2012年3月31日土曜日

浦沢直樹「20世紀少年/21世紀少年」


浦沢直樹「20世紀少年」(22)
浦沢直樹「21世紀少年」(上)
浦沢直樹「21世紀少年」(下)

 遅ればせながら浦沢直樹「20世紀少年」と「21世紀少年」を読み終えた。連載中はちらっと見て、これっていましろたかしの「デメキング」のパクリじゃーん、と思って読んでなかったのだが(ちなみに「21世紀少年」でも「デメキング」のパクリじゃーん、とは思った)。
 いやぁ、おもしろかった。
 第三部以降に一見、納得しづらいところがあるのだけれど、それにしてもヴァーチャル・アトラクションの内容が書き換えられていた、と考えれば、納得がいく。実際、第三部の冒頭にそう考えてもいいようなエピソードが挿入されていることだし(別の人間の記憶を上書きみたいな感じ?)。

 地下鉄サリン事件が起きたのが1995年3月20日。
 「20世紀少年」の連載の開始が1999年だということを考えると、よく作者はこの題材をあつかったなぁ、と感心してしまう。もっとも作者にはオウム事件を批判的に超えようとする意図はまったくなく、たんに題材としてストーリーに取り込んだようだが――それがゆえに個人的には気に喰わない設定が「20世紀少年」にはある。主役のひとりである遠藤カンナが超能力をもっているという設定だ。
 超能力と新興宗教を結びつける設定は地下鉄サリン事件以前、たとえば、夢枕貘などに代表される一連の伝奇もので一般的だっただろうし、それより以前にも山田正紀の「顔のない神々」という作品もある。
 しかし――個人的な考えにすぎないが、その設定は地下鉄サリン事件の衝撃で失効してしまった。にもかかわらず、「20世紀少年」でその設定が延命しているのはおそらく作者が地下鉄サリン事件にたいして無自覚だったからだろう。批判的にあの事件を消化するには四年はやはり短すぎるように思う。
 実際、第三部以降ではその設定――超能力――をめぐり、紆余曲折をくりかえし、最終章の「21世紀少年」ではかなり悪戦苦闘しているように見える。落とし所をさがしあぐねているように。

 ちなみに「デメキング 完結版」は(連載部分に関して)地下鉄サリン事件以前――1991年の発表で、オウム事件的な要素は皆無だ。それでも加筆した部分には若干、オウム事件の影響が垣間見えておもしろい。


デメキング 完結版

2012年3月26日月曜日

稲垣理一郎/村田雄介「アイシールド21」


稲垣理一郎/村田雄介「アイシールド21」

 ふと最初の方を読み返したくなり、読んでいるうちに止まらなくなり、一日かけて全巻、読み直してしまった。元々、連載中から毎週、ジャンプで読んでいて単行本も買っていて、気に入っていたということはあるのだけれど――読んでいるあいだ、何度となく、泣いて涙と鼻水を流してしまった。
 よくできているんだよねー。
 連載中、最後はさすがにボルテージが落ちたな、と思っていたアメリカ編ですら号泣モードだった。というか、あらためて読み直してみると、アメリカ編もわるくない。
 そうして思ったのが、最近の少年マンガってすごいな、ということだ。
 涙もろくなっているということがあるにしても、自分がほんとうに少年だったときに読んでいた少年マンガで泣いた記憶がない。手塚治虫とか、石ノ森章太郎とか、永井豪とか、梶原一騎とか、けっこう大家のマンガでもおもしろくて夢中になっていたけれど、感動した記憶はほとんど、ない。「デビルマン」のラストぐらいじゃないかな、ほんとうに感動したのは。
 もしかしたら少年のときのぼくに感情がなかっただけなのかもしれないが、どうも記憶をたどるに、少年マンガでやたらと泣かされだしたのは少年ジャンプの「キン肉マン」「リングにかけろ!」以降のような気がする。もちろん作品によってなのだが。

2012年3月25日日曜日

安部公房「箱男」


安部公房「箱男」

 安部公房、すげーっ。
 もしかしたらエリック・マコーマックの「パラダイス・モーテル」より好みかもしれない。「他人の顔」を読んだとき、ラストにのけぞってしまったことを思い出した。
 たぶん「箱」はカメラを暗喩しているのだろう……。
 見る者と見られる者。
 そう思ったものの、それはぼくが昭和生まれだからかもしれない。
 もしかしたら平成生まれの人間にはカメラを「箱」と思わないのではないか――レンズ付フィルムが世に出回り、デジカメ、果てには携帯電話の機能のひとつになってしまった今は。

2012年3月18日日曜日

デヴィッド・L. ユーリン「それでも、読書をやめない理由」


それでも、読書をやめない理由

 人間なんてそう変わらない。
 千年、二千年たったところで根本的に人間というものの造りが変わることはないのだから――といつも考えていたのだが、実はそうではないのかもしれない。たとえば、グーテンベルクが印刷技術を発明し、本というものが生まれる以前に人間が感じていた世界と、以降の人間が感じている世界が同じか、どうかなどだれもにわからないことだ。
 文字を経由せずに残された情報など、ない以上。
 以前ならそんなに違うわけはないだろう、と思っていた。今は違っているのかもしれない、と思っている。人間は脳の可塑性が大きいからだ。それならインプットされる情報の量、質、方法によって変わってしまってもおかしくない。
 読書のとき、その本を内面化しているというのなら、読書そのものが存在しなかったグーテンベルク以前では脳のニューロンの構成が違っていてもおかしくない。

 デヴィッド・L. ユーリン「それでも、読書をやめない理由」を読んで不思議なことだが――自分の中では何の不思議もないのだが、ふと笠井潔の「秘儀としての文学―テクストの現象学へ」を思い出した。

 私は、なぜ書くのか。
 それは<私>が<私よりも深い私>で出偶うためにであり、視えないものを視るためであり、真実の生と死を体験し、生命と宇宙の深淵に闇よりの輝かしい暗い光の炸裂をもって突入するためにである。

 「秘儀としての文学 断章5」より

 書くことも秘儀だが、読むこともまた、秘儀といえるのかもしれない。
 書くことは読むことと同義なのだから

2012年3月17日土曜日

浦沢直樹「20世紀少年」(9):ラビット・ナボコフ


浦沢直樹「20世紀少年」(9)

 みんな。
 もしカジノでラビット・ナボコフをやっていたら即参加だ。
 むっちゃゲスト(子)に有利なルールじゃないか。
 親のカードを見て参加(ペレストロイカ)を決めることができて参加しないのなら「マトリョーシカ」といって見送れば、いい。しかも参加料はないようだ(マンガの中では)。
 いろいろルールはあるようだが、ペレストロイカするのは親がジョーカーを引いたときだけでいい。なぜなら子がハートの2を引けば、ラビット・ナボコフで100倍づけだ。単純に考えて52回に1回、ハートの2を引けるのだから100倍なら充分、期待値はプラスじゃないか。
 さあ、みんなでハウス(親)を殺しに行こう。

 ルール参考=>ラビット・ナボコフ