2011年3月21日月曜日

クリストファー・チャブリス/ダニエル・シモンズ「錯覚の科学」

錯覚の科学
 邦題よりも原題の方がいいんじゃないか。
 そう思うのは偶然、テレビで「見えないゴリラ」の実験のビデオを見たからかもしれない。その実験がどんなものか、どうかはこの本を参照して欲しいが、たぶんそのような話を聞いてもにわかに信じられないだろう……。自分でその経験をしないかぎり。
 経験してみて軽くショックを受けた。
 まさか****の試合中に****通りすぎる****気づかないなんて。
 考えてみれば、テーブルマジックというのはまさにそれを応用した技術なのだろう……。
 本の中ではいろいろな錯覚について語られているが――「注意の錯覚」「記憶の錯覚」「自信の錯覚」「知識の錯覚」「原因の錯覚」「可能性の錯覚」――、その中で一番、ショックを受けたのは「記憶の錯覚」かもしれない。ふいに自分の記憶があいまいに感じられて気味が悪くなってしまった。確信を持っている記憶ほど、あてにならない、というやつ。
 まさに思い当たることがあったからだ。
 時々、本の一部を思い出し、それを確認するためにページを繰ることがあるのだけれど、これがいつも本当に見つけるのに苦労してしまうのだ。たしか、ページのこのあたりに書かれていてあった――見開きの位置とか、このイラストのすこしあととか、はっきり覚えているにもかかわらず、その場所には見つからない、という経験を何度もしていて。
 いやはや、錯覚にすぎなかったのか。その確信は。

2011年3月15日火曜日

福島原発、あるいはサンクトペテルブルクのパラドックス

 告白しよう。
 実は2011年3月12日の段階で、東京から逃げ出すつもりだった。
 福島第1原発第1号機の建屋が水素爆発でふっ飛び、原子力研究資料室のUstrem放送などを見たあとだ。状況は芳しくない――しかし、それが原因ではない。
 この状況はサンクトペテルブルクのパラドックスの裏ではないか、と思えたからだ。あるいはパスカルの神をどうして信じるか、という問い。
 パスカルのように合理的に行動するなら東京から避難するのが正しい――と。

 つまりこういうことだ。
 状況は次のマトリックスにまとめることができる。

格納容器が無事格納容器が破損
とどまるa1.被害なしa2.被害無限大(たぶん死亡)
避難するb1.失職、人間関係の破綻b2.日本経済大打撃

 この状況でぼくに選択できる道はふたつ。とどまるか、避難するか。このそれぞれの被害の期待値は次のように計算できる。

(無事の確率×a1)+(破損の確率×a2)=とどまる被害
(無事の確率×b1)+(破損の確率×b2)=避難する被害

 この結果、「とどまる被害>避難する被害」になる。a2の被害が無限大である以上。そうであるなら合理的な判断は「避難」なのだ。
 しかも原発は複数個、存在する。
 だから判断は「逃げる」だ。

 が、今だ、東京にいる。

 ――家人が仕事があるから、というのだ。それを説得するだけの材料がぼくにはなかった。サンクトペテルブルクのパラドックスは、行動経済学の実験結果では人は通常――このケースだと「とどまる」ことを選択することがわかっている。ぼくの方が異常なのだ。その判断は経済的合理性にもどづいたものではなく、人の感情的なものだが、だからこそそれを説得するのはむずかしい。
 腹をくくるしかないのだけれど、そう思ってはいても、次々にでてくる福島原発の状況に肩がぱんぱんになり、おろおろと吐きそうな気分……。
 これはきつい。
 そこで自己正当化を試みた。
 上記の考えはあやまっているのではないか。
 たとえば、b2は日本経済大打撃としているが、これはa2と同じで被害無限大ではないか――。次のようになる。

格納容器が無事格納容器が破損
とどまるa1.被害なしa2.被害無限大(死亡)
避難するb1.失職、人間関係の破綻b2.被害無限大(生存)

 そうすると、話はちがってくる。a2-b2の被害の大きさは単純にぼく個人の価値しかないからだ。どのくらいかわからないが。つまり問題は|(a2-b2)*破損の確率|>|(a1-b1)*無事の確率|であるか、どうかということになる。(a2-b2)=(a1-b1)ではないが、仮にそうであっても、破損の確率が無事の確率と同じでなければ、「避難する」に賭ける意味はない、ということになる。

 あー、ほっとした。どうやら最初の判断がまちがっていたようだ。

2011年3月13日日曜日

東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日(金))

