2011年2月28日月曜日

ジェイムズ D.スタイン「不可能、不確定、不完全―「できない」を証明する数学の力」

不可能、不確定、不完全―「できない」を証明する数学の力

 内容とはあまり関係がないのだが、この本を読んでひとつの確信を得た。まちがっているかもしれないし、ただ、勘違いをしているだけなのかもしれないが。
 それは重力はどのくらいの速さで伝わるのだろう、という疑問への答えだ。
 光は光速で伝わる。
 ゆえに人間が知ることができるのは光が届く範囲内のことだ――。
 その程度の知識はあるのだが――これすらぼくの勘違いである可能性はあるが――、重力がどのくらいの速度で伝わるのか、読んだ記憶がない。もしかしたらググれば、どこかに情報はあるのかもしれないが……。
 たとえば、超新星の光が地球に届いた瞬間に、人間は超新星の存在を知ることになる――が、その超新星の引力の影響は受けるのはいつからなんだろう……。見えた瞬間か、それとも超新星が誕生した瞬間から影響を受けているのか。
 そんなことを考えていると、夜も眠れない。
 ところが「不可能、不確定、不完全―「できない」を証明する数学の力」の中に次のようなことが書かれてあった。
 アインシュタインの理論は、質量がゼロでない粒子が光速で移動するためには無限大のエネルギーが要ることを示していた。
 また、こうもある。
このことは、光の光速で移動することを防げない。なぜなら、光の粒子である光子には質量がない。そもそも静止質量からしてないのだから。
 ということは、だ。
 光子でなくても質量ゼロの粒子は光速で移動できるということではないか――。
 これはつまり重力がまだ、発見されていない粒子――グラビトンで伝わるのならすくなくとも光速を超えることはないが、質量がゼロであるなら光速で重力は伝わる。

 この解釈が正しいかどうかは知らないが、おかげでこれから夜が眠れなくなることはなさそうだ。

2011年2月17日木曜日

小松左京監督「さよらなジュピター」

さよならジュピター

 ウィンドサーフィンをはじめたのはもう三十年近い前で――ウィンドサーフィンの専門誌「ハイ・ウィンド」が創刊された頃だった。熱中と倦怠をくりかえしながらも延々とウィンドサーフィンをやってきたけれど――今は倦怠期――、その間の道具の変遷には驚くほどだ。
 道具を使うスポーツならどれでもそうなのかもしれないが、道具の進歩がパフォーマンスのレベルを簡単に向上させてしまう。そうなると、かつて先鋭的だと思えたデザインがものすごくダサいものに見えてくるのだから不思議だ。


 先年、津波が日本に押し寄せてきたとき、YouTubeにハワイの様子という感じで動画がアップされた。
 それを見たとき、ぼくは即座に違和感を覚えた――ほんとうに今の映像なのか、これ、と。なぜか? 中に映っていたウィンドサーフィンの道具が信じられないぐらい古いものだったのだ。今、この時代にこの道具はありえねえ……。
 Twitterではハワイがこんな状態に!という発言が飛び交っていたのを尻目に、YouTubeの他の動画を検索してみたらまったく同じ動画があらわれた。昔の津波の動画をだれかが再アップしたものらしい。どういう意図があったのか、わからないけれど。


 それはどうでもいいのだけれど、映画「さよならジュピター」を見たときには純粋にこまってしまった。
 「さよならジュピター」は知る人ぞ知るSF映画で、木星を開発している集団があり、それに反対する自然を守れ、というセクタとの争いをしているところにブラックホールがやってきて……という未来を舞台にした宇宙SF映画だった。その中で主人公が自然派の御大のところをたずねるシーンがある。
 たぶん沖縄で撮影したものだったと思うのだけれど、美しい海が広がる中、一艇のウィンドサーフィンがゆっくりと画面を帆走していった――。
 それを見たときはぼくは目を大きく見開き、心の中で叫んでいたのだ。

 ――古っ! 未来なのに古っ!

