一九世紀と二〇世紀には、自由主義は社会的な信用と政治的な力をしだいに獲得するうちに、二つのまったく異なる分派を生み出した。じつは多くの社会主義運動と共産主義運動を網羅する社会主義的な人間史上主義と、ナチスが最も有名な提唱者とする進化論的な人間史上主義だ。どちらの分派も、人間の経験が意味と権威の究極の源泉であるという点では自由主義と意見が一致する。どちらも、超自然的な力や神の法が書かれた書物の存在は信じていない。たとえば、煙の立ち込める工場で一二時間交代制で一〇歳児が働くことのどこが悪いかとカール・マルクスに尋ねたら、子供たちが嫌な思いをすることだという答えが返ってきただろう。私たちが搾取や圧制や不平等を避けるべきなのは、神がそう言ったからではなく、それらが人を惨めにするからだ。
一九一四年から一九八九年まで、これらの三つの人間史上主義の宗派間で凶悪な宗教戦争が猛威を振るい、最初は自由主義が次々に敗北を喫した。共産主義とファシズムの政権が多くの国を支配下に収めただけではなく、自由主義の中核を成す考え方が、よくても幼稚、悪くすれば危険そのものとして笑い者にされた。個人に自由を与えさえすれば、世界は平和と繁栄を享受できるだった? 恐れ入りました。
この三つ巴の闘いについては笠井潔の「例外社会」で既知だったので違和感はなかったのだけれど、ふと思ったのは——では日本は何だったのだろう、と。ドイツと手を組んでいたからファイシズムか、というのもちがうような気がする。
むしろ。
有神論の宗教は、世界はさまざな生き物から成る議会ではなく、偉大な神々あるいは唯一神が支配する神政国家だと主張し始めた。私たちは普通、これを農業と結びつけることはないが、有神論の宗教は、少なくとも当初は農業と直結した企てだったのだ。ユダヤ教、ヒンドゥー教、キリスト教といった宗教の神学や神話や礼拝はもともと、人間と栽培化された植物と家畜化された動物との関係を中心としていた。
とあるように、農業革命のときに発生した宗教の宗教戦争だったのかもしれない。
**は稲作の神だったというから。