2012年10月17日水曜日
ダーレン・リン・バウズマン監督「ソウ2」「ソウ3」「ソウ4」
「ソウ」シリーズが話題になっているとき、おもしろそうだなー、観たいなー、とは思っていたのだけれど、最終的に公開時には観ることはなかった。どうせスプラッター色の強い連続殺人鬼ものか、と。
やはり人気があるということはあなどれないもので、一応、「ソウ5」まで観たのだが、「ソウ2」「ソウ3」「ソウ4」は傑作だ。それまでの作品に依存している部分があるという欠点はあるけれど――それがゆえに、おもしろい、という。こんなに、うおっ、だまされたっ、こうきたかっ、やられたっ、と喚いたことはない。逢坂剛の「水中眼鏡の女」「百舌の叫ぶ夜」、乾くるみの「イニシエーション・ラブ」並の、驚愕のラストだった。
つづいて観た「ソウ5」は今までよりも画面がクリアだし、セットも金がかかっているなぁ、と思っていたら最後に監督がかわっていることを知って納得した。おもしろいのだが、否定的。たとえば、ジクソウが「人の心を深く読めば、すべてはわかる」というようなセリフをいうのだが、これにはえーっ、という気分だった。そうであるならもう「ゲーム」ではないからだ。「ゲーム」はプレイヤーにとって不確定要素をふくむからこそ、コントロールできない部分があるからこそ、「ゲーム」なのだ。これでは「私は人殺しはしない」というジクソウの言葉が無意味になる。すべてコントロールできるのならジクソウがおこなっていることは「人殺し」にほかならないからだ。
そういう意味で「ソウ5」ではジクソウという魅力的な主人公をうすっぺらな連続殺人鬼に堕してしまった。残念だ。もっともそれが監督の差という部分もあるのかもしれないけれど、エスカレートしたシリーズの必然的なほころびだったのかもしれない。
というのも「ソウ4」にあきらかなほころびがあるからだ。整合性のとれないエピソードがあり、おかしい部分がある。けっこうだれでも気づくことだと思うのだが(わざわざググって確認していないのでわからないけど)、作品構造に関連しているので、おそらく監督は確信犯的にそのエピソードを挿入したのだろう。つまりふくれあがったシリーズが限界点に逹っしていたのではないだろうか。
「ソウ6」以降も機会があれば、観るつもりだが、さてどうなることか……。