつて「労働、アービトラージ、ワーキングプア」という文章を書いてみて自分の考えを外在化してみたとき、状況は絶望的だ、少なくとも希望はない、という結論に至ってしまったからだ。これは今でもかわってなくて、とんでもない世界――世界は底抜けしてしまった、と思っている。この認識はトーマス・フリードマンの「フラット化する世界」を読んだ結果、まちがってはいなそうだ。
だから「例外社会」を読んでみなければ、いけない。
しかし、それはこの本に救いを求めて、というわけではない。状況は絶望的、ということに希望がありうるとは思えない。それでも読まなければ、と思ったとは笠井潔の評論ということが大きい。ただのへ理屈たれであるぼくなどとちがって思考の強度、緻密さ、深さを持つ笠井潔が状況をどのように認識しているのか、一読以上の価値はあるはずだ。
大部分は二十世紀の再検討にあてられている。
そして、その結果としてボリシェヴィズム(ソ連)とナチズム(ドイツ)とアメリカニズム(アメリカ)を同じとする視座を提供するが――この視座そのものは笠井潔の「探偵小説論」を読んできた身としては、その延長上にある思考なのですんなりと受け止めることはできたけれど、初めて触れる人はひっくり返るだろうな……普通、対立していたと捉えれているソ連とアメリカを同じとするのだから。ドイツ、ナチズムを革命と捉える考え方も――これは「探偵小説論」ではないが――そうだろう、ということは感じていたのでそれほど、驚きはなかった。やっぱりかぁ、という感じ。
ひっくり返ったのは社会的再生産装置としての教育、という視点だった。
教育が階級を再生産(親から子へ)し、固定化するために働く、というのだ。教育を平等の装置と思っていたこともあり、驚愕だった。
そして、二十一世紀に提起される「複岐する実存」――。
実をいうと、この概念がうまくイメージできないでいる。よくわからない。なんとなくイメージしている部分をあるのだけど。たぶん「シュレーディンガーの猫」なんだろうな、とは思うけれど、それがどのように展開されるのか、理解できない。保留と決断――というタームで自分の中で整理できるのかな、とは思うのだが……ただ、保留と決断というタームで解釈しなおそうとするのはたぶん、福本伸行の「アカギ」の影響だな。いや、待てよ……もしかしたら「HELLSING」か?
たとえば、
私が犠牲としてのこの私の死を受容するのは、無数のもう一人の私、われわれが生きるためだ。選択以前として、私は犠牲であることをみずから引き受ける。という「例外社会」の一文と
殺し続けていた
私の中で
私の命を
三百四十二万四千八百六十七
一匹以外は全員殺して殺し尽してきた
もう私はここにいる
もう私はどこにもいないし
どこにでもいる
だからここにいる
「HELLSING」アーカードのセリフにはどこか響き合うものがありはしないか?
2009年4月10日金曜日
2009年4月9日木曜日
自由な労働市場
たとえば、すべては市場に任せた方がいいという考えがある。
企業は「価値を生み出す装置」 - Zopeジャンキー日記
基本的、ぼくも同じような、近い考え方をしているのだが、労働市場にすべてをまかせることには無理がある、ある程度の介入は必要だ、と思っている。その介入で問題が解決するとはまったく思っていないが。
というのも。
労働市場が正常に働くためには売り手と買い手が均衡している必要がある、ということだ。
市場原理でどこかで均衡するだろうって?
まってくれ。
仮に均衡したとしても、その均衡点で労働者は生活できる賃金を得ることができるという前提はどこにも存在しない。市場にまかせれば、たしかに売買は均衡する。しかし、そこで人は生活できるとはかぎらない。それを可能にするには政府の介入が必要だ。ただし、それでうまくいくとはぼく自身は思っていないが。
そして、ふたつ目。
ある種のカテゴリーの労働者の集団は圧倒的に買い手市場であるという現実。
たしかに高度な知識や技術を持っている労働者は市場原理にまかせた方が効率的かもしれない。優秀な人物を特定の会社に抱えこませるのではなく、必要な場所へ流動させるという意味でも、その部分については市場にまかせた方がいいし、そういう人たちはおそらく労働市場にまかせてくれ、と思っていることだろう。
しかし、労働者という集団の多数はそういう人たちではない。
すでに労働者としてのグローバルな競争に晒されている(本人たちは自覚していないかもしれないが)多数の労働者は、そのために圧倒的な買い手市場の中にいる。そういう人たちは市場にまかせると、生活できないレベルまで賃金など、落ちこまざろうえない。
みっつ目は労働者自身の流動性の問題だ。グローバルな競争に晒されている人々は賃金のレベルに合った物価の国へ移動できない、という現実がある。すでに国外へ流動できないということで――法律的、能力的、感情的にしろ――労働市場としてすでに歪みが発生している、ということだ。そういう状態で、すべてを労働市場にまかせることがベストだろうか?
