2009年5月22日金曜日

トーマス・フリードマン「グリーン革命――温暖化、フラット化、人口過密化する世界」(上)(下)



 二十代後半からもうかれこれ二十年近く、ウィンドサーフィンをしに、本栖湖へ夏ごとに通っていたのだが――この一、二年はごぶさたしている――、いくつか不信に思ったことがある。ここ五年ほどのことだ。本栖湖の湖岸で蠅と蚊が発生し、雪のついていない褐色の表面を剥き出しにした富士山を見た。とくに蚊がいたことにはかなり不信な思いを抱いたのを覚えている。それまではまちがいなく、蚊などいなかったはずだからだ。


 よくよく考えてみると、これは地球温暖化――そんな生易しい言葉の変化ではなさそうだが――の影響なのかもしれない。


 そして、本書のような環境問題に関する本を読むと、いつも「マイ箸」についてひとり怒り心頭してしまったことを思い出す。十年ぐらい前のことだ。
 だれだったかはすっかり忘れてしまったが、ある芸能人が割箸をやめてマイ箸にした、ということをテレビでちょっと恥かしそうに、少し誇らしげにいっていたのだ。それを見たとき、ぼくは怒りに逆上しそうになってしまった……。別に当時のぼくが環境保護に反対してからでも――むしろどちらかというと環境保護主義寄りだった――、割箸の生産者でもなかったのだが。
 どうして怒り心頭したのか。
 それがうまく言葉にできないでいた。
 この本の「第9章 地球を救う二〇五の簡単な方法」を読んでようやくそれを了解することができた。
 その芸能人は環境問題の規模をかんちがいしていた――。マイ箸にする。その程度で解決するような問題ではないだろうに。何かしなければ、いけないというその思いに突き動かされたというのはわかるのだけれど、その行動を免罪符にしてもしかたがないだろう、と。むしろ割箸を使わないぐらいでわたしは行動しました、責任はありません、といっているように思えてあまりにも無責任ではないか、と感情が激してしまった……。
 マイ箸で熱帯雨林の伐採が止まるわけはない。それが前へ進む一歩だと考えること自体がおかしいだろう、と。


 それにしても著者が「冷静な楽観主義者」でいられることにある意味、羨望を覚える。この本に書かれていることを読んで(著者の知っていることの一部にすぎないのに)悲観せずに――もちろん、著者は悲観しているのだが――希望を抱けることに。
 たとえば、著者が「ベルデさんの農場」として描いているブラジルの農業で「ベルデさんは自分の農地のもっとも生産力が高い部分をいつでも存分に利用できるので、穀物の生産をほんのわずか増やすために雨林を切り拓いたり川岸の気を根こそぎにするような誘惑には駆られない」といっているが、人は二倍儲けるために、農地を二倍にすると考えるものではないか……。効率をいくら上げても二倍儲けるようにするには農地を二倍にするよりもはるかに難しいことだろうから。


 といいながら全財産をグリーンの未来に賭けるか、そうでない未来に賭けるか、と問われたならグリーンの未来に賭けるしかないだろう。それは単純にそうでない未来に賭けても何も報われない――たぶん文明は滅びる――からにすぎないのだが。