それでも、読書をやめない理由
人間なんてそう変わらない。
千年、二千年たったところで根本的に人間というものの造りが変わることはないのだから――といつも考えていたのだが、実はそうではないのかもしれない。たとえば、グーテンベルクが印刷技術を発明し、本というものが生まれる以前に人間が感じていた世界と、以降の人間が感じている世界が同じか、どうかなどだれもにわからないことだ。
文字を経由せずに残された情報など、ない以上。
以前ならそんなに違うわけはないだろう、と思っていた。今は違っているのかもしれない、と思っている。人間は脳の可塑性が大きいからだ。それならインプットされる情報の量、質、方法によって変わってしまってもおかしくない。
読書のとき、その本を内面化しているというのなら、読書そのものが存在しなかったグーテンベルク以前では脳のニューロンの構成が違っていてもおかしくない。
デヴィッド・L. ユーリン「それでも、読書をやめない理由」を読んで不思議なことだが――自分の中では何の不思議もないのだが、ふと笠井潔の「秘儀としての文学―テクストの現象学へ」を思い出した。
私は、なぜ書くのか。
それは<私>が<私よりも深い私>で出偶うためにであり、視えないものを視るためであり、真実の生と死を体験し、生命と宇宙の深淵に闇よりの輝かしい暗い光の炸裂をもって突入するためにである。
「秘儀としての文学 断章5」より
書くことも秘儀だが、読むこともまた、秘儀といえるのかもしれない。
書くことは読むことと同義なのだから。