 ウィンドサーフィンの道具が当時としてもすでに古い一世代前のものでダサかった。

2011年2月15日火曜日

ホームシュレッダー

シュレッダーハサミ

 別にそんなに気にすることはないのかもしれないのだが、いろんな郵便物は裁断するようにしている。まぁ、株式の取引報告書とか、送られてくるわけだし、わざわざ自分の住所が入っている情報をそのままにして捨てることもないだろう……。
 というわけでシュレッダー用のハサミ――五つのハサミを重ねたようなハサミで裁断していたのだけれど、これが実に面倒臭い。個人用のシュレッダーなんて必要ないと購入したのはよいのだけれど。
 これは商品が悪いというわけではなく、むしろ最初のうちは感動すらしていたのだが――人間はどんなことにでも馴れるもので面倒になってしまったのだ。郵便物をいろいろとためこんでしまうという悪癖もあるし、プラス、ハサミでは裁断した破片があたりに注意していたとしてもどうしても散ってしまう。
 とくに最近は競馬用の印刷を使い古しの裏紙にしていたので、その処分もある。
 安いシュレッダーないかな、と調べてみたところ、あっさり見つかった。
 5000円台。電動式。
 安物じゃないか、という不安感を押し殺してポチッとな。注文した。
 その翌日に荷物が届いたのも驚いたが、使ってみてあまりの楽さに驚いた。今までの苦労はなんだったんだ……。ダイレクトメールも片っ端から放りこめるし、それ以外の書類はとりあえず、送られてきた書類はスキャナに取りこんで裁断。
 快感だ。
コクヨS&T デスクサイドシュレッダー <RELISH> スノーホワイト KPS-X80W

2011年2月11日金曜日

永井豪「激マン!」

永井豪「激マン!」(1)

永井豪「激マン!」(2)

自分が生きた証拠にこの世に自分のマンガ作品をたとえ一作でも描き残すと!

 その決意は死を実感したときから――自分は死ぬかもしれない、と考えたときからはじまったのだ、という。それにたいして不思議な気分になるのはだれもでも人生で一度は『死』というものを実感するものだろう……なのに、多くの凡夫はただ何事もなく、生きていくだけなのに、永井豪は永井豪になった。
 今まで死をすぐそばに感じたことは何度か、あるが、この世に自分の生きた痕跡を残したいと思ったことは一度もない。死んだら無に帰るだけだろう、という想いの方が強いのだ。そのあたりが凡夫である証拠なのかもしれないが。
 はじめて『死』を感じたのは小学四年のときだったと記憶している。
 そのとき、ぼくは習字塾で席が空くのを順番待ちしていた。
 ふと、何の気まぐれか、死を想像しようとした。
 死とはどんな状態なんだろう、と。
 五感とひとつひとつ、消していき、何も感じない暗闇の中に浮かんでいる自分というものにたどりつき、そこからさらに思考すらないのだ、と進んだ。この想像する自分すら存在しないのだ、と。そこまで限界だった。恐怖に目が見開いた。
 わーっ、と叫び出したい気分。
 あたりの人間の肩を叩きまくり、こわかったよーっ、とまくしたてた。まわりの人間はきょとんとしていたが。

2011年2月10日木曜日

ニック・レーン「生命の跳躍――進化の10大発明」

生命の跳躍――進化の10大発明

 訳文がいまいちのなのか、原文がそうなのか、それともこちらにリテラシーがないだけなのか――所々、意味の把握できない文があったのだけれど、ひさびさに興奮させられた一冊だった。やはり科学はおもしろい、と。
 とくに真核細胞の核膜についての知見には驚嘆してしまった。
 核――DNAが核膜によってほかから隔離されているのはDNAを守るためだとばかりずっと思っていた。生命の設計図たる遺伝子が壊れないように保護しているのだ、と。それが実はそうでない可能性があるという――詳しい内容については本書を参照して欲しいのだけれど、思わず唖然となってしまった。
 自分の知っていることがすでに古いものになっているのだ……。
 ポパーではないが、科学は永遠に自己更新を繰り返すシステムなのだな、と。科学と同じように世界を語る言葉であるはずの宗教が容易に原理主義や教条主義に陥るのに反して。
 まるで進化をくりかえす生命のようではないか。