 歩きに違和感があった。
 急に足元が柔らかなくなったような違和感。踏み出した足が微妙にずれた場所を踏んでいるような感覚――ふらついているのか?
 眩暈?
 iPhoneでGorillazを聞きながら帰宅している途中だった。
 立ち止まって音楽を止めた瞬間、揺れているのは自分ではなく、地面なのだ、ということがわかった。揺れている。でかい。そして、いつもならこのあたりで弱くなる、と思われるときに、揺れがさらに大きくなった。国道の向かい側では街路樹がわさわさと音をたてながら揺れ、電線がうねり、ビルが揺れている。
 前方ではおばさんふたりにおじさんがひとり、固まって騒いでいる。
 かたわらのビルを見上げた。
 ベランダに植木鉢が置かれたりしてないか、と不安になったのだ。ない。しかし、何か落ちてきたら最悪だ。そのビルの下に入る。一瞬、ビルが崩れたら、とも思ったが、そのときはかたわらに立っていたら確実に落下物でひどい目にあうだろう……。
 おばさんたちの喚き声が聞こえる。
 なかなか揺れはおさまらなかった。
 車に乗っている人は気づいてないのか、目の前を通りすぎていく。
 揺れがおさまったときには自分が興奮していることに気づいた。とりあえず、家人に安否をたずねるメールを送り、帰路についた。国道では車が徐行している。ふりかえって交差点を見ると、渋滞していた。事故があったのかもしれない。どこかからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
 店の防犯ベルらしい電子音が鳴り響いている。
 その音を地震警報とかんちがいしたおばさんが喚いている。
「また、来るんでしょ、またっ。ほらっ、鳴ってるっ」
 横を通りすぎ、道端でしゃがみこんでいる女性のかたわらを抜ける。そこでまた、微震を感じた。足元が揺れた感覚があった。
 車は通りすぎ、人々は何事もなく、横断歩道を渡っている。
 ――ここまで大きかったのはひさしぶりだな、と考えながら歩道橋を上った。そこから見下ろす交差点の風景はいつもとかわりなかった。揺れたとき、どんな様子だったんだろう……。マンションに帰りつくと、セコムの警報が鳴りつづけていた。
 そこでようやく気づく。エレベーター、停まってるんじゃ、ね?
 案の定だった。
 停止していた。
 セコムに連絡はいっているだろうが、いつ復旧するか、わからんな、と判断して非常階段を上りはじめた。今日はずいぶん、歩かされる日だな……、と思いながら。玄関前のフロアでは自転車がひっくり返っていた。
 自宅に入って唖然とした。リビングへつづく廊下に並べてあった本棚が全部、倒れている。自分の部屋の本棚も全滅だった。斜めにぶっ倒れ、本が散乱している。買ったばかりのシュレッダーと、プリンタと、パソコン本体が落下し、転がっていた。とにかくぐしゃぐしゃだ。

