2012年7月20日金曜日

ダンカン・ワッツ「偶然の科学」


ダンカン・ワッツ「偶然の科学」

 タイトルはほんとうにこれでいいのか?
 どこにも偶然について書かれていないようだし、原題も直訳すると「すべてはあきらか」のようだが――これはなるほどな、と思った。そうではない、という本だからだ。

 昔のことだ。
「バブルが弾けることはわかっていた」とのたまう人がいた。何かでいいあらそいをしてそういうセリフがでてきたのだが、ぼくはそのセリフを聞いて思わず、唖然としてしまった。
 というのもその人は競馬などの本を出したことがあるライターだったからだ(たしか)。ぼくが唖然としたのはギャンブルをやっていて未来が予測可能だと、考えることが理解できなかった。ギャンブルをやっていれば、未来は予測不能であることは身に染みてわかっているはずではないか――。
 まぁ、今なら、未来は予測可能だと思うから人はギャンブルにはまるものだ、ということはわかるが――タレブがいうようにギャンブルは予測不能なものではない、ということも承知しているが。
 結局、「わかっていた」と思っている人間を説得することはできなかった。今になって思うのはこういってやれば、よかったのだ。
 皮肉そうに唇を歪めて「大金持ちになるチャンスを逃しましたね、**さん」。

 中でタレブの「ブラック・スワン」にも言及しているが、この本はタレブとはちがった形で、未来が予測不能であることを書いたものだ。たぶんこういうことをいっているのだろう。ストーリーの形でしか、物事を認識できない我々は関連性があきらかになる事後にしか、物事を理解できない。と。
 ちがうだろうか。
 よくよく考えてみると、本を読むという行為がまさにそうだ。
 本を最後まで読んでみない、と何について書かれていたか、わからない。主語の次に述語がくるという法則がわかっていてもその内容は最後まで読み通さないとわからない――。