非常に疑問だ。
企業は「価値を生み出す装置」 - Zopeジャンキー日記
私が解雇規制に反対するのは、労働市場への介入だからだ。それは市場を守る規制ではなく、市場を損なう規制になってしまっている。
市場は自由な取引により成り立つ。自由な取引とは、当事者どうしが自らの意志に基づいておこなう取引だ。
解雇規制は、雇用契約という取引をやめたいという企業側の選択肢を封じてしまうので、どんな取引をするかという意思決定自体に影響を与える。自由な意思決定のための選択
基本的、ぼくも同じような、近い考え方をしているのだが、労働市場にすべてをまかせることには無理がある、ある程度の介入は必要だ、と思っている。その介入で問題が解決するとはまったく思っていないが。
というのも。
労働市場が正常に働くためには売り手と買い手が均衡している必要がある、ということだ。
市場原理でどこかで均衡するだろうって?
まってくれ。
仮に均衡したとしても、その均衡点で労働者は生活できる賃金を得ることができるという前提はどこにも存在しない。市場にまかせれば、たしかに売買は均衡する。しかし、そこで人は生活できるとはかぎらない。それを可能にするには政府の介入が必要だ。ただし、それでうまくいくとはぼく自身は思っていないが。
そして、ふたつ目。
ある種のカテゴリーの労働者の集団は圧倒的に買い手市場であるという現実。
たしかに高度な知識や技術を持っている労働者は市場原理にまかせた方が効率的かもしれない。優秀な人物を特定の会社に抱えこませるのではなく、必要な場所へ流動させるという意味でも、その部分については市場にまかせた方がいいし、そういう人たちはおそらく労働市場にまかせてくれ、と思っていることだろう。
しかし、労働者という集団の多数はそういう人たちではない。
すでに労働者としてのグローバルな競争に晒されている(本人たちは自覚していないかもしれないが)多数の労働者は、そのために圧倒的な買い手市場の中にいる。そういう人たちは市場にまかせると、生活できないレベルまで賃金など、落ちこまざろうえない。
みっつ目は労働者自身の流動性の問題だ。グローバルな競争に晒されている人々は賃金のレベルに合った物価の国へ移動できない、という現実がある。すでに国外へ流動できないということで――法律的、能力的、感情的にしろ――労働市場としてすでに歪みが発生している、ということだ。そういう状態で、すべてを労働市場にまかせることがベストだろうか?
非常に疑問だ。
2009年4月8日水曜日
ファイルごとにskkを有効にする方法
ふと思いついたので。
ファイルの先頭に下記のような一行を入れる。これでOrg-modeにしてなおかつ、skkもオンになる。skkはマイナーモードなのでメジャーモードを上書きして切り替えないというわけ。
ファイルの先頭に下記のような一行を入れる。これでOrg-modeにしてなおかつ、skkもオンになる。skkはマイナーモードなのでメジャーモードを上書きして切り替えないというわけ。
-*- mode:org; mode:skk -*-
GNU Emacs 24.5.1でも効かなくなってしまった。
2009年4月6日月曜日
懸賞について検討してみた
週刊誌がどのくらいあるのか、コンビニへ行って調べてみた。あるある。「週刊ポスト」「週刊現代」「週刊新潮」「週刊文春」「週刊大衆」「週刊読売」「実話時代」「サンデー毎日」「アサヒ芸能」他、マンガ週刊誌多数……。
これらにはアンケートをかねた読者プレゼントコーナーがたいがい、存在する。おひとり様1万5千円、10名にプレゼント――という感じである。週刊誌だから月4回応募可能だ。週刊誌を購入するのは現実的ではないので図書館の雑誌を利用するとして、これで現金収入を得ることができるだろうか。
三ヶ月に一回、当選するとして10誌の場合、月3万ぐらいになるかな?