 正直、ここまでの惨状は予想してなかった。
 今までのようにだいじょうぶじゃないか、となんとなく思っていたのだ。
 動かしていた洗濯機は停まっていたが、これは地震のせいなのか、どうかはわからなかった。とにかくキッチンまでいかなければ、と思い、本棚をどかし、散乱した本をまたいで廊下を抜けた。途中で鍋にいれた味噌汁のことを思い出した。昨晩、ひさしぶりにつくった味噌汁だ。ひっくり返ってるだろうな、と思ったが、鍋は無事だった。中身は半分ぐらいガスコンロにまきちらされていたが。
 シンクのまわりのものはいろいろとひっくり返り、ブリタにいれていた水のせいで床はびしょ濡れだった。植木鉢は転がり、置時計はシンクの丼の中に浸かっていた。さいわいだったのはメダカの水槽が無事だったことだ。
 食器棚の中身はさすがに放りだされ、割れたグラスの破片が散っていた。
 二匹の飼い猫の名前を呼ぶが、返事はなかった。おびえてどこかで震えているのだろう。落下物に潰されているなら声が何か聞こえるはずだ。それはなかった。
 リビングのテレビをつけ、震源が東北の方だ、と知る。数日前の地震と同じ震源だ。被害の程度はわからない。津波警報がでていることを伝えている。
 自室にもどり、パソコンをチェックした。動かしっぱなしで出かけていたのだが、再生していたDVDはエラーになっていたが、他は問題なさそうだった。さすがSSD。衝撃に強いな、と感心しながら――台から落下していた――、インターネットの地震情報をチェック。
 驚いたことにtwitterは問題なく、タイムラインを流していた。
 Googleのリアルタイム検索でサーバールームでラックが倒れ、腹を潰され、だれも気づいていない、血がでている、助けてくれ、というメッセージを見てしばし、固まる。だいじょうぶか、と思ったが自分がどこにいるか、肝心の情報がない。いろいろと見ているうちに、いたずらではないか、と思えてきた。あまりにも冷静な文章の上、状況から考えると、ツイッターではなくメールでだれか知り合いに連絡できるはずだし、twitterのダイレクトメッセージもある。
 何かおかしい。いずれにしても、どうすることもできないし、サーバールームのラックが簡単に倒れるとも思えない。いたずらだとしたらこの震災の状況でこういうことをする人間がいるんだ、ということに唖然とした。震災の状況を知らなかっただけかもしれないが。最終的にこの件に関しては住所がわかった段階でデマと判断した。存在しない住所だったのだ。
 いずれにしてもテレビ――Ustrem――とネットの情報でかなりの震災だということがわかってきた。マグネチュードも8.8に変更された。そうこうしているうちに津波の様子が伝わってきた。港では漂流しはじめた桟橋が駐車場のビルに衝突し、船が――漁船よりも大きく、タンカーよりも小さな――堤防にただ、押し流されて衝突した。
 沖から押し寄せてくる津波も放映された。遠目にはまるでサーフィンに最適なきれいなセットブレイクの波に見えた。正直、まかれたくない、と思えるものだった。死ぬ。
 無力を受け入れるしかない状況だった。
 何かしなければ、と善意でデマを拡散させてもしかたがない。
 できるのは自分のまわりの何人か、の無事を確認することぐらいだろう……。
 とりあえず、行方がわからない家人と猫が心配だ。twitterをやらせておけば、よかった、と思ったが後悔してもしかたがなかった。Googleの消息検索サービスと携帯電話の検索サービスをチェックし(いずれも情報なし)、パソコンからメールを送っておく。携帯電話の回線は使用できないだろう。Skypeは使えるということだったが、相手が携帯電話、固定電話では無理のようだった。心配しているだろう実家へ連絡する術もなさそうだった。

 ――猫は、一匹は布団の下で怯えているところをすぐに発見した。そのあとすぐ、余震ですさまじい勢いで駆け出し、ベッドの隅に逃げ込んでしまったが。
 もう一匹がどうしても見つからない。
 一番心配していた本棚の下敷、ということはなかった。しかし、他の場所にも姿はない。見当たらない。もしどこかで潰されているなら臭いがするはずだろうからどこかで震えている、と考えるしかなかった。
 妹からメールがあり、その返事をだして震災の状況を見つづけた。
 濁流となった津波が田畑を飲みこんでいくシーンに息を飲み、車が何台も空箱のように固まって流されていくシーンに唖然とした。ガスタンクが爆発し、そして、福島原発。
 余震はつづいている。
 夜になって燃え上がる気仙沼の様子が放映された。
 JRと地下鉄は運行を停止しているという。
 そこへようやく家人からメールが到着した。
 銀座線、大江戸線が復旧し、家人が帰宅できたのは夜中近くだった。

 ※最後まで行方がわからなかった飼い猫はここにはいないだろう、と思っていた棚の上に目を真っ黒にして隠れていた。

2011年3月11日金曜日

Evernote vs Emacs+howm+org+Dropbox

 Evernoteはすばらしい。
 よくできたシステムだと思う。
 ありとあらゆる情報を放りこみ、クラウド経由でパソコン、スマートフォンでその情報を共有できる――すばらしい。検索機能も充実していてまさに夢のようなソフトウェアだ。Evernote以前は複数台のパソコンでの情報の同期とその散逸に頭をいつも悩ませていた。
 とにかくひとつのフォルダ配下にファイルに放りこんで複数台のパソコン間はsyncコマンドで同期する――というようなことをやっていた。当時はスマートフォンもなかったのでそれで充分に思えたのだが。問題はひとつのフォルダの下にどんどんファイルを入れていくと情報を探し出すことが困難になっていくことだ。ファイル名にいくら情報を付与してもそれは焼け石に水。
 もちろんその解決策としては検索機能の充実なのだが、それは昔からあるgrepコマンドを使用していた。テキストファイルしか検索できないとか、文字コード系の混在に弱いとか、いろいろ問題はあれど、これはこれでなかなか強力な手段だった(Googleデスクトップという選択肢もあったが、Emacsからシームレスに作業できなかった)。

