2011年10月13日木曜日
エラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」
ショックだったのはエラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」がむちゃくちゃおもしろかったことだ。それ自体はいいことなのだが、問題はエラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」を読むのはこれで二度目だということだ。再読だったのだ。うわー、こんなにおもしろかったっけ?
もっとも前回、読んだのはずいぶんと前、十代の頃――中学二年のときで、当時のぼくのは創元社文庫の目録片手に本格推理のジャンルを読みふけっていた。ヴァン・ダインの「ベンスン殺人事件」から手始めに、順番に。結局、中学生時代に百冊ほど、読んだ。その流れで「ローマ帽子の謎」も読んだわけだ。エラリー・クイーンはドルリー・レーンもの四冊をコンプリート。国名シリーズは「オランダ靴」ぐらいまで読んだはずだ。
それ以降は大藪春彦、筒井康隆にはまり、田中光二、山田正紀に出会い、SF、冒険小説、ハードボイルド路線へ転換してしまった。夢枕漠のキマイラシリーズがはじまったころだ。
こまったことにエラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」がこんなにおもしろかった記憶がない。つまらなかったわけじゃないのはまちがいないのだが、あまり感銘を受けなかったような気がする。中学の授業中に教科書で文庫本を隠して読んでいた記憶があるからそれなりにおもしろかったのだろうが。
おかげで作品の内容については全然、記憶に残っていなくておかげでほとんど、はじめて読む状態だったのだが――その結果、あまりのおもしろさに読むのをやめることができなくなった。こんなにリーダビリティが高かったっけ、と思いながら読みつづけた。なんとなく本格推理小説というものはリーダビリティはなく、最後の探偵の推理で、急におもしろくなる、と思いこんでいた。なんでそう思いこんでいたのか、不明だが――何かに毒されていたのだろう。松本清張か?
つまりだ。ぼくは当時、ちゃんとミステリが読めてなかったのではないだろうか……。まったくガキがいきがって本を読んだふりをしていただけだったのか。
2011年10月11日火曜日
ヨン・アイヴィデ リンドクヴィスト「MORSE モールス」
ヨン・アイヴィデ リンドクヴィスト「MORSE モールス」を読んで確信したのはマット・リーヴス監督「モールス」は小説をベースにしたものというよりトーマス・アルフレッドソン監督「ぼくのエリ 200歳の少女」をリメイクしたものだ、ということだ。そして、小説の過剰性というものについて考えさせられた。
マット・リーヴス監督「モールス」はどちらかというと、よくできた短編小説のような味わいだったが、もちろん「MORSE モールス」は長編小説だ。しかも上下二巻とかなり長い。そのせいか、「ぼくのエリ 200歳の少女」はデ・チューンしたような印象が強かった。プロット的にもバランスが悪く、唐突感もある――エリ(アビー)の部屋に侵入者がやってくるとき、ドアの鍵がなぜか、開いているのだ。あれ、と思うが、小説版はもちろん、その部分はそうなる状況をつくり、抜かりなく描写されているし、「モールス」では侵入者はドアを蹴破ってくる(そのため、侵入者が警官だという設定が効いている)。
それにしても小説版はなんという過剰性だろう。
もちろん、映画には時間制約があり、元々、長編小説の映画化ということに関しては不利であることはまちがいない。そうやって考えると、映画というのはよくできた短編、という趣きを持つものなのかもしれないが――そうすると、長めの短編小説というのは市場的には不利なのかもしれない。
「モールス」「エリ」がうまいのは小説の半分のストーリーに焦点を当てているからだ。もう半分――ゾンビストーリーの部分はあっさりと捨てられている。そのため、ゾンビストーリーに属していたトンミと警官の部分は「エリ」では捨てられている(逆に「モールス」は警官の部分をヴァンパイヤストーリーの方に組みこみ、男女の恋愛部分をカットしている)。
しかし、「エリ」のシーンのすばらしさもある。最後のプールのシーンだ。あれは小説版には状況はあるが、描写はほとんどなく、小説的なやり方で処理している。しかし、映画版(「モールス」も同じく)では水中のシーンからプールサイドで起きている惨殺を描写するという、まさに映画でしか、できないようなシーンを構成している。あのシーンだけでもまさに一見の価値あり、といえるほどだ。あのシーンはすばらしい。そして、たぶん個人的な趣味もあるが、「モールス」よりも「エリ」の処理のしかたの方が鮮かだ。もっとも「エリ」ではそのあと、エリ(アビー)の顔のアップを挿入しているが、そこの部分だけは「モールス」の処理の方がいい。あの瞬間、エリ(アビー)がどんな異形でいるか、観客は想像せざろう得ないからだ……。「エリ」でも顔のアップだけを採用することでそれを感じさせようとしているが、「モールス」よりもやや効果が落ちている。両足だけがすこしだけ映る「モールス」の方がそれを感じさせる。
そういう意味でも「モールス」は「エリ」をベースにして不満だったところを監督が丹念に補強したもの、といえる。完成度を高めた。
プールのシーンは小説ではまさに小説としての処理をしているというか、映画ではよくよく考えるとおかしい点を仕掛け(サスペンス)にしてしている。つまりエリ(アビー)は本当は体育館に入れないはずなのだ。まねかれていない以上。まねく人間もプールから追い出されている(小説ではかなりの人間が目撃者として残っている)。もちろん、水中のシーンの鮮かさがあり、それゆえにシーン的には入れていないだけ、という風に映画ではされているわけだが。
バスルームのシーンもすばらしい。
単純にあのシーンだけなら映画の方が小説のそれよりも印象的だ。「エリ」よりも「モールス」の方がよい。蛹を想起させるあのシーンを観て、おおっ、「ボディ・スナッチャー」と思ったほどだった。マット・リーヴス監督は意図的に「ボディ・スナッチャー」のイメージを取り込んだのではないか。
そして、エリ(アビー)の被害をうけた女性が陽を浴びて死ぬシーンの意図が二本の映画と小説では微妙にちがう。「モールス」はシンプルにバスルームのシーンの伏線としている。「エリ」は原作のシーンの映像化にしかすぎないが、小説はストーリー的に必要だからだ。「モールス」がよくできた短編小説のようだ、というのはそういう部分だ。夾雑物を除き、バスルームのシーンのサスペンスを高めるための伏線としている。(病室のシーンとバスルームのシーンが同じような色調でつくられているのは意図的なものではないだろうか)
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