いろいろと見ていたら「週刊文春」に応募数が載っていた。
――3725。
当選人数は10人だから当たる確率はえーと、10÷3725×100か……うーんと、0.268%か。えっ? 500回応募して1回当選する確率ということかよ。まてまて。賞金は1万円だ。それなら期待値はプラスじゃないか?
計算してみよう。0.00268×10000と……26.8円。仮に賞金が1万5千円だとしたら40.2円、ということか。んー、一応、期待値はプラスか?
いや、ちがうぞ。
応募にはコストがかかる。葉書代っていくらだ? 50円か?
そうすると、赤字じゃないかよ……。
もちろんクイズになっているのだから応募数よりも正解者数は小さいはずだ――でもな、よくよく考えてみると、クイズの答えがわかったからこそ応募するものだろう。そうすると、応募数と正解者数はほぼ同じになるはずだ。
じゃ、やっぱり期待値はマイナスと26.8−50=−23.2円になる。
一回、応募するごとに23円、お金を損するという計算か……。
まるでだめじゃないか。
これらにはアンケートをかねた読者プレゼントコーナーがたいがい、存在する。おひとり様1万5千円、10名にプレゼント――という感じである。週刊誌だから月4回応募可能だ。週刊誌を購入するのは現実的ではないので図書館の雑誌を利用するとして、これで現金収入を得ることができるだろうか。
三ヶ月に一回、当選するとして10誌の場合、月3万ぐらいになるかな?
いろいろと見ていたら「週刊文春」に応募数が載っていた。
――3725。
当選人数は10人だから当たる確率はえーと、10÷3725×100か……うーんと、0.268%か。えっ? 500回応募して1回当選する確率ということかよ。まてまて。賞金は1万円だ。それなら期待値はプラスじゃないか?
計算してみよう。0.00268×10000と……26.8円。仮に賞金が1万5千円だとしたら40.2円、ということか。んー、一応、期待値はプラスか?
いや、ちがうぞ。
応募にはコストがかかる。葉書代っていくらだ? 50円か?
そうすると、赤字じゃないかよ……。
もちろんクイズになっているのだから応募数よりも正解者数は小さいはずだ――でもな、よくよく考えてみると、クイズの答えがわかったからこそ応募するものだろう。そうすると、応募数と正解者数はほぼ同じになるはずだ。
じゃ、やっぱり期待値はマイナスと26.8−50=−23.2円になる。
一回、応募するごとに23円、お金を損するという計算か……。
まるでだめじゃないか。
2009年4月5日日曜日
賞を獲って生きていく by 中郎
失職して何がこまるかというと、あたりまえの話だが、収入がない、ということだ。どうやって御飯を食べていけば、いい?
かつて同じような状況のときには競馬で喰えないか、と思ったが、これは果せなかった。しっかり挫折した。すっかり空っけつになった。貧すれば、鈍す、という言葉をこの身を持って体験してしまった。
では今回はその第二弾ということになるのか?
パチンコという線もあるにはある。
ただ、これは呼吸器系が貧弱なぼくにはかなりきつい。完全禁煙なパチンコ店なんて存在しないからだ。あったとしてもそんな店は玉を出してくれないだろうし。
じゃ、懸賞というのはどうだろう。
「なすびの懸賞生活」というのが、かつてあったが――ぼくの頭の中にあるのはむしろ「ザ・プライザー」というマンガだ。思えば、このマンガの主人公の中郎が最初に「ザ・プライザー」として金を獲るのは競馬なんだよな。もしかしたらこのマンガのインプリンティングでぼくは馬券生活をやってしまったのではないか。今さらながらそう思わなくもない。なぜならこのマンガを読み、単行本を買い、何度も読み返したころにはまだ、競馬というものを知らなかったからだ。公営と中央の区別すらついてなかった。今、読むと、中郎がやったのは公営競馬なんだよね。
懸賞なら喰えるだろうか?