 そうして辿りついたのがEmacs+howm+org+Dropboxという選択肢だった。
 howmにファイルの管理と検索機能をまかせ、個別のファイルの情報の整理、統合――アウトライン、タグ、リンク(howmのリンク機能およびメニュー機能は使用していない)、todoなどはorg、Dropboxはsyncのかわりで複数のパソコン間でファイルの同期を行なってくれている。
 スマートフォン上での入力、参照、検索機能をのぞけば、Evernoteの機能と同等のことをやっていたわけだ。テキストファイルに関してだけだが。
 単体のEvernoteにはorgのagenda機能はないのでその分、高機能ともいえるかもしれない。
 ちなみにhowmはgrepを使用することができるけれど、ぼくはhowmの検索を使用している。elispで書かれているため、速度的にはgrepに劣るが、文字コード系の混在――ファイルごとに文字コードがちがう、という状況――に対応できるからだ。

 実はそれらのシステムをEvernoteに移行してしまうことも考えた。
 Evernoteの(ぼくにとっての)最大の魅力はiPhone上で入力できる、ということと、写真、音声、pdf、htmlファイルをあつかえるということだ。
 もちろん、htmlに関してはEmacsでもw3mとかを導入すれば、可能だということもわかっているのだが――ブラウザからの直接の取り込みができないということもあって、いまいち乗り気になれなかった。Evernoteはそれができる。Evernote以前はFirefox+ScrapBook+Dropboxを使っていたが、やはり写真(htmlの中の画像ではなく)などが使用できるEvernoteの魅力には抗し難い。
 しかし、今のところ、Emacs+howm側はまだ、Evernoteへ移行していない。

 なぜか。

 せんじつめていえば、個人的理由になる。
 テキストに関してはEmacsに束縛されてしまった。そういう身体になってしまった、というのが一番、大きい。キーバインドがEmacs以外ではとてもストレスを感じてしまうのだ。SKKでのかな漢字変換になれてしまうと、もうあとにはもどれない。これはたぶん、もう不治の病なのだろう……。

 しかし、あえて理由を探せば、Evernoteはテキスト入力が貧弱だということもあるかもしれない。
 テキストの表現としてはhtmlに準ずる形になっているのでEmacs(というか、org)よりも上かもしれないが、アウトライン機能がないのはけっこう致命的だ。Evernoteはノート上ではなく、ノートの集合でアウトラインを実現しているようなものなのだが――しかし、入力しながら考えをまとめる、という作業には適していない。それともそれもしょせん、慣れなんだろうか。
 ただ、これは別にEvernoteで実装すべき機能ではなく、todo管理などと同じように周辺ソフトで行なえば、いいことなのかもしれない。

 というわけでしばらくはテキストはEmacs側、それ以外はEvernoteという選択になりそうだ。Evernote for iPhoneで入力されたテキストはEvernoteのエクスポートファイルから一気にhowmに取りこむelispプログラムも書いてあることだし。

 余談。
 Evernote for Windowsにはインポートフォルダの指定がある。これをhowmフォルダに指定してやれば、Emacsで入力されたデータがEvernoteへ自動的に取り込まれることになるのだが、修正すると、別ノートとしてEvernoteへ取り込まれてしまう。それだとテキストの修正はEvernote上でやらなければ、ならなくなってしまう。修正した内容はインポートフォルダへ同期されないようだし。まぁ、インポートフォルダなんだから当然といえば、当然だけど。

2011年3月5日土曜日

本多猪四郎監督「ゴジラ」



 子どもの頃――たぶん小学生の夏休みに怪獣映画のテレビ放送をよくやっていて「ガメラ対ギャオス」など何度も観たりしていたのだけれど、「ゴジラ」は一度,観ただけだった。しかも途中からで、たぶん、芹沢博士が開発したオキシジェン・デストロイヤーを使用するべきか、どうかでもめているあたりからだった。それでも熱中して観て最後の水中のシーンはかなりもの悲しい気持ちになったのよく覚えている。
 どこをどう解釈していたのか、わからないのだが、なぜか、ゴジラは芹沢博士が生み出したのもので――大きな水槽にさまざまな魚が泳いでいたので、その中で生み出されたと勘違いしていたようだ――、その後始末のためにオキシジェン・デストロイヤーを造ったのだ、と思っていた。しかもゴジラはどこかの湖にいる、とまで考えていたのだ。水槽から逃げ出したゴジラが湖で暴れていた、というわけ。
 子どもの想像力はおそろしい。
 たぶん似たような内容のモンスター映画でも観ていたのだろう。それなりに整合性もとれているし。全然、勘違いだったけれど。

