2010年3月22日月曜日

福田和代「ヴィズ・ゼロ」

ヴィズ・ゼロ

 いつか読みたいと思っていた一冊だった。
 元々、関西国際空港を舞台にしたテロものっておもしろいんじゃね? とずっと思っていたのだ。謎のテロ集団に占拠され、孤島と化した関西国際空港! 政府に突きつける12億の身代金! ――てな。映画にも小説にもなってないよなぁ、と思っていた矢先、「堀晃のSF HomePage」で福田和代の「ヴィズ・ゼロ」の存在を知った。まさにそのような作品らしい。
 読後、複雑な気分にさせられた。
 最後までおもしろかったのだが――読み終えたのだからもちろんそうだ――、ふと懸念を抱いてしまった。もしかしたら古き良き冒険小説はもう現代を舞台にしては成立しないのだろうか、と。古き良き冒険小説というのはたとえば、アリステア・マクリーンの「ナヴァロンの要塞」であり、「北極戦線」であり、デズモンド・バグリィの「高い砦」であり、ハンス・オットー=マイスナーの「アラスカ戦線」だ。第二次大戦に時代を設定すれば、可能かもしれないが、2000年以降の現代ではどうだろう、と。
 未読だけれども「プロメテウス・トラップ」のことを考えれば、作者の個性による偏差なのかもしれないのだが、「ヴィズ・ゼロ」は冒険小説的な道具だてのおもしろさよりも「ファントム」が際立っている――事実、ラストにあるように「ファントム」がかくれた主人公でもある。つまりハッカー小説のおもしろさ。

 「CORE」という映画を観たとき、確信したのだが、ハッカーは現代に蘇えった魔法使いである。勇者の物語の中で、魔法使いの役割といえる。勇者に機会をもたらすジョーカー。
 古き良き冒険小説――「大人の男のための男の物語」――は魔法使いのいない勇者の物語だ。世界には魔法などない、という苦い認識から出発した物語。だからこそ、肉体のみをたよりとする物語になる。しかし、日常の隅々までコンピュータネットワークが張り巡らされつつある現況ではフィクションの中で魔法使いとしてのハッカーが蘇えってきつつある。そのことが悪いということはまったくないのだが――そうであるなら、古き良き冒険小説――勇者のみの物語は成立しづらくなるのも当然なのかもしれない。

2010年3月8日月曜日

カール・R・ポパー「果てしなき探求 -知的自伝-」

果てしなき探求(上) -知的自伝ー
果てしなき探求〈下〉―知的自伝

 もちろんポパーを読んでみようと思ったのはナシーム・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質」の影響なのだが、「果てしなき探求」を読んでみてあらためてカール・R・ポパー「探求の論理」を読んでみよう、と思った次第だ。それほど魅力的な上下巻だった。ほかのポパーの書籍には触れたことがないのでもしかしたら、なのだが、「果てしなき探求」はポパーの思想的遍歴の入門書になっているのではないだろうか――そして、救いを得た。

 救いというのはたとえば、次のような言葉がある。転向。以前とちがうことをのべて「以前とはちがうことをいっているじゃないか」と非難される。たとえば、そのようなこと。その非難を予測してしまうと、口をつぐむしかない。自分が今、語っていることはもしかしたら無知からきているかもしれないからだ。自分が無知であることは自覚できても無知の内容は自覚できない以上、それをつねについてまわることだ。

 そして、過去をふりかえってみれば、自分の考え方がいろいろと変転をくりかえしてきていることがわかる。歳をとれば、なおのことそうだ。歳をとると過去の発言、自分が残した言葉が思考の足枷になっていることがわかる。そのことに気づくことは思った以上にすくないかもしれないが。人には現状維持バイアスがあるので過去の自分を肯定したい、という傾向がどうしてある。

 考えを変えることは悪いことだ――という無意識の圧力がある。意思を貫き通すということが肯定的にあつかわれる以上、それは否定的な圧力だ。たぶんこれは文化的なものだろう。そのように共同体から教育されてきたわけだから。

 ところが考え方は変わり得る。

 知識が追加されれば、見方が変わることは充分にあり得る。問題はそれを充分、批評的に検討した結果か、ということだ。人にはバイアスがある。意識することなく保身に走ることもよくある。別にポパーがそれらのことを肯定しているわけではないのだが、ポパーはいう。すべての理論は仮説である、と。どんなに実証されたとされる理論であっても仮説である、と考え、その反証可能性があることが科学の理論だ、という。それゆえに理論は永遠に真理の近似値でしかない。そして、科学の理論が発達するのはその反証可能性ゆえに理論が批評に晒されることによってだ、と。極端な話、実証は何の証拠にもならない、とすらポパーは考えているようだ。

 つまり自己肯定バイアスに身をまかせてポパーを拡張するならすべての考えは仮の考えでしかなく、あたらしい知識によってそれは否定され得る。また、そうでなければ、考えが前に進むことはないであろう。しかし、それは批判的に行なわれなけえばならない、と。

 いずれにしてもポパーの「探求の論理」をいつか読んでみたい。

2010年3月1日月曜日

BUFFALO Air Station NFINITI 11n/g/b USB用 無線子機 WLI-UC-GN


 iPhoneは無線LANに接続可能だ。
 その場合はあたりまえだが、softbankに回線使用料を支払う必要はない。自宅に無線LANがあるのならそこに接続してiPhoneからインターネットへでていける。そうしてクラウドコンピューティングの端末として使えることがiPhoneの魅力のひとつだろう。たとえば、パソコンの前でなくてもさっとiPhoneでアクセスできるのだ。ベットに寝転がってYouTubeを見るなんてこともできる。
 その手軽さを考えると、やはり無線LAN環境が自宅に欲しくなる。
 というわけで無線LANルーターを購入しようか、とも思っていたのだが、なにしろクライアントは今のところ、iPhoneだけだ。いくらなんでも無駄じゃね、という思いもあってルーターを買う気になれなかった。それなりの値段がすることでもあるし。
 そうやってヨドバシカメラをうろうろしていたところ、「BUFFALO Air Station NFINITI 11n/g/b USB用 無線子機 WLI-UC-GN」が目についた。なんとパソコンを親機にしてiPhoneを接続してインターネットへでていけるというのだ。おおっ、これぞ、求めていたものではないか。値段もルーターにくらべれば、安い。
 で、購入した。
 自宅に持ち帰り、取扱説明書を見て失敗したか、と思った。というのも何を書いているのか、さっぱりわからない書き方をしていたのだ。いったいどうやれば、ぼくのやりたいことができる、というのか。BUFFALOのサイトを見てみてもさっぱりわからない。ググってここのサイトのいうとおりにしてなんとか稼働させることができた現在でもこの説明書はひどすぎる、と思う。
 いずれにしても先行者がいてくれて助かった。感謝である。