たとえば、週刊誌のクロスワードパズルとかの賞金は1万円ぐらいだ。週刊誌はいくつある? うーん、週刊ポスト、週刊新潮、週刊読売、サンデー毎日……まだまだ、あるよな。全部にだせば、いけるか?
うーん、どうだろう。
常識的な判断では答えはもちろん、否定的なんだが、その判断には何の根拠もない。たとえば、競馬で喰えるわけはない、というのはたしかに常識的な判断だが、世の中には喰えている人間も非常に少人数だが、いるという現実がある。
かつて同じような状況のときには競馬で喰えないか、と思ったが、これは果せなかった。しっかり挫折した。すっかり空っけつになった。貧すれば、鈍す、という言葉をこの身を持って体験してしまった。
では今回はその第二弾ということになるのか?
パチンコという線もあるにはある。
ただ、これは呼吸器系が貧弱なぼくにはかなりきつい。完全禁煙なパチンコ店なんて存在しないからだ。あったとしてもそんな店は玉を出してくれないだろうし。
じゃ、懸賞というのはどうだろう。
「なすびの懸賞生活」というのが、かつてあったが――ぼくの頭の中にあるのはむしろ「ザ・プライザー」というマンガだ。思えば、このマンガの主人公の中郎が最初に「ザ・プライザー」として金を獲るのは競馬なんだよな。もしかしたらこのマンガのインプリンティングでぼくは馬券生活をやってしまったのではないか。今さらながらそう思わなくもない。なぜならこのマンガを読み、単行本を買い、何度も読み返したころにはまだ、競馬というものを知らなかったからだ。公営と中央の区別すらついてなかった。今、読むと、中郎がやったのは公営競馬なんだよね。
懸賞なら喰えるだろうか?
たとえば、週刊誌のクロスワードパズルとかの賞金は1万円ぐらいだ。週刊誌はいくつある? うーん、週刊ポスト、週刊新潮、週刊読売、サンデー毎日……まだまだ、あるよな。全部にだせば、いけるか?
うーん、どうだろう。
常識的な判断では答えはもちろん、否定的なんだが、その判断には何の根拠もない。たとえば、競馬で喰えるわけはない、というのはたしかに常識的な判断だが、世の中には喰えている人間も非常に少人数だが、いるという現実がある。
2009年4月3日金曜日
平野耕太「HELLSING」
テレビアニメ版が最初だった。
しかも放映時の出会いではなかったのでずいぶんと「HELLSING」との出会いは遅かったことになる。が、それは幸いだったかもしれない。結局、完結まで何年も待たされることになったからだ。これが初期のころからだったら十年以上、じっと我慢しなければ、ならなかった。
平野耕太のテレビアニメ版への評価がどんな感じなのかは知らない。
あまり高くないだろうとは想像できるが、それは大概の原作者がそう考えるだろうからだ――アニメを観たあとに原作を買い求めたのからわかるようにぼくはテレビアニメ版はとても楽しめた。もちろん原作を読んでしまった今は、作品としては原作の方がはるかにいいことはわかっている。
テレビアニメ化されたのはたぶんヤン兄弟のエピソードのちょっとあとぐらいが描かれたころだと思うのだが、これが感慨深い。というのもそれ以降に描かれた「HELLSING」のエピソードの数々はだいたい、アニメに形をかえてだが、取り込まれているからだ。ロンドンの街が破壊されるシーンは元よりそこへアンデルセン神父が現われたり――アニメでは一瞬、ちょっとでるだけだったが――、セラスが狼男と対決したり、そして、ミナかぁ。もちろん大隊はなく、アニメではリアルアンデッドに置き換えられたりしているが、血が大河となって集まるシーンなどもアニメ版でも使われているシーンだ。
これはどういうことかというと、平野耕太はヤン兄弟の話を描いているころにはすでに最後までストーリーができていた、ということだ。
凄いなぁ。
そして、そうなら完結まで時間かかりすぎだろう、と突っ込みをいれたくもなる。
2009年4月2日木曜日
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