 不思議なもので勘違いしているということに、今回、「ゴジラ」を視聴するまで気づいてなかった。いや、「ゴジラ」は水爆が生み出した怪獣だという知識もあったし、東京で暴れるシーンは何度か、テレビで「ゴジラ」を語るとき、流されるので知っていたはずなのだが――それが自分の記憶とリンクしてなかった。まぁ、よく覚えていなかったということもあるが。たぶん、知識と記憶が頭の中で別々のフレームワーク上にでも格納されていたのだろう。
 ※最近、こういうことはぼくだけに限ったことではない、ということを「え!?絵が下手なのに漫画家に?」で知った。

 で、「ゴジラ」だ。
 正直に言おう。傑作である。
 観る前は斜に構えていたのだが――どうせ世紀の傑作とかいわれていても所詮、日本映画と――、驚嘆してしまった。たしかに俳優の演技がへただとか(さすがに志村喬はすばらしいが)、ガイカーカンウターを船縁から海に向けてゴジラを探すのはおいおい、という感じではあったけれど。
 時代が生んだ徒花のような、奇跡的な傑作なのかもしれない。
 とくに戦争の記憶が消えつつあった公開当時はその記憶が亡霊のように甦るような恐怖感があったのではないか――。

 そして、はじめてきちんと「ゴジラ」を観てはじめてわかったのだけれど、「ガメラ 大怪獣空中決戦」はまちがいなく、「ゴジラ」のフォーマットを参照、取りこんでいる。元々、「ガメラ 大怪獣空中決戦」はガメラシリーズの様々な換骨奪胎が行なわれているけれど――オマージュと呼んでもいいのかもしれないが――、まさか「ゴジラ」までとは思わなかった。
 冒頭の夜の海のシーン。船舶への謎の出来事。怪獣の伝説。嵐の夜に起きる暴威。海の中から出現する怪獣。破壊される電車……すべてが終わり、最後に登場人物のつぶやきすらどこか似ているではないか。もちろん平成ガメラでは役割がガメラとギャオスに分担させられているが。

 それにしても「ゴジラ」はすばらしい。
 戦争経験がないにもかかわらず、息を飲むようなシーンがいくつもあり、戦慄させられた……。その鮮かさだけでもぼくには充分、傑作だ。

2011年3月2日水曜日

それは四角ではない

 それが小学生のときだったのか、中学生のときだったのか、よく覚えていないのだが、教師のところに質問に行った。数学の質問で、四角形の内角の和について、だった。
 ある四角形の内角の和が360度にならないような気がしたのだ。
 どんな四角形からというと、鏃のように一角が内側に凹んだ図形だ。ぼくは教師に説明した。どういう風に説明したのか、まったく覚えていないのだが、最終的には、内角の和が360度にならないでしょう? どうしてなんでしょう? と答えを求めた。どこか、勘違いしていたはずなのだが、それが知りたくて教師に質問しに行ったわけなのだが――。
 そのとき、教師はこう答えたのだった。

 ――これは四角形じゃない、と。

 なんという目から鱗。
 なんてことはなく、当時のぼくですら唖然とした。
 今さら口をきわめて罵っているところだ。それ以前に質問に行かないだろうが。

 ちなみに当時のぼくはおそらく「内角」の場所をまちがっていたのだろう、と思う。

2011年3月1日火曜日

Instapaper->ePub->iBook

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 きっかけはRead Laterだった。
 ブラウザでInstapaperをのぞいてみたところ、右にDOWNLOADという項目があることに気づいた。「Printable」「Kindle」「ePub」とある。これはePub形式で溜めこんだ記事をePub形式で出力してくれる、ということではないか?
 さっそくダウンロードしてみた。
 ところがBookmanというiPhoneのソフトはePubに対応していなかった上、Stanzaではうまく表示されない。うーむ。calibreでpdfへ変換したが、送りこんでみたが、いまいちの表示だし。
 やはりePubを直接、見れないかな、としかたなく、iBook for iPhoneをインストールした。

 おっといいじゃん!

 特に気にいったのは読みやすいフォントサイズで一行が画面に収まることだ(フォントサイズを大きくしても画面に収まるように折り曲げをやってくれる)。htmlやPDFだとわざわざ画面をスクロールさせない、といけなかった。そのせいでiPhoneであまり文書を読もうという気になれなかったのだが。
 これならOKじゃん。
 気